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そこは空虚な檻の中(後)


 薄暗い明かりの下、居酒屋の座敷の上、威勢のいい乾杯の音頭を聞きながら。


 飲み会が始まった傍から、琴音は既に途方もない後悔に苛まれ始めていた。付き合いが悪く、今まで内に引きこもって生きてきただけに、たかが飲み会、たかがコンパ。されども、これまでろくに反抗などして来なかっただけに、これしきのことでも自分は今、とんでもないことをしでかしているのではないかという、漠然とした焦燥感が琴音を内から焼き焦がす。


 不貞を働く気は微塵もなく、そもそもあくまでこれは人数合わせであり、誘われたから来ただけであって、決して悪いことをしているわけではないのだが、もし、もしも。


 このことが、恭司に知られれば――。


 そこまで考えて、琴音はひとり首を横に振った。

 知られるも何も、バレなければ意味がない。言う通りにはならないという確固たる意思を知らしめるために、柄にもなくこんなことをやっているというのに、一体何を恐れているのか。


 従順であれと、それが当然のように言い放った傲岸不遜な微笑みを脳裏に思い描きながら、琴音は机の上に置かれたウーロン茶入りのグラスを握る指先に力を込めた。


 好きにすると――恭司が琴音の就職活動を邪魔したように、琴音だって好きにさせて貰う。

 結婚はする。産めというのなら、子どもだって産んでやろう。父がそう望むのなら、家族の中で心証が悪くならないのなら、世間体が保てるのなら、琴音はそれだけで構わない。

 役目は果たす。だが、それだけだ。従順になんて、恭司の望むがままに振る舞ってなどやらない。絶対に。


 人形は人形なりに。家畜は家畜なりに。

 抵抗出来るのだということを、この身でもって示してやる。


 グラス越しに伝わる冷気の心地よさに瞼を閉ざし、琴音は数度深呼吸を繰り返す。


(――大丈夫、落ち着け。だい――)


「大丈夫? 琴音ちゃん。顔、青いよ」


 心の内を見透かしてきたかのようにタイミング良く話しかけられ、琴音は内心大きく飛び上がった。

 目を開き、まじまじと隣を見れば、いつの間に近寄ってきていたのか。一人の男が、琴音のすぐ隣に腰を落ち着けていた。

 人の良さそうな、なんとも純朴な青年だった。

 不安げに焦げ茶色の瞳を揺らし、覗き込んでくる男を前に、はじめて自分の顔色が悪化していることに気付かされる。


「……す、すみません。私、こういう場にあまり慣れていないもので……。ちょっと、緊張して……」


 一度声に出してしまえば、一気に震えが全身を覆いだす。

 怖い。最後通告だとばかりに従順であれと言った男が、琴音の愚行を知って何をしでかすか。怖い。

 琴音の逃げ道を封じ、自分の元に縛り付けるために、裏でエントリーシートをすべて弾くという強硬手段に出た男なのだ。怖い。怖い。自分で刃向かったくせに、どうしようもなく怖かった。

 

「それ、ただのお茶……だよね? ……飲める? 一度何か飲んで、落ち着いた方がいい」


「そう……ですね」


「……本当に大丈夫? ……誰か女の子呼んでこようか?」


 こういう時は同性の方がいいよねと、背をさする男の腕はどこまでも優しく、少しずつウーロン茶を喉の奥へと流し込みながら、琴音は無性に泣きたくなった。


 恭司から向けられるのはいつだって、好意と呼ぶにはあまりに恐ろしい、歪みきった冷たい眼差し。いや、あんなものが好意であるはずがない。時折丁重に琴音を扱うのだって、直後に琴音を突き落とし、絶望させるために過ぎない。恭司はいつだって、気に入りのおもちゃとして琴音を弄び、楽しんでいるだけだ。


