【23話】蜘蛛の勇者
今回は竜美が主人公です。
夜の都内、駅前通り。
昼の喧騒が少しずつ遠のき、
仕事帰りの人波だけが、静かに流れていく。
ネオンは灯っている。
けれど、騒がしい繁華街というより――
少しだけ疲れた人たちが、足早に通り過ぎる場所。
その一角で大きなステージも、照明もなく壁際に。
古びたアンプ。
古びたスツール。
マイク一本での路上ライブ。
歌っているのは――竜美。
黒のジャケット
小さな声。
立ち止まる人は、まだ少ない。
竜美は気にしない。
チューニングを確かめ、
夜風の中、そっと弦を鳴らした。
……爪弾く音。
優しい。
意外なほど、優しい。
「……へぇ」 通りすがりの会社員が、少しだけ振り向く。
竜美は目を閉じた。
そして、歌う。
「――今日がもし、 少しだけ苦しかったなら――♪」
静かな声。
叫びじゃない。
吠えるでもない。
胸の奥、
誰にも見せない場所に、
そっと触れるような歌。
「うま……」 女子高生二人組が足を止める。
「帰りたくない夜もある――♪」
「笑うだけで、疲れる日もある――♪」
ギターの音が、
駅前の雑音を塗りつぶすのではなく―
その隙間に、すっと入り込む。
足を止める人が、少しずつ増える。
買い物帰りの女性。
部活帰りの学生。
酔いの浅いサラリーマン。
誰も騒がない。
ただ、静かに聴いていた。
竜美は、派手に煽らない。
煽る必要がない。
「それでも、 ここまで来たんだろ――♪」
歌声だけで、十分だった。
「それだけで、 ちゃんと生きてる――♪」
ポロン……
最後の一音。
数秒遅れて、
パチ……パチパチ……
大きくはない。
けれど、温かい拍手。
「……よかった」 「沁みた……」 「CDとかないのかな」
竜美は少し照れくさそうに笑う。
「……どうも」
チャリン。
硬貨が入る。
それをきっかけに、次々と。
チャリン、カラン、パサッ。
小銭。
千円札。
中には一万円札まで。
「また歌って!」
「次いつ来るの!?」
竜美は驚きながらも、何度も頭を下げた。
やがて人波が引き、夜も少し静けさを取り戻す。
竜美は、歌い終えた余韻を胸に残したまま、静かに時箱を引き寄せた。
箱の中には、ぎっしりと詰まった硬貨。
折りたたまれた札。
思っていた以上の重み。
「……ありがと」
誰に向けるでもなく、小さく呟く。
チャリン……
硬貨をひとつずつ拾い、慣れた手つきで分けていく。
五百円玉。
百円玉。
千円札。
今日を生きる金。
明日へ繋ぐ金。
その現実的な重みに、竜美は少しだけ口元を緩めた。
「上出来……かな」
そう言って、箱の底に指を滑らせた時。
――触れた。
竜美の手が、ぴたりと止まる。
硬貨の隙間。
札の下。
そこにある、黒い封筒。
光を吸い込むような、見慣れた黒。
「……来たか」
驚きはない。
竜美はため息混じりに、その封筒をつまみ上げる。
「ほんと、趣味悪いな……」
苦笑する。
封筒を開けると、いつもの指令。
指令
【対象:蜘蛛の勇者】
【場所:ネルビオ洞窟】
【罪状:人間の捕食】
【任務:――抹殺】
夜風が髪を揺らす。
駅前のざわめきの中、
竜美だけが少しだけ鋭い目になる。
歌姫の顔が消え、
胸の奥で、別の自分が目を覚ます。
竜美は路地裏の最奥で足を止めた。
人気のない壁の前。
次の瞬間――
空気が歪み、壁が静かに“裂けた”。
黒でも光でもない、ただの空隙。
「……行くか」
竜美は一歩だけ踏み出す。
世界が反転し、視界が白に切り替わった。
そして、そのまま異世界へと落ちていく。
竜美が白の中を抜けると、重力が戻る感覚と同時に、足裏に硬い感触が走った。
ザッ――
着地した場所は、薄暗い洞窟の中だった。
湿った空気。
滴る水音。
遠くで風が抜けるような低い響き。
