【19話】ハーレムの勇者(前編)
昼前の営業部。
ドアが開く。
「失礼します」
入ってきた男に、何人かが顔を上げる。
すらりとした体格。
整った顔立ち。
落ち着いた雰囲気。
スーツもきちんと着こなしている。
「あら、来たわね」
上司が椅子を引きながら立ち上がる。
声が明るい。
「待ってたのよ、経理の人」
男が軽く会釈する。
「田中です」
柔らかい声で名乗る。
「今回は予算の件でお時間いただきありがとうございます」
「いいのよいいのよ、助かるわぁ」
上司が笑う。
「こっちだけじゃ限界あったのよね」
肩をすくめる。
「いえ、数字を少し整理しただけですので」
田中は控えめに答える。
「その“少し”が大事なのよ」
上司がうなずく。
「ね、正義くん?」
「はい」
正義は短く返事をする。
手元の資料をめくる。
「修正内容、確認しました。問題ありません」
「早いわねぇ」
上司が感心したように笑う。
「この調子なら、来月からの運用も大丈夫そうね」
「はい、その想定で調整しています」
田中が淡々と答える。
話はそのまま、実務の確認へと移る。
予算配分。
工程。
スケジュール。
大きな詰まりもなく、話は進んでいく。
「じゃあ、この条件で進めましょうか」
「はい、問題ありません」
軽く頭を下げる。
ひと通りの確認が終わる。
「ありがとう、ほんと助かったわ」
上司が笑顔で言う。
「いえ、こちらこそ」
田中も軽く頭を下げる。
「では、私はこれで」
「ええ、また何かあったらお願いね」
「はい」
田中が部屋を出ていく。
ドアが閉まる。
「ふぅ」
上司が一息つく。
「やっぱり経理入ると違うわねぇ」
「そうですね」
正義は資料をまとめながら答える。
「だいぶ整理されました」
「でしょ?」
上司が満足そうに笑う。
「こういうのはプロに任せるのが一番よ」
正義は小さくうなずく。
手元の資料を整える。
その時、正義のパソコンのメールが暗転する。
黒い画面。
白い文字がゆっくりと浮かび上がる。
【対象】:ハーレムの勇者
【罪状】:女性の拉致・拘束
【任務】:抹殺
正義は、無言で画面を見つめる。
「すみません、本日は定時で上がらせてもらいます」
正義は上司に言いオフィスのドアを出る。
廊下。
エレベーター。
一階。
すべて、いつも通り。
だが。
建物を出た瞬間、正義の表情が変わる。
ポケットから、小さな端末を取り出す。
――呼び出し。
「来い、琥珀」
それだけ。
数秒。
背後。
「……呼んだ?」
気配もなく、声。
振り返る。
そこには、琥珀。
「仕事だ」
正義が言う。
「対象は?」
「ハーレムの勇者。罪状は拉致」
琥珀の目が、わずかに細くなる。
「行くぞ」
正義は歩き出す。
向かう先は、人通りの少ない裏通り。
ビルとビルの隙間。
薄暗い路地裏。
足を止める。
空気が、軋む。
空間が、裂けるように歪む。
淡い光が、闇の中に滲む。
異世界への扉。
「――任務開始」
二人は、迷いなく踏み込んだ。
光が弾ける。
次の瞬間。
足元に、土の感触。
「……村か」
正義が周囲を見渡す。
古びた家屋。
ひび割れた地面。
人の気配はあるのに、妙に静かだ。
「……ねえ」
琥珀が小さく言う。
そのとき。
――やめてっ!