 だからこそ、嘆かずにはいられない。


 琴音の婚約者も――恭司も、周囲にいる他の人々と同じように、無心で、何も考えず、ただ適当に、琴音に接してくれたのなら、それはどれほど。


「琴音お嬢さん」


 居酒屋の喧噪に紛れ唐突に聞こえたそれは、嫌と言うほど聞き慣れた低音だった。

 恭司のことで頭を悩ませていたせいで、幻聴が聞こえたのかも知れない。だが直後、店内を大股で闊歩し、底冷えのする無表情でこちらに向かってやってくる恭司の姿を認識して、琴音はこれが現実であることを悟った。やましいことは何一つしていないというのに、ひっと、喉元からか細い叫び声が上がる。


「お父様が呼んでいる」

 

 想定外の台詞に、どういうことかと、尋ねる暇も与えられず。


 恭司は仏頂面でそれだけを告げると、誰の許可を得るでもなく勝手に座敷へ上がり込み、我が物顔で琴音の横にしゃがみ込んだ。それまで琴音の背をさすっていた男との間に性急に割って入り、汚物を見るような目で牽制すると、軽々と琴音の体を抱き上げる。


「皆さん。琴音と――私の婚約者と、いつも仲良くしていただき、ありがとう。……では、そういうことなので。……帰るぞ」


 唖然とする周囲を完全に置き去りにして、恭司は琴音を抱きかかえたまま足早に居酒屋を後にする。

 あまりの早業に声を上げることも出来ず、琴音はぽかんと、呆気にとられた顔で恭司の顔を見上げることしか出来なかった。


 店を出、そのまま車の助手席に乱雑に琴音を放り込むと、恭司は無言で車のアクセルを踏んだ。

 ネオン輝く夜の町を走り抜けるさなか、罵倒の一つでも言ってくれればいいものを、恭司は何も語らず、そもそも琴音を見ようともしなかった。


 前を向き、淡々と車を走らせる恭司の姿には、普段琴音をあざ笑うのとは違う種類の恐ろしさがあり、琴音は沈黙の重さに耐えきれず、たまらず自分から声を掛けていた。


「……あの、お父さまが、呼んでるって」


「あんなもの、君を連れ出すための方便に決まっているだろう」


「……お仕事、は」


「部下から、誰かさんが妙な動きをしていると密告が入ったものでね。僭越ながら、切り上げさせて貰った」


 エントリーシートの件といい、監視されているのは薄々察していたが、いざ本人の口から聞くとなかなか堪えるものがあった。背を襲う寒気を理性で押さえ込み、琴音は気丈に恭司を睨み付ける。


「私はただ、友達に誘われて、飲み会に参加しただけです。あなたに責められるようなことは何も――」


「何もないと?」


 ぐっと、恭司が勢いよくハンドルを切った。

 大きく揺れた車体に、舌を噛み切らないように口を閉じた瞬間、車はゆっくりと地下へと続くスロープを降りていった。

 薄暗い駐車場の中を慎重に進み、車を止めると、恭司はようやく向き合って琴音の顔を見た。


「さて。ここでなら邪魔も入らない。――じっくり、ゆっくり、話をしようか」


 駐車場の青白い光の下、場違いにも慈悲深い微笑みを浮かべる恭司に、琴音は一人震え上がった。恭司が機嫌を損ねることは予想していた。だが、ここまでとは正直思っていなかったのが、偽らざる琴音の本心だった。


「は、なし……」


「ああ。……大人しい君にしては、なかなか大胆なことをしてくれるじゃないか。堂々と、人前で浮気とは」


「浮気なんてしてな――」


「していただろう」


 舌打ちともに、恭司が顔をしかめる。

 瞬間、一気に琴音の体は背中側へ傾いていった。

 座席の背もたれを、倒された。気付いたときには、琴音は狭い車中、恭司に押し倒される形となっていた。琴音の顔のすぐ横に腕をつき、恭司は威圧的に琴音を見下す。


「君自身飲んでいないとはいえ、酒の入った男と同じ部屋にいた。それだけだけでも腹立たしいのに、あまつさえ君は、他の男に体を触られていた。私の、目の届かないところで。……浮気以外の何物でもないと思うが」


