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そこは空虚な檻の中(中)


 初めて武上恭司という男と出会い、誠に不本意ながらも唇を奪われた日からおよそ二年。

 ――二年。

 もう二年だと、大学三年生――20歳となった琴音は、蝉の鳴き声が響く山奥のキャンパスで深々とため息を付いていた。

 

 琴音からすれば、第一印象は最悪。

 心の底から嫌われ、破談となっても構わない、

 むしろそうしてくれと心の底から願い、至極礼節を欠いた振る舞いをしたのにも関わらず、「気に入った」という言葉は決してその場しのぎのものではないのだと示すように、あれから何度顔を合わせても、恭司は琴音との縁談を断るそぶりを全くもって見せなかった。

 ならば琴音が拒絶の意を示せば良かったのだろうが、琴音を抜きにして目の前で着々と進んでいく縁談話に、人形に過ぎない琴音に口を挟む暇など微塵も与えられなかった。


 そうして琴音の心を置き去りにしたまま、初めて顔を合わせた日から数度場を設けたのち、二人は無事婚約。

 現在進行形で、恭司は両親公認の琴音の婚約者となっていた。

 誠に、心底、腹立たしいことに。


 婚約者である以上、全く会わないというわけにはいかず、琴音は年に数度、強制的に恭司と顔を合わせることになっていた。婚約して最初の半年間は、互いの両親も交えたものだったので、まだ耐えられた。人前での男の立ち居振る舞いは完璧そのもので、僅かにその瞳に挑発的な色を滲ませていようとも、直接琴音を試すような言葉を口にすることはなかったから。

 だが、両親に命じられ、ふたりきりで会うようになってからは、毎回毎回生きた心地がしなかった。


 昼間人目がある場では、壊れ物に触れるかのように琴音をエスコートしたかと思えば、晩には毎度ご丁寧に個室制のレストランを用意し、怯える琴音を無遠慮にからかい、弄ぶ。初対面の時に見せた嘲りの中に、微かな好奇心をのぞかせて。


 幸いだったのは、恭司が最初に告げた琴音が大学を卒業し、結婚するまで手を出すつもりはないという言葉が真実だったこと、くらいだろうか。

 ふたりの関係は至って清いものであり、唯一あったそれらしい接触といえば、初対面の時にあった口付けくらいのものだった。あれを口付けと認めてしまうのは、全くもって不本意極まりなかったが。


 琴音は恭司のことが嫌いだが、中でも琴音を見下し、いいように扱いながらも、時折そんな風にして誠実ぶった振る舞いを見せるところが、何より一番腹立たしかった。


 肩から提げたトートバッグの紐を握りしめ、校門へと続く長い下り坂をとぼとぼと歩いていく。果てしなく続いていた坂の終わりが見えると同時に、琴音は最も会いたくなかった、だが会わなければならない男の姿を発見した。

 すらりと伸びた長い手足に、憂いを帯びた端正な横顔。

 今年で31歳になった、大手医療機器メーカー「タケガミメディカル」の社長令息にして、琴音の婚約者。


(武上、恭司……)


 校門の柱に背を預け、それまで億劫そうに手元のスマートフォンに指を這わせていた恭司は、めざとく琴音の視線に気が付いたのか。琴音が声を掛けるよりも先に小綺麗な微笑みを浮かべ、毅然とした態度で琴音へと歩み寄る。


「お疲れ様」


「……お疲れさまです」


 鞄を預かろうと差し伸べられた手に無視を決め込み、下を向いて黙り込む琴音に特に気にしたそぶりも見せずに、恭司は路肩に止めてあった黒塗りの車の戸を開けた。


「どうぞ? お嬢さん」


 有無を言わせず助手席の戸を開けた恭司に、琴音は無言で抗議の目を向ける。

 だが、ここで拒むのも周囲から奇異の目で見られかねないと、あくまで己の保身のために、琴音は大人しく車へと乗り込んだ。

 膝の上で鞄を抱きしめ、縮こまる琴音を横目に、我が物顔で運転席に腰掛け、迷いなく車を走らせながら、恭司は上機嫌に口を開く。


「今日も今日とて、お嬢さんはご機嫌斜めか」


「……あなたといるのに、ご機嫌になれると思いますか?」


 ふたりきりになったのを良いことに琴音も負けじと厭味をぶつければ、恭司は喉元を震わせ、低い笑い声を漏らす。


「それもそうか。……だが私は、君のその犬畜生でも見るかのような態度が嫌いではないよ。……人前では普段、聖母のように微笑んでいる君が。……とても、興味深い」


 反射的に、気持ち悪いと言おうとして。


 信号が赤になると同時に挑発的な視線を向けてきた恭司を前に、琴音は静かに口を噤んだ。何度罵倒を投げたところで、恭司は微塵も傷つきはしない。それどころか喜ばせるくらいなら、断じて何も喋ってやるものかと、琴音はそっぽを向き、恭司の存在を頭の中から追い出すようにして、じっと窓の外を眺めていた。