女の叫び声。
一軒の小屋の方から、はっきりと聞こえた。
だが――
「戻れ! 勝手なことするな!」
別の声が重なる。
男の怒声。
そして。
「いや……村に……戻されたくない……!」
女の、必死な声。
正義の目が細くなる。
「……拉致、か?」
「でも、ちょっと変だよ」
琥珀が眉をひそめる。
「“連れ戻された”って言ってた」
正義は答えない。
ただ、小屋の方へ歩き出す。
「確認する」
正義は小屋の前に立つ。
中からは、まだ揉める声。
「離せって言ってるだろ!」
男の声。
必死だ。
「嫌っ……! 勇者様のところに戻るの!」
女の声。
涙混じり。
だが――
どこか、おかしい。
「……行くぞ」
正義は扉に手をかける。
開ける。
中。
一人の男が、女の腕を掴んでいた。
必死に、引き止めている。
「やめろ……目を覚ませって……!」
「離してよ! あの人が待ってるの!」
女の瞳は――
どこか虚ろで、熱に浮かされたようだった。
琥珀が、息を呑む。
「……これ」
小さく呟く。
「洗脳、されてる」
正義は黙って女を見る。
次の瞬間。
女が、正義に向かって踏み出した。
「邪魔しないで……!」
その目は、完全に正気じゃない。
「琥珀」
短く呼ぶ。
「うん」
一瞬。
風が揺れる。
次の瞬間。
トン、と軽い音。
琥珀の手刀が、女の首筋に入っていた。
力は最小限。
だが正確。
女の体から力が抜ける。
「……あ」
そのまま、崩れ落ちる。
男が慌てて受け止めた。
「大丈夫。ただの気絶」
琥珀が静かに言う。
男は、呆然としたまま女を抱える。
そして――
「……助かった」
絞り出すように言った。
肩が震えている。
「頼む……聞いてくれ」
顔を上げる。
必死な目。
「アイツは……勇者は……最初は、村を救ったんだ」
言葉が、重い。
「魔物を倒して、みんなに感謝されて……」
拳を握る。
「でも……いつからか、おかしくなった」
沈黙。
「女だけを、集め始めたんだ」
琥珀の表情が曇る。
「拒めば……力で従わせる」
「……」
「そして……あいつも」
腕の中の女を見る。
優しく。
苦しそうに。
「俺の……婚約者だった」
声が、震えた。
「……場所は分かるな?」
正義が問う。
男は小さく頷く。
「……ああ。村の外れだ」
「案内してくれ」
短く。
だが、その前に。
「その前に……今日は、もう夜だ」
男が言う。
外は、いつの間にか暗くなっていた。
「頼む……礼もさせてくれ」
腕の中の女を見て。
「ここに……泊まってくれ」
正義は一瞬だけ考える。
そして。
「……分かった」
夜。
静かな家。
簡素な寝床。
「……嫌な予感する」
琥珀が小さく呟く。
「いつもだろ」
正義は目を閉じる。
「……それもそうだね」
小さく笑う気配。
やがて。
眠りに落ちる。
――ギャアアアッ!!
悲鳴。
鋭く、夜を裂く。
正義の目が開く。
「……!」
すぐに起き上がる。
「下だ!」
琥珀も同時に動く。
階段を駆け下りる。
足音。
息。
そして。
血の匂い。
「……っ」
そこにあったのは。
倒れた男。
胸を押さえ、血を流している。
「ぐ……っ……」
まだ、息はある。
その前に――
女。
昼間、気絶させたはずの。
婚約者。
手には、血のついた刃物。
「いや……いやいやいや……!」
目は見開かれ。
焦点は合っていない。
半狂乱。
「なんで……なんで邪魔するの……!」
震える声。
だが、感情は歪んでいる。
「勇者様のところに……戻らなきゃ……!」
琥珀の顔が強張る。
「……完全に、持ってかれてる」
正義は、ゆっくりと前に出る。
視線は、女へ。
冷たく。
「――排除する」
正義は、一歩踏み出す。
だが。
足が、止まる。
女の顔。
涙。
歪んだ笑み。
壊れた目。
「……っ」
ほんの一瞬。
ためらい。
「正義……」
琥珀の声。
静かに揺れる。
だが。
次の瞬間。
迷いは、消えた。
「……任務だ」
低く。
踏み込む。
一閃。
音は、小さい。
女の体が、崩れる。
そのまま、動かない。
沈黙。
重い空気。
「……」
琥珀は何も言わない。
ただ、目を伏せる。
正義は振り返らない。
すぐに、男のもとへ向かう。
「……おい」
しゃがみ込む。
男は、血に濡れながら。
かろうじて息をしていた。
「……あ……あんた……」
かすれた声。
震える手。
何かを握っている。
それを、差し出す。
小さな――指輪。
「……これ……」
息が、途切れそうになる。
「……婚約……指輪だ……」
正義は黙って受け取る。
温もりは、まだ残っている。
「……頼む……」
男の目が、正義を捉える。
必死に。
「……勇者を……」
言葉が、途切れる。
「……止めてくれ……」
最後の力で、絞り出す。
そして。
そのまま――
動かなくなった。
沈黙。
静寂。
血の匂いだけが残る。
琥珀が、小さく呟く。
「……最悪」
ぽつり。
だが、その声にははっきりとした感情が乗っている。
「女を……おもちゃみたいに壊して……」
握った拳が、わずかに震える。
視線は、倒れた女へ。
「……許さない」
低く。
はっきりと。
「絶対に、あいつだけは……」
正義は答えない。
ただ。
手の中の指輪を、強く握った。
「……行くぞ」
その声は。
さっきより、わずかに低かった。
後半へ続きます。