「あれは……。……私の顔色が悪かったのを気遣ってくれただけで、それ以上の意味は、何も……」


「だとしても、許しがたい。そもそも君は、今までそういった場に顔を出したことはなかっただろう。……就職活動をやめろと言ったことに対する反抗のつもりか? だとすれば、愚の骨頂だな」


 従順であれば良かったものをと呟く恭司は、嘲りを隠しもしない。

 服の向こう、肌の下、琴音の胸の内を見透かすような鋭い眼光を前に、琴音は無理矢理冷静さを装おうとする。


「……あなたは好き勝手に、振る舞っているくせに」


 軽蔑を隠しもせずに睨み付ければ、挑発的に恭司の眉がつり上げられた。

 ただ大人しく言葉を待つ恭司を前に、琴音の脳裏に突発的に、先日愛奈に言われた言葉が過る。

 男なんてそんなもの。真面目な顔をしている男こそ、裏では何をしているか分かったものではないと。諦め混じりに言われた言葉を、失うものは何もないと、やけくそ気味に叩きつける。


「どうせ、浮気、してるくせに……!」


 ――だが、直後。

 言ってしまったと。途方もない後悔が琴音の身を蝕んでいった。

 そんなことを言っては、まるで嫉妬しているようではないかと――恭司を調子付かせるだけだと、琴音はすぐに発言を取り消そうとする。

 だが、琴音を見下ろす恭司の顔は真剣そのもので、琴音は動転していたのも忘れ、不覚にも見入ってしまった。元々顔の造形は整っているのだ。傲慢さを消してしまえば、残るのはどこまでも実直な想いだけだった。


「浮気なんて、するはずないだろう。……君がいるのに」


 思い詰めたような顔で頬に伸ばされた手を、琴音は咄嗟に振り払う。


「……っ、人を、おもちゃにして、いいように……っ、弄んでいるだけのくせに……っ!」


「心外だな。これでも私は、君を心底大事に扱ってきたつもりなんだが」


「どこが――」


「大切に、してきただろう? 一度口付けただけで、それ以降は決して手を出さず、慎重に。どこまでも、紳士的に。……今だって」


 そう言う恭司の表情は、今まで見てきたどんなものよりも甘やかだった。けれども、どうしようもなく恩着せがましい物言いに、かっと頭に血が上る。


「なに、それ」


「なんだ? ご不満か? ……初対面の時、いきなり犯しても良かったんだぞ」


「そんなの、お父さまが許すわけ……」


「とうの昔に、許可は頂いている。……婚約者となった以上、娘のことは好きにしていいと。……君はもう父親の――柳田の所有物じゃない。婚約者となったその日から、髪の一本から足の先まで、すべて私のものだ」


 こうしている今も、自分の気持ち一つでお前などどうにでも出来るのだと。暗にほのめかされ、琴音は荒ぶる感情を抑えようと、何度も深呼吸を繰り返した。

 「もの」だと言うのならば、下手に気遣ったりせず、好きなように扱えば良かったのだ。琴音の意思など気にも留めず、両親が、琴音に求めてきたように。


「……ずっと、私のことを見下しているくせに」


 まるで、本気で琴音に好意を抱いているとでも言いたげな恭司の言葉を拒むために。

 自分に、そんなことがあるはずないと言い聞かせるために。

 琴音はゆっくりと、一言一句正確に発音していく。

 だが、応じる恭司はどこ吹く風だ。


「見下してなんかいないさ」


 いつも通り、気障な笑顔で琴音の言葉を流す。

 無害な男を装って。

 何をするでもなくじっと、寝そべる琴音に視線だけを送り続ける。


「確かに……初めて君を見たときは、なんて空虚な女なんだと思ったよ。何をするにもそこに君の意思はなく、両親に言われるがまま。笑顔も、言葉も、何もかもが嘘っぱち。見目がいいだけで、なんの取り柄もない。今まで出会った人間の中で最もつまらない、取るに足らない、道具としてしか価値のない女だと。……そう、思っていたよ」