**********



「それはそうと――。最近の学生は大変らしいじゃないか」


 その日の晩。いつものように個室制の日本料理店で、机を挟んで食事をともにしていると、唐突に恭司がそんな言葉を口走った。


「1年生の頃から就活セミナーだの、面接練習だの、業界説明会だの、気が早いとは思わないか? 3年生になれば学内で行われる就活関係のイベントは更に増え、学生の大半が何らかのインターンに参加する。インターンの成果次第では、そのまま就職先が決まることも少なくない。……大学に入ると同時に就活のことを考えなければならないなんて、他人事ながら同情するよ。……まあ、私たちには本来無縁の話だが――」


 箸置きの上に箸を置き、まっすぐに琴音の目を見つめながら。

 ただでさえ威圧的な恭司の瞳に、輝きが増す。


「私が何を言いたいのか分かるね。琴音お嬢さん」


 あくまで穏やかに微笑みながら、恭司は琴音を責めていた。

 知らないとは言わせない。何も知らないと思っているのかと、淡々と琴音を咎める冷たい美貌。だが、琴音はあまり怯まなかった。そろそろ気付かれると思っていたと、どこまでも冷静に。琴音はそっと、自身の背後、壁沿いに置かれている通学用のトートバッグに目を向けた。

 あの鞄の中には、大学であった会社説明会の資料、それから書きかけのインターン用のエントリーシートが数枚入っている。家族や恭司に気付かれないように学校のパソコンで刷ったエントリーシートは、既に何枚かは提出済みであり、返事を待っている状態だった。


 ――琴音は恭司が嫌いだったが、恭司との結婚を防ぐこと自体は、実を言うともう諦めた。二年も経ってしまったのだ。今更破談にしてくれと騒ぎ立て、周囲を振り回す気は更々ない。結婚が回避出来ないのならばと、琴音は誰にも迷惑を掛けずに穏便に、心の平穏を保つ方法を、自分なりに考えた。


 その結果たどり着いたのが、周りに黙って就職するという道だった。


 今時女は家庭に入り、男に尽くすなどという古くさい考えを強制される謂われはない。恭司と結婚しろとは言われたが、就職するなとは誰にも言われていない。自分の力で働いて、そこで自分の居場所を見つけられれば、少しでも恭司と過ごす時間を減らすことが出来る。檻の中の無力な家畜に出来る、精一杯の抵抗。


 琴音は毅然とした態度で、力強く恭司を睨み付けた。震える体を誤魔化すため、膝の上できつくてのひらを握りしめながら。


「何か、問題でも?」


「いいや? 何も? ……ただ、しなくてもいい苦労をしていると思ってね」


「……しなくても、いい?」


「ああ。……君が就職したいというのなら、それを咎める気はないさ。だが君は、柳田のお嬢さんだ。そして、私の婚約者でもある。なら、――お父様か私に頼めば良い。お父様がダメだと言おうが、君が望むのなら、うちの関連企業をいくらでも紹介してやる」


「そん、なの……!」


 反射的に机を叩き、行儀悪く膝立ちになった琴音を、恭司は憐憫混じりの嘲笑で見下していた。


「不服なのかな? 私は君を助けようと、楽な道を提示してやっただけなんだが」


「あなたなんかに頼らなくても、私は……!!」


「自分の力で成してみせると? だが……。返事、一件も返ってきていないんだろう? ……いい加減、諦めたらどうだ?」


 勝ち誇った顔で笑う恭司を前に、琴音の頭に一つの考えが浮かび上がる。

 エントリーシートを出していたことはともかく、どうして、恭司が一件も返事がないことを知っている。


「まさか……」


 思い浮かんだ嫌な考えに、顔から血の気が引いていく。

 全部、もみ消したというのか。すべてを知りながら、琴音の知らぬところで。

 琴音が決して檻の鍵を開けないように。どこか遠くへ、知らぬ間に行ってしまわないように。


「……私たちはビジネスパートナーで、利害関係が一致するから結婚するんだって、そう言ったのはあなたじゃない。私たちの結婚に、それ以上の意味はない。結婚するなら、それで満足でしょう? だったら、私の行動を制限する権利なんて、あなたにはな――」


「初めに言っただろう。……君はただ、従順であれば良い」


「なにを……」


「確かに権利はないのかもしれない。なに、ただの――愚かな男の我が儘だよ。琴音お嬢さん。……私が君に離れて欲しくなかったから、……少しでも目の届かない場所に行ってしまうことに妬いて、勝手に邪魔をしただけだ」


 爽やかに微笑みながらも、家畜は家畜らしく、大人しく飼い主に食われる日を待っていろと、どす黒く濁った目が、琴音を捉えて離さない。その目の中に、初対面の時に見せた単なる興味や、琴音なりの必死な反抗に対する怒りとは違う、何か――それ以上に気味の悪い物を垣間見た気がして、琴音は心の底から震え上がった。