前方の闇が動いた。
「……誰だ!?」
鋭い声とともに、松明の光が揺れる。
そこに現れたのは、冒険者の一団。
剣を構えた戦士。
ローブ姿の魔術師。
弓を引き絞る斥候。
警戒心むき出しの視線が、一斉に竜美へ向けられる。
一瞬の静寂。
竜美は軽く片手を上げた。
「敵じゃない」
冒険者の一人、鎧を着た男が警戒を解かずに言う。
「……あんた、何者だ?」
竜美はギターケースを軽く肩で揺らしながら、視線だけを返した。
「通りすがり」
それだけで終わらせるつもりだったが、ローブの魔術師が一歩前に出る。
「ちょうどいい。俺たちは“蜘蛛”の討伐依頼でここに来た」
「蜘蛛?」
竜美の目がわずかに細くなる。
戦士が続けた。
「元は王国の召喚儀式だ。国を守るために呼ばれた守護存在のはずだった」
「……それが?」
「暴走した」
空気が一段重くなる。
魔術師が松明を見つめたまま言う。
「最初は守護だった。だが今は違う。洞窟の奥に巣を作り、人間を“餌”として取り込み始めている」
弓を構えたままの斥候が低く呟く。
「もう依頼じゃない。災害だ」
一瞬、静寂。
竜美はゆっくりと息を吐いた。
「なるほどな」
ギターケースのストラップを指で軽く締め直す。
「で、その“蜘蛛”が今回のターゲットってわけか」
冒険者たちは一斉に頷く。
洞窟の奥から、かすかに――
何かが動く気配がした。
洞窟の奥で、空気が“粘る”ように重くなった。
「……来る」
魔術師が小さく呟いた、その瞬間だった。
ズゴォォ……ッ
天井の闇が裂けるように動いた。
巨大な影。
次の瞬間、鋭い脚が一閃し、松明の光をかすめる。
「っ――!?」
斥候が反応するより早く、白い糸が弾けた。
シュバッ!
「う、わぁぁっ!?」
冒険者の一人が、宙へ引きずり上げられる。
蜘蛛。
人の数倍はある異形の巨体。
硬質な外骨格が、松明の光を鈍く反射していた。
「くそっ、来たか!!」
戦士が剣を抜く。
だが次の瞬間――蜘蛛は獲物を抱えたまま、壁を蹴って後退した。
「待て!!」
魔術師が魔法を放つより早く、蜘蛛は闇へと滑り込むように消えていく。
残されたのは、断ち切れた糸と、揺れる空気だけ。
「……持っていかれた」
戦士が歯噛みする。
すぐに彼らは竜美へ視線を向けた。
警戒は解いていない。むしろ強まっている。
「悪いが、あんたは関係ない。ここから先は俺たちの仕事だ」
戦士が低く言う。
「ついてくるな」
魔術師も続ける。
「巻き込まれたくなければ、ここで引き返せ」
洞窟の奥からは、まだ微かに――蜘蛛が引きずる何かの音が響いていた。
竜美は少しだけ目を細める。
「……縁、か」
ぽつりと呟いた。
ギターケースを軽く持ち直し、闇の奥を見る。
「ここまで揃ったなら、関係ないってのも無理あるだろ」
戦士が舌打ちする。
「勝手にしろ。邪魔はするなよ」
竜美は小さく頷いた。
「しないぜ」
そして、蜘蛛が消えた闇へ歩き出す。
冒険者たちも遅れて続いた。
洞窟の奥へ進むほど、湿った空気が濃くなる。
足音と水滴の音だけが続いていた。
竜美は歩きながら、ふと違和感に気づく。
「……ん?」
後ろの気配が、薄い。
いや――薄いどころじゃない。
消えている。
立ち止まる。
振り返る。
松明の明かりはあるはずなのに、そこには“誰もいない”。
「……おい」
返事はない。
さっきまで確かにいた冒険者パーティーの気配が、まるごと抜け落ちている。
洞窟の静寂だけが残る。
竜美は舌打ちをひとつ落とした。
「面倒なやつだな……蜘蛛」
闇の奥から、かすかに糸が擦れる音がした。
闇の奥で、空気が一瞬だけ“跳ねた”。
来る。
竜美は反射で横へ滑るように身をずらした。
次の瞬間、白い糸がさっきまで立っていた場所を貫いた。
シュッ――!