 思っていた。過去形だ。

 語るにつれ熱を宿していく恭司の瞳に、琴音は静かに息を呑んだ。


「だが、違った。……穢らわしいと、家畜を見るような目で見るなと君に罵られた瞬間、……ゾクゾクしたよ。……普段薄ら寒い笑みを浮かべ、何事に対しても他人事のように振る舞っている君が、私にだけは、傲慢な本性を惜しげもなくさらけ出す。……そして、こう思った。もっと見たい。私の手で、その薄汚く濁りきった内面を、余すことなく引きずり出してやりたいと」


 どこまでも物騒な言葉を口走りながらも、恭司はあくまで穏やかだった。熱のあまり口走ったわけではない。淡々と、純然たる事実だと、琴音に突きつけるように。


「……だから、何度も言ったじゃないか。君はただ、従順でいればいいと。……真に私を拒みたかったのならば、その頑なな態度をやめれば良かったんだ。これまで通り、従順な、つまらない女のまま。ただ、私の機嫌を伺って、人形のように笑っていれば……。そうすれば、必要以上に私の琴線を刺激することもなかったのに」


 積年の感情の吐露を聞きながら、琴音は震え上がっていた。

 気持ち悪いを通り越して、理解出来ない。

 単純に好きと言われるのとは違う。薄汚い本性を引きずり出したいなどと言われて、どう反応しろと言うのか。

 いや、そもそも。


(私がこの人に嫌われようと……反抗してきたことは、全部、無駄だった?)


 無駄どころか、恭司の話を聞く限りでは完全に逆効果だった。それが先に分かっていれば。

 分かっていれば、恭司への苛立ち、侮蔑、ままならない何もかもを必死に抑えられただろうに。


「……なぁ、琴音お嬢さん。私たちは、もっと分かり合う努力をする必要があると思わないか?」


 絶句し、震える琴音を前に、恭司はたおやかな笑みを浮かべた。

 穏やか微笑の中に明確な闇を見つけ出し、琴音は小さく叫び声を上げる。


「分かり合う、努力……」


 そんなもの、したくない。

 今だって、許されるのなら尻尾を巻いて逃げ出したい。だが、恭司はそれを許さなかった。婚約者である恭司とも、自分の内面とも、きちんと向き合えと、執拗に要求する。


「ああ。……君だって、もう疲れただろう? ……君のその目は嫌いじゃないが、私もそろそろ、嫌悪に拒絶、恐怖と苦痛におののく以外の君が見たい」


 そのために、歩み寄ろうと。

 もっと隠しているものがあるだろうと、何もかもを見せてみろと、物騒な顔で笑う。


 口を引き結び、怯える琴音をあざ笑い、恭司はゆっくりと体を起こしていった。乱れたスーツの襟元を整えながら、横目で琴音に視線を送る。


「まあでも、もう遅い。ひとまず、今日は泊まっていきなさい。ああ、君のご両親には連絡済みだ。安心して、私の部屋で夜を明かすといい。今後の展望は、じっくり、ゆっくり、ふたりきりで考えていこうじゃないか」


「えっ」


 なんでもないような顔で平然と意味深な言葉を並べ立てる恭司に、大急ぎで体を起こす。すかさずレバーに手を掛け、椅子の背もたれを戻し、琴音はシートベルトに手を伸ばす恭司に詰め寄った。

 これまでふたりで会うことはあったが、それはあくまで外での話であって、互いのプライベートな空間に踏み込んだことは一度もなかった。それをなぜ、この最悪のタイミングで。


「け、結婚まで、手は出さないって話じゃ――」


「確かに。……だが君は、先に私を裏切って、コンパなどという浮気同然の催しに行った。物事は、何事もフェアでなければ。……だろう?」


 まだ許したつもりはないと、これまでで一番いい笑顔を浮かべる恭司の手のひらの上で。

 檻の中の家畜は、決して逃れられないことを悟った。




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