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 絵美との馴れ初めや一緒に長野に行った話をした後、いよいよこの夏の出来事を話すことになった。

「八月二十三日のことだった。

 知ってるかな、緑町に小さな動物公園があるんだ。小高い丘になっていて、リスとか鳥、それにヤギが居たかな。小学校とかで飼育しているような小さな飼育小屋がある程度なんだけど、見晴らしも良くて、小さな子供を連れて行くにはちょうど良いくらいの公園なんだ。

 丘の途中に駐車場があって、夜六時を過ぎるとそこから先へは鍵がかけられて、車の出入りはできなくなる。でも、日中は上の方まで車で上がることができる。

 その日は東京湾の方で花火大会のある日だった。僕らはドライブの帰りに、花火が見えるかもしれないって、駐車場に車を置いて少し上の方へ歩いた。ちょうど花火が見えるところがあって、かなり小さくだったけど、ベンチに腰掛けてしばらく見ていた。

 土曜日だったから、僕らの他にも同じように花火を見ていた人達は結構いたよ。夏休みも終わりに近づいていたから、子供達の姿も見えた。

 十五分くらい経った頃かな。それまでもバイクの騒音はしていたんだ。自動車は施錠されて入って来られないけど、バイクの連中はチェーンの脇から入り込んで、中で走っていることができた。丘を登るコースは曲がりくねっていて、彼らにとっては面白いコースだったみたいだ。

 騒音が激しくなって振り返ると、坂道を下って来る二台のバイクが見えた。競争しあっているようだった。車道から僕らの居たベンチまでは結構あったから、それほど危険は感じていなかった。僕はやかましいなって思った程度だった。

 左カーブに差し掛かって、内側のバイクが少し外に振られて、外を走っていたバイクに接触するのが見えた。外のバイクがバランスを崩したのが分かって、危ないと思った時はもう遅かった。あっという間に、バイクは横転して、ライダーは投げ出され、バイクは僕らの方へ猛スピードで転がってきた。

 絵美は僕の右側、つまりバイクが転がってくる方に座っていた。僕は咄嗟に右手を出して、絵美を守ろうとしたけど、そんなものは何の足しにもならなかった。それから後の記憶ははっきりしない。ヘルメットを被った奴が起き上がって近づいて来るのを見た記憶がうっすらあるけど、僕は動かなくなってしまった絵美をなんとかしなければ・・、そう思って声を掛け続けたけれど絵美は反応しなかった。

 救急車を呼んでくれた人が居たようだけど、ひどく長い時間に感じられた。救急車が到着したのは覚えているけど、その後は病院で目が覚めるまで記憶が飛んでいた」

 僕の話を聞いていた恵梨香は、口を半分開いたまま震える両手を広げてその前に当てていた。

「幸いにも僕は右腕の骨を二本折っただけで、あとは火傷と切り傷程度で済んだ。でも、絵美は傍に居なかった。

 彼女はICU、集中治療室に入っていた。医者が説明してくれた。

 頭部への外傷があり、頭蓋骨にも陥没骨折があり意識が無かった。右目の損傷が激しく、失明の可能性が高いこと。腕や肋骨、鎖骨、腰骨など十数か所に骨折があること。

 僕は目の前が真っ暗になった。どうして自分が守ってあげられなかったんだろう。どうして自分が絵美の居た方に座らなかったんだろう。なんで、花火を見に行こうなんて言い出したんだろうって。自分を呪った・・」

 恵梨香の瞳から涙が溢れていた。ティッシュを渡すと、ありがとうと消え入りそうな声を出した。

「まだ、聴くかい?」

 僕の問いかけに、恵梨香は鼻をすすり上げながら頷いた。僕は大きく息を吸い込み、天井を仰いでから続けた。

「三日目に、絵美の意識は戻った。その知らせを聞いて、僕は本当に嬉しかった。絵美の命が助かるなら、僕の命など無くなっても良いと念じていたから、その時は神に感謝したよ。もう、僕の命は好きにしてくれて構わないって。