床の石が一瞬で絡め取られ、音もなく砕ける。
「……今のは危ねぇな」
低く呟く竜美。
ギターケースのストラップを押さえたまま、視線だけを闇へ向ける。
そこにいた。
蜘蛛。
天井に張り付き、逆さまのままこちらを見下ろしている。
だが、攻撃の“圧”が薄い。
獲物を潰すというより――確認するような動き。
竜美は一歩も踏み込まない。
蜘蛛も、もう一度糸を撃たない。
数秒。
ただの沈黙。
やがて蜘蛛は、ゆっくりと脚を引いた。
「……逃げるのか」
竜美がそう言うと、蜘蛛は答えない。
だが、その動きは“撤退”に近かった。
名残惜しそうに、天井の闇へと溶けていく。
最後に残ったのは、細い糸が空中で揺れる音だけだった。
竜美は、蜘蛛が消えた闇を見つめた。
「……殺る気が薄い?」
違和感が残る。 普通の魔物なら、あのまま追撃してくる。 だが蜘蛛は、まるで試すように攻撃して引いた。
その時――
「……たす、け……」
横穴の奥から声。
竜美が進むと、そこには糸で拘束された冒険者たちが吊るされていた。
「無事だったのか……!」
戦士が驚く。
「そっちは捕まってるじゃねぇか」
軽く返しながら、竜美は糸に触れる。 異様に硬い。
その瞬間。
カサ……カサカサ……
闇の奥で大量の気配。
赤い目が、次々と浮かび上がる。
「チビ蜘蛛か」
群れが一斉に襲いかかった。
竜美はギターケースから、黒いピックを取り出す。
指で弾く。
――シュンッ!!
放たれたピックが、一直線に蜘蛛を切り裂いた。
そのまま空中で弧を描き――
バシュッ! バシュッ!
次々と別の蜘蛛を貫いていく。
「なっ……!?」
冒険者たちが目を見開く。
そして最後に、 黒いピックはブーメランのように竜美の手へ戻った。
パシッ。
竜美は静かに受け止める。
カサ……カサカサ……
小蜘蛛を切り裂きながら、竜美は違和感に眉を寄せた。
「……静かすぎる」
その瞬間だった。
「――がァァッ!!」
糸に吊るされた戦士の身体に、 巨大な影が張り付いていた。
蜘蛛の勇者。
人型に近い上半身。 だが下半身は巨大な蜘蛛そのもの。
長い牙が、 戦士の首筋へ深く突き刺さっていた。
ジュルルル……
「ぐ……ぁ……」
戦士の身体が、 目に見えて萎んでいく。
血ではない。
体液そのものを吸われている。
皮膚が乾き、 目が落ち窪み、 数秒でミイラのように変わっていく。
「っ……!」
竜美が黒いピックを放つ。
シュンッ!!
だが蜘蛛の勇者は、 天井へ跳んで回避した。
その間にも、 魔術師へ牙が突き刺さる。
ジュウゥ……
「ぁ……あ……」
助けを求める声すら、 途中で消える。
次々と、 冒険者たちの身体から命が吸い尽くされていった。
やがて、 糸に残ったのは干からびた死体だけ。
蜘蛛の勇者は天井に張り付きながら、 赤い眼で竜美を見下ろす。
口元には、 まだ赤黒い液体が垂れていた。
竜美の目が冷たく細まる。
「……胸クソ悪ぃな、お前」
蜘蛛の勇者は、天井に張り付いたまま竜美を見下ろしていた。
赤い眼が、静かに細まる。
「……あなた、普通の人間ではないですね」
低い女の声。
不気味なほど落ち着いている。
竜美は黒いピックを指で回した。
「そっくりそのまま返すぜ」
その瞬間――
シュバァッ!!
洞窟中から糸が弾けた。
「っ!?」
避けるより早い。
白い糸が竜美の腕、脚、胴へ一瞬で巻き付く。
ギチギチギチッ!!
「……チッ」
壁へ叩きつけられる竜美。
糸がさらに締まり、 身体の自由を奪っていく。
蜘蛛の勇者は、 ゆっくり天井から降りてくる。
カサ…… カサ……
人の上半身。 蜘蛛の下半身。
その異形が、 竜美の目の前で止まった。
「抵抗しないのですね」
竜美は薄く笑う。
「美人に縛られるの、嫌いじゃねぇからな」
蜘蛛の勇者の目が、 わずかに揺れた。
糸に縛られたまま、竜美は小さく息を吐いた。
「確かに硬ぇな」
ギチギチと締まる蜘蛛糸。
だが次の瞬間――
パシッ。
竜美の指の間に、 黒いピックが戻ってくる。
蜘蛛の勇者の目が細まった。
「……?」
竜美はそのまま、指先だけでピックを滑らせる。
シュッ――
絡みついた糸が、音もなく切れた。
「なっ……!?」
蜘蛛の勇者が目を見開く。
切断された糸が、 力を失って床へ落ちる。
竜美はゆっくり立ち上がった。
「悪いな。俺の得物、結構切れるんだ」
蜘蛛の勇者が、初めて動揺を見せる。
「ありえない…… その糸は、ミスリルの剣ですら切れないのに……!」
