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第三章 そもそも写楽(写楽の研究Ⅰ)〈9〉

     5



「ねえ、お兄ちゃん。そもそも、写楽ってどうして寛政6[1794]年5月にどど~ん! とあらわれたわけ? めでたいお正月とか歌舞伎の顔見世にあわせて11月とかならわかるけど、気鋭の大型新人プッシュするのに、五月ってなんか中途半端じゃなくない?」


「え!? 云われてみればそうですね。そんなのかんがえたことなかったかも……」


 佳純(かすみ)の呈した疑問にまどかクンが沈思した。


「当時の興行はすべて控櫓(ひかえやぐら)の三座で、云わば歌舞伎の低迷期だったんですよね? それなのに、ふだん役者絵に描かれることもないような下位の役者まで大首絵に描いてたりするのは、たしかにふしぎです」


 日ごろ勉強している自分より酔いどれミニスカポリスのほうがするどいツッコミをみせることに妙な対抗心をもやしたまどかクンがなけなしの知識で応じた。


 幕府から江戸で歌舞伎の興行をみとめられていた劇場のことを江戸三座と云う。中村座・市村座・森田座である。


 しかし、その三座が経営難などで興行不可能な場合に代行をみとめられたのが控櫓(ひかえやぐら)の三座、すなわち都座・桐座・河原崎座である。


 天明の大飢饉にともなう不況と寛政の改革のあおりをうけて客足の激減した江戸三座は経営難におちいり、寛政5[1793]年までにすべて控櫓(ひかえやぐら)の三座へとってかわる。


 一方で歌舞伎役者の年俸は天井知らずにはねあがっていた。当時の最高年俸は三代目瀬川菊之丞(せがわきくのじょう)の900両である。


 芝居をかけても客足はすくない。客をよびこむためには人気役者が必要となる。人気役者へたかい年俸をはらえば劇場は資金難になる。役者の年俸ばかりが問題ではないが、正規の江戸三座は二律背反(アンビバレンツ)な負のスパイラルにおしつぶされてしまったのだ。


 役者の質や芝居の質が低下したための低迷だったわけではない。だからこそなんとかして江戸歌舞伎を盛りたてる必要があった。さて、どうしよう? と云うのが、寛政6[1794]年である。


佳純(かすみ)の云ったことってなかなか本質をついてると思うんだけど、それに言及した写楽研究書って、おれも今まで読んだことない」


「わからないってことですか?」


 軽蔑(けいべつ)のまなざしをうかべたまどかクンへ私はチッチッとハードボイルドに指をふった。


「わからなければ自分でしらべる、かんがえるってのが学問てもんだぜ、おじょうちゃん」


 私は『殺しの烙印』の宍戸錠かポルコ・ロッソな森山周一郎を気どってみせたが、骨折ギプスのジャージ姿ではいまいち決まらなかった。


「……てことはわかってるんだ? もったいつけずにさっさとおしえなさいよ」


 ミルクレープさいごの一口をテキーラでながしこんだ佳純(かすみ)にすわった目つきでにらみつけられた。見ているこちらが胸やけしそうだ。


「『曾我祭(そがまつり)』さ」


「「……『曾我祭(そがまつり)』?」」


 まどかクンと佳純(かすみ)が異口同音に首をかしげた。まあ知らなくて当然か。


曾我祭(そがまつり)』は江戸時代に江戸三座でおこなわれたイベントのひとつである。


 宝暦3[1753]年、中村座の春狂言『傾城嵐曽我』が大入りをとってから、毎年1月に三座とも曾我(そが)兄弟の討入(うちい)りをモチーフにした「曾我(そが)狂言」をかけるようになる。


 そして、その狂言があたると、曾我(そが)兄弟が討入りをおこなった5月28日に各劇場で「大ヒット御礼感謝祭」をもよおした。


曾我祭(そがまつり)』は舞台上や楽屋でいろいろおこなうのだが、さいごに劇場をとびだし、さまざまな趣向の練物や踊りなどをみせながら町内をパレードした。


「寛政6[1794]年の5月27日、都座と桐座が例年にないほど華々しい『曾我祭(そがまつり)』パレードをおこなって好評を博した」


 役者だけでなく裏方まで派手な衣装を身にまとい「松ヶ枝踊、雀おとり、女夫おとり、住吉おとり、角力おとり、其他色々趣向仕候(そのほかいろいろしゅこうつかまつりそうろう)」(『歌舞伎年表』)だったらしい。


 結果として、興行主とスポンサー(名代主と仕打)がきつく幕府のお(とが)めをうけた。役者の年俸にも目をつけられ、上限を500両とさだめられた。下位の役者にダメージはないが、人気役者は大損である。


 まさに身を切る覚悟でのぞんだ(?)起死回生の一大イベントと云えよう。


 写楽の版元である耕書堂・蔦屋重三郎はこのイベントに連動したメディア・ミックスで大々的に写楽を世におくりだした。


「『曾我祭(そがまつり)』の壮大なパレード計画をききつけた蔦重が歌舞伎界へ『プロジェクト写楽』をもちかけたんだろう。彼は出版のCM効果をだれよりも熟知してた男だからね」


「どう云うことですか?」


 蔦屋重三郎(寛延3~寛政9[17250~97]年)は吉原生まれの遊郭育ちである。彼が一代で耕書堂を小さな書肆(しょし)店から大出版社にまで急成長させる(いしずえ)をきづいたのが『吉原細見』と云う遊郭のガイドブックだった。今風にざっくり云うと風俗情報誌である。


 江戸の庶民はもちろん、地方から参勤交代ででてきた右も左もわからない武士も『吉原細見』片手に遊郭をあるけば一見(いちげん)の田舎侍とバレないかもしれないし、おかしな店でぼったくられる不安もすくなくなる。


 よい遊女をかこう店を『吉原細見』で紹介すれば店は繁盛するし、店が繁盛すれば『吉原細見』の信頼度もあがる。


 こう説明するのがてっとりばやいのだが、まどかクンの前で「よい風俗嬢が……」なんて比喩を用いれば痛くもない腹をさぐられ、ことさら軽蔑されるのは火を見るよりあきらかである。そこで私はこうたとえた。


「旅行ガイド誌のグルメ情報みたいなもんさ。旅行ガイド誌に紹介されていたお店がほんとうにおいしければお店は繁盛するし、ガイド誌の信頼度も増す。ウィンウィンの関係ってやつだ」


 まずは奇抜な写楽絵で興味をたきつけ『曾我祭(そがまつり)』の華々しい無料パレードで、ふだん劇場へ足をはこばない民衆にまで歌舞伎を大々的にアピールしたと云うわけである。


 ふつうの役者絵には描かれない下位の役者を多くとりあげたのも歌舞伎の知名度を底上げするためだ。舞台上では出番のすくない役者でも浮世絵でなら出番の多寡(たか)にかかわらず注目させることができる。

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