第三章 そもそも写楽(写楽の研究Ⅰ)〈8〉
彼女が提示したのは、『浮世絵類考・嵐山本』(文政4[1821]年)の現代語訳だった。
「二代目北斎
写楽 東洲斎と号す 俗名金次
是また歌舞伎役者の似顔を写せしが、あまりに真を画かんとてあらぬさまにかきなせしゆえ、長く世に行ハれずして一両年にて止めたり、隅田川両岸一覧の作者にて、やげん掘不動前通りに住す」
「へ~、ほんとだ。二代目北斎とか書いてある」
佳純はすなおに感心したが、私は冷静に指摘した。
「ウィキペディアなんかもそうだけど、悪意なく思いこみでまちがったことを書きこむ人なんてごまんといるよ」
『隅田川両岸一覧』は北斎の描いた版本で代表作のひとつとされる。「二代目北斎」の作品ではない。
北斎が「薬研掘不動前通りに住んでいた」と云う史料はないが、掃除をきらい、部屋の汚れが天元突破するたびに引越しをくりかえし、生涯に93回も居場所をかえたと云う北斎のことだ。薬研掘不動前通りに住んでいた可能性もむげには否定できない。
しかし、ほかにもよけいな記述がのこる。「俗名金次」である。北斎の俗名は「鉄蔵」であり「金次」ではない。
かつて、歌舞伎評論家の渡辺保氏は「俗名金次」と云う記述などから、写楽の正体を上方の歌舞伎脚本家・篠田金治としたわけだが、篠田金治が北斎でない以上、牽強付会のそしりはまぬがれえない。
そんなわけで『浮世絵類考』の決定版と云える、斎藤月岑『増補浮世絵類考』にそれらの記述はないし、まどかクンの提示した『浮世絵類考・嵐山本』は写楽研究者から黙殺されている。至極当然と云えよう。
「ただ、写楽と北斎を混同した人の気もちもわからなくはないんだ」
「どゆこと、お兄ちゃん?」
「写楽〈第3期〉には、追善絵の『二代目市川門之助』と2枚の武者絵、大童山と云うチビッコ力士を単体で描いた2枚の相撲絵があるんだけど、この5枚はどうひいき目に見ても完全に北斎のタッチなんだ。武者の顔や鬼の描写が北斎そのもので、写楽の要素はまるでない」
「やっぱり、そうですよね!」
と、まどかクンが目をかがやかせた。こればかりは素人にも一目瞭然である。
そこから敷衍して「写楽=北斎説」をとなえた研究者もいたが、写楽の画技が〈第3~4期〉でおとろえていくのに、当時、俵屋宗理を襲名した北斎は肉筆美人画でしだいに画技と知名度をあげていく(ちなみに北斎がブレイクするのは宗理から北斎辰政に改名した享和[1801~04]年間からだ)。
当時の北斎には、まだ写楽〈第1期〉の作品を描くだけの個性や技量はない。
写楽が世にでる1年前、寛政5[1793]年までに描かれた北斎の役者絵を見ても、女形の役者はすべてたんなる美人画で顔を描きわけようと努力する気配すらない。
また、改名魔で自分の古い画号を弟子に売っていたと云う北斎だが、自己顕示欲は人一倍強く、改名したことでだれだかわからなくなることをおそれて「北斎改為一」などと署名していたほどである。
そんな彼に写楽だった前歴をかくす必要はない。むしろ写楽として大ブレイクしたのなら、嬉々として「写楽改宗理」などの落款を使用したはずだ。
「写楽=北斎説はありえないけど、すくなくとも追善絵の『二代目市川門之助』と武者絵と大童山の5枚は写楽の役者絵と切りはなしてかんがえるべきだ」
「北斎が写楽になりすますなんてアリなんですか?」
「前例がないわけじゃない。銅版画家の司馬江漢も若いころは版元公認で亡くなった鈴木春信の代作(贋作)を描いてたことがあるって云うから、蔦屋重三郎は「二代目北斎」じゃなくて、北斎を「二代目写楽」にしようとしていたのかもしれない。写楽の二代目が北斎と云う意味で「二代目北斎」……って云うのは、ちとムリか」
「ホンモノの写楽が生きてるのに北斎を代役に立てるなんておかしくないですか?」
「まあね。でも内田千鶴子氏の研究によると、本職が阿波藩の能役者だった斎藤十郎兵衛は1年勤務して1年休みって云うシフトだったらしい。寛政6[1794]年は休みで浮世絵を描くヒマがあったけど、翌年は本業に忙殺されて浮世絵を描いているヒマなんてなかったのかもしれない」
「だったら、そこはふつうにお休みしててよかったんじゃないですか? ……まあ、実際に消えちゃったわけですけど」
「当時まだブレイクしていなかった春朗(北斎)名義の役者絵と写楽名義の役者絵ならどちらが売れるか? って云う版元の皮算用だったんだろうけど……」
「写楽の影武者なんてやってられるか! てなわけで、北斎は俵屋宗理を襲名して浮世絵からちょっち足をとおざけたのかもね~」
佳純が冗談めいた口調でなかなかするどい指摘をした。今でこそ美術の門外漢を決めこんではいるが、昔はよく私や華響院などと一緒に美術館へ足をはこんだ。「門前の小僧、習わぬ経を読む」のココロだ。
北斎は安永8[1779]年から寛政5[1793]年の14年間で60枚ちかい役者絵を描いている。
しかし、写楽の代作(贋作)を描いたあと、北斎は90歳で亡くなる長い画業のなかでまったくと云ってよいほど役者絵を描いていない。
写楽の存在、と云うより写楽の代作(贋作)を描いたことで北斎の心に生じたなんらかの想いが彼を役者絵からとおざけたと思っているのだが、もちろん真相はやぶのなかであり、こたえのでない問題をこれ以上詮索するつもりもない。