竜美は黒いピックを指で弾いた。
キィン――
鋭い音が洞窟に響く。
「なら、相性が悪かったな」
「……ならッ!」
蜘蛛の勇者が一気に距離を詰める。
鋭い脚が、 竜美の喉元へ突き出る。
だが――
ピタリ。
止まった。
「……え?」
蜘蛛の勇者の目が揺れる。
身体が動かない。
脚も、 腕も、 まるで見えない何かに固定されたように止まっていた。
竜美は静かに指を鳴らす。
カチッ。
その瞬間。
洞窟中に張り巡らされていた黒い線が、 一斉に浮かび上がった。
「っ……!?」
黒いピックが飛び回った軌道。
それは攻撃じゃない。
“拘束”。
少しでも動けば、 全身が切り裂かれる。
竜美は黒いピックを指で回した。
「……相手を縛るのは、蜘蛛だけの特権じゃないんだよ」
蜘蛛の勇者の動きが止まったまま、声だけが震えた。
「……待って」
さっきまでの冷酷さが剥がれ落ちるように、 初めて“焦り”が混じる。
「殺さないで……」
竜美は指先を止めないまま、静かに見下ろす。
蜘蛛の勇者は、喉を震わせながら続けた。
「私は……元は人間だった」
洞窟の空気が少しだけ変わる。
「モデルだったんです。事故で死んで……気づいたら、こんな化け物に転生してた」
糸がわずかに揺れる。
「最初は……何もできなかった。人間の姿じゃないってだけで、全部壊れた」
赤い目が、揺れる。
「だから……呼び出した人間たちを、許せなかった」
声が低くなる。
「こんな身体にした世界なら……全部、同じ目に遭えばいいって……思った」
沈黙。
小さな水滴の音だけが響く。
竜美はすぐには答えなかった。
ただ、ピックを軽く回す。
「……で?」
蜘蛛の勇者が息を呑む。
竜美の目は冷たいままだ。
「それで“食っていい理由”には、ならねぇだろ」
空気が一瞬、張り詰める。
黒い線が、かすかに軋んだ。
そして、糸に浮かび上がる黒い線へ指を伸ばす。
「暴走したノイズは、俺が斬る」
カチッ。
指が軽く動いた瞬間――
ズバァァッ!!
空間に張り巡らされていた“見えない糸”が一斉に引き絞られた。
蜘蛛の勇者の目が見開かれる。
「――っ、待っ……!」
だがもう遅い。
ギチギチギチッ!!
糸が収束し、 空間そのものが“切断面”に変わる。
次の瞬間。
ズシャァァッ!!
蜘蛛の勇者の身体が、 無数の断面に分かれて崩れ落ちた。
天井から落ちる肉片と、 ほどけていく白い糸。
洞窟に、静寂が戻る。
竜美はピックを指で回し、ゆっくりとギターケースへ戻した。
「……終わりだな」
そう呟いて背を向けた、その時だった。
――パチ、パチ、パチ。
暗闇から、ゆっくりとした拍手。
「凄い切れ味ですね」
声が落ちる。
竜美の動きが止まる。
振り返らないまま、ピックに指を添える。
「……誰だ」
闇が揺れる、そこから現れたのは、人影だった。
整った黒いコート。 落ち着いた立ち姿。
虎の姿があった。
以前会った“監視者”。
「久しぶりですね」
その一言で、竜美の目がわずかに細くなる。
「……あの時の」
虎は小さく頷いた。
「覚えていましたか」
洞窟の空気が、少し重くなる。
竜美はピックを指で回したまま言う。
「監視者が、こんな所まで何の用だ」
虎は視線を崩さない。
「……失礼」
虎は崩れた蜘蛛の勇者を一瞥し、静かに言う。
「私はこちらに用がありまして」
虎の手が勇者の核へ触れた。
核は虎の手に収まる。
竜美は目だけを動かした。
虎は核を確認するように一度だけ見てから、コートの内側へ収める。
そして、短く言う。
「それでは」
一歩、後ろへ下がる。
洞窟の闇が、そのまま虎の背中を飲み込んでいく。
残ったのは、 水滴の音と、崩れた残骸と、 少しだけ冷えた空気だった。
竜美はしばらく闇を見てから、小さく息を吐く。
「……薄気味悪ぃな」
それだけ言うと、ギターケースを肩に掛け直す。
「……帰るか」
そう呟いて、竜美は闇の外へ消えた。
翌日の夜。
竜美はいつもの駅前で、何事もなかったように路上ライブをしていた。
静かな歌声が、通りの空気に溶けていく。
少し離れた場所では、別の路上ミュージシャンが演奏していた。
ふと見ると、昨日竜美の歌を聴いていた人たちが、 その演奏にも足を止めている。
「……あっちもいいな」
そんな声が混じる。
竜美はそれを横目で見て、 ただ小さく一言、「こっちの方の才能無いのかな俺」ポツリと呟く。
虎の目的は?