「……さっきも言ったが、就職活動を続けるというのなら、それ自体を拒みはしないよ。好きにするといい。――ただ、私も好きにさせて貰うがね」


 事もなげに微笑んでみせる恭司に、琴音は軽蔑の眼差しを送った。

 人を都合の良いおもちゃのように、手のひらの上で転がし、弄ぶ。


「……最低」


「なんとでも?」


 諦めの色を宿した琴音を前に、どうせ逃げられはしないのだからと、不適な笑みを浮かべながら。



*******



 恭司に釘を刺されてから数日、琴音は諦めずに何度かエントリーシートを送っていたが、結果はすべて芳しくなかった。それどころか、相も変わらず一度たりとも返事が返ってこない。何度出しても答えは同じで、それどころかエントリーシートを真面目に書く度恭司の気味悪い笑みを思い出してしまい、次第、琴音は外の企業に助けを求めることをやめた。恭司が望むままに、従順に。


(従順、か……)


 父にそうであれと望まれてから、今日こんにちまでずっと。

 心穏やかに過ごしたいと願い、振る舞い、たどり着いたのが心の平穏とは最もかけ離れた相手とは、一体なんの皮肉なのだろう。

 授業が終わった後、人気の少なくなりつつある大学のカフェテリアのカウンターに友人ふたりと座りながら、琴音は深々とため息を吐いていた。先程から横でふたりが何か話しているが、内容が全くもって頭に入ってこなかった。ただ無意味な音として、耳の中を通り抜けていく。


「ところで琴音ちゃん。武上さんとはもう寝たの?」


「ブッッッ!?」


 ぼんやりと虚空を見つめていた琴音は、隣から聞こえてきたとんでも発言に、口に含んでいてミルクティーを吹き出していた。発言主――楓の手により差し出された紙ナプキンを受け取り、口元を拭いながら、琴音は恨みがましくふたりを睨み付けた。


「その反応を見る限り、まだなのね」


「愛奈まで……」


「まあ、琴音ちゃんのお家はお堅いものね。武上さんも、ああ見えて真面目そうだし……」


「わっかんないわよー。ああいう真面目が服を着て歩いてるような男こそ、裏では女遊びが激しかったりするんだから」


「出た~。愛奈ちゃんの経験談」


「経験談じゃないわよ! 知り合いの話だって言ってるでしょ!?」


(女遊び……)


 隣に座る友人ふたりが好き勝手に口を開くのを赤面したまま見守りながら、琴音はてのひらの中で握っていたミルクティ入りのカップのストローを吸った。瞬間、口の中に流れ込んできたタピオカを、草食動物のように無心で咀嚼していく。


 ――手を出してこないということは、そういうことなのだろうか。


(本人も、出会ったばかりの頃に好きにさせて貰う、って言ってたし……)


 中身はともかく外面が良いだけに、女を侍らせているさまを簡単に想像出来てしまう。

 琴音を縛り付けているくせに、自分だけは裏で女をとっかえひっかえしている。


(そう考えると、無性に腹が立ってきた……) 


 浮かび上がったもやもやとした感情をぶつけるように、一気にタピオカを吸い込むと、勢いよく空になった容器をカウンターの上に置く。カランという軽い音を聞きながら、琴音はふいとそっぽを向いた。


「別に、どうでもいいよ。……私、あの人のこと好きじゃないし」


「あんなに顔が良いのに?」


「顔が良くても、……苦手なものは苦手」


「ふーん?」


 訝しげな顔を浮かべるふたりに無視を決め込み、琴音は何度目になるか分からない溜め息を吐いた。すると、楓はおもむろにポケットからスマホを取り出して見せた。しばし画面を弄ったかと思えば、琴音に見せるためにそっと、机の上に画面を差し出す。


「じゃあ、そんな琴音ちゃんに、私から気晴らしのお誘い」


 微笑みながら提示された画面に、「コンパ」の三文字が刻まれているのを認識して、琴音は思わず息を呑んだ。


「今度のコンパなんだけど、ちょうどひとり、女の子が足りなくって。琴音ちゃんさえ良ければ、なんだけど」


 ただ従順であれば良いと、恭司は琴音にそう言った。

 

「どうせ、私たちみたいな『お嬢様』は、遅かれ早かれ親の言うがままに結婚して、収まるべきところに収まるしかないんだから。……ちょっとくらい遊んだって、別にばちは当たらないと思うけど?」


 ――琴音の婚約者だって、どうせ。


 追い打ちを掛けるような冷めた愛奈の声を、速まる鼓動の向こう側で聞きながら。

 何もかもが上手くいかなくて、琴音はむしゃくしゃしていた。


 これまで従順に、言われるがままに生きてきたのだ。

 ならば、一度くらい。

 一度くらい、ほんの少し、心の赴くままに、逆らったっていいではないかと。

 

 何も不貞を働くつもりはなかった。

 ただ何もかも思い通りにいくと思っている恭司を振り回して、一泡吹かせてやれればそれでいいと。


「……行く」


 遠くで、蝉が鳴いていた。


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