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第三章 そもそも写楽(写楽の研究Ⅰ)〈7〉

「東洲斎って号は写楽の本名・斎藤十郎兵衛(さいとうじゅうろうべえ)の「さいとうじ(し)ゅう」までを組みかえてつくったアナグラムなんだ。斎藤の藤を東へおきかえて、東斎ってひっくりかえしただけだと語感がわるいから、なかに洲をはさんで東洲斎」


「そうなんですか!?」


「ウソ」


友紀(ともき)さん、ほんっとムカつく!」


 私の冗談を真にうけたまどかクンを兄妹で笑った。斎藤をひっくりかえして東洲斎って云うのは完全なる口からでまかせだが、云ってみたあとで「ちょっとありそうかも」と思った。


「写楽の本名って「斎藤さんだぞ!」なんだ? そう云えば、写楽の正体はだれそれみたいな説とかけっこうなかったっけ? 北斎とか歌麿とか応挙とか一九とか」


 佳純(かすみ)の言葉に私はうなづいた。


「一時期は雨後のたけのこみたいに30ちかい「写楽○○説」があったけど、今はお寺の過去帳なんかで斎藤十郎兵衛(さいとうじゅうろうべえ)の実在したことが確認されて、東洲斎写楽=斎藤十郎兵衛(さいとうじゅうろうべえ)をうたがう者はいない」


斎藤十郎兵衛(さいとうじゅうろうべえ)(宝暦11~文政3[1761~1820]年)。阿波藩の能役者(喜多地流地謡(じうたい))である。


 東洲斎写楽は、寛政6[1794]年5月に28枚と云う膨大な数の大判浮世絵でキラ星のように登場し、およそ10ヶ月後(寛政6年は(うるう)月で13ヶ月あった)の寛政7[1795]年1月にひっそりと姿を消した。


「『浮世絵類考』に書きしるされていたんですから、当時の人たちは写楽の正体を知っていたんですよね?」


 私はまどかクンの生半可な知識に首をふった。


「さいしょに大田南畝(おおたなんぽ)が浮世絵師の略歴をまとめた『浮世絵類考』を書いたのが、寛政12[1800]年。それに笹屋邦教(ささやくにのり)や山東京伝が浮世絵師の系列だの補足なんかを書きそえて一冊の書物のまとめたのが文政元[1818]年だそうだ。でも、その時点で写楽の氏素性はしるされていない」


 写楽が姿を消してから23年後である。


 漢詩・狂歌で時代を牽引した大田南畝(おおたなんぽ)や、戯作者・読本作家として名をはせた山東京伝は写楽絵の版元である耕書堂・蔦屋重三郎と昵懇(じっこん)であった。


 山東京伝は、寛政3[1791]年に蔦屋重三郎の耕書堂から販売した『仕懸文庫(しかけぶんこ)』の洒落本三部作で幕府から「奢侈(しゃし)品である」と(とが)をうけ、手鎖50日の刑をうけた。蔦屋重三郎も財産を半分没収されている。


 写楽活動期、大田南畝(おおたなんぽ)は幕臣へ転身していたが、山東京伝は耕書堂から黄表紙などを数冊出板している。


 それほどのあいだがらでありながら写楽の氏素性を書きしるしていないと云うことは、山東京伝が写楽の正体を知っていたにしろ知らなかったにしろ、耕書堂のトップシークレットだったことにまちがいない。


『浮世絵類考』の写楽の項には端的にこう書かれている。有名な一節だ。


「歌舞伎役者の似顔を(うつ)せしが、あまりに(しん)(えが)かんとて、あらぬさまにかきなせしかハ、長く世に(おこなわ)れず、一両年にて()む」


 さらにつけくわえるなら、大田南畝(おおたなんぽ)が文政元[1818]年にまとめた『浮世絵類考』は出板された書物ではない。世界に一冊しかない私家版(手製本)である。


 好事家たちがそれを借りうけて写本するさいに自分たちの知見を書きくわえていったものが『浮世絵類考』の異本としてつたわっている。


「写楽の氏素性についてはじめて書きしるされたのは文政4[1821]年。まず式亭三馬が「江戸八丁堀ニ住ス」と書き『浮世絵類考・達磨屋伍一(だるまやごいち)本』では「写楽は阿洲侯の士にて俗称を斎藤十郎兵衛(さいとうじゅうろうべえ)といふよし栄松斎(えいしょうさい)長喜(ちょうき)老人の話()り」と紹介された」


 写楽は阿波藩の侍で、名前は斎藤十郎兵衛(さいとうじゅうろうべえ)だと栄松斎(えいしょうさい)長喜(ちょうき)老人が話していたと云うことだ。


 栄松斎(えいしょうさい)長喜(ちょうき)(生没年不詳)は、寛政~享和[1789~1804]年間に美人画を得意とした浮世絵師で、海外では歌麿より評価のたかいこともある。


 彼の美人画に写楽絵のうちわが描きこまれている作品のあることや、写楽を意識したと(おぼ)しき役者絵のあることでも知られている。


「写楽こと斎藤十郎兵衛(さいとうじゅうろうべえ)の亡くなったのが、文政3[1820]年。彼の()があけるのを待って情報解禁された可能性がたかい」


「……またウソじゃないでしょうね?」


 まどかクンが私へうたがいのまなざしをむけた。どうしてこう信用がないかな?


「しかも写楽が「阿波藩の能役者であった」と云う記述がなされるのは、天保15(功化元)[1844]年。今は文庫本でも読める、斎藤月岑(げっきん)『増補浮世絵類考』からだ」


 それとて写楽が姿を消してから、およそ半世紀後の話である。写真や映像記録すらない時代の「半世紀」が当時の人々にとってどれだけとおい昔の物語だったことか。


 これだけ長いこと正体がひたかくしにされていたと云うのも尋常ではない。


あれほど卓越した画力をもちながら、絵師ではなく無名の能役者だったことから「東洲斎写楽=斎藤十郎兵衛(さいとうじゅうろうべえ)」説は多くの美術史家や写楽ファンに猜疑(さいぎ)心をうえつけた。


 しかし『浮世絵類考』はオタクによるオタクのためのオタク本である。成立過程をかんがみればウソを書きのこす動機や必然性がない。


「あ! でも『浮世絵類考』の異本には写楽と北斎を混同してるものもあるじゃないですか!」


 まどかクンが立ちあがると、玄関わきにおいたバッグからA4サイズのルーズリーフをとりだした。彼女は写楽関係の資料をプリントしてスクラップしていた。


 まだ「ふたりの菊之丞(きくのじょう)野塩(のしお)」のナゾには気づいていないようだが、まじめに勉強しているらしい。

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