 ICUに入ることが許されて、痛々しい包帯に包まれた絵美を目にした。わずかに包帯から除かれていたのは、左目と左手の一部だけだった。その左手にも点滴のチューブやたくさんのモニターがつながっていた。

 僕が左手で絵美の左手に触れると、絵美の目から涙がこぼれ落ちた。僕には、良かったという言葉しか言えなかった。

 絵美は三週間でICUを出て、一般病棟へ移った。僕は既に退院していた。幸い歩くことと、しゃべることには問題なかったので、僕は仕事に戻った。平日は仕事が終わってから病院へ寄って、八時までの一時間ちょっとは会うことができた。土日は面会時間が始まる午後一時にはいつも病院に居た。彼女のお母さんも来てくれていたけど、僕に遠慮してか、一、二時間ほど居ると帰っていった。

 骨折や傷は徐々に回復していったが、絵美の右目は結局回復しなかった。顔の傷も形成手術をしても完全には治らないと言われた。もちろん、そんな話は絵美の耳には入れなかった。

 でも、彼女も医者や看護師の話から、そんなことを薄々感じていたようだった。会社の同僚が見舞いに来ても、特に親しかった数人以外には会おうとしなかった。

 でも、そんなこと、僕にはどうでも良いことだった」

 いつの間にか、僕の頬にも涙が伝っていた。僕はそれを右手で拭って話を続けた。

「信じてもらえないかもしれないけど、たとえ絵美の目が見えなくたって、たとえ顔に痣が残っていたって、僕にはどうでも良いことだった。生きていてくれさえしたら。それだけで僕は全てを受け入れることができた。

 少なくとも、自分ではそう思っていた」

 しばらく言葉に詰まって、僕は呼吸を整えた。恵梨香は何も言わず、涙に潤んだ瞳を震わせながら僕が話し始めるのを待っていた。

「でも、絵美には耐えられないことだったんだろう。その姿のまま、僕の前に居ることが。

 一般病棟に移って二週間が過ぎ、自分の足で歩けるようになったころ、絵美は入院病棟の非常階段から身を投げた」

 恵梨香が、ぎっという声とは思えない音をたてた。同時に手がそれまで以上に震えだした。

「僕が会社で知らせを聞いて駆けつけた時には、もう絵美の顔には白い布が掛けられていた。

 絵美がそこまで思い詰めていたなんて知らなかった。いや、僕が気付かなかっただけで、予兆はあったのかも知れない。また僕は自分の至らなさに打ちのめされることになった。

 絵美の傍で泣き崩れるお母さんに、かける言葉も無かった。

 絵美に怪我を負わせたのは、バイクに乗っていたやつかもしれない。だけど彼女を死に追い詰めたのは、僕なんだ。

 遺書が見つかった。左手で書かれたとは思えないような綺麗な文字だった。母親に先立つことを詫びる言葉と共に、僕へは感謝の言葉が並んでいた。でも、もう僕の前に今の自分の姿をさらし続けるのは耐えられないとも書いていた」

 すすり泣きをしながら、恵梨香は手を伸ばし僕の左手に重ねた。

「ありがとう、せいさん。辛いことを思い出させてしまって、ごめんなさい」

恵梨香は僕の手を握る右手に力を加えた。

「でも、やっぱり、そんなことは自分ひとりの胸の中に仕舞って置くのは良くないわ。私にもその悲しみを分けてくれれば、少しは軽くなれるわ。少しずつなら、分けても大丈夫だから。ひとりだけで背負っちゃだめよ」

 今は恵梨香の言葉を素直に聞くことができた。真っ赤に充血した恵梨香の目を見ながら、僕は頷いた。

「ありがとう」


 涙が納まった恵梨香を部屋まで送るため、僕は外へ出た。十時を過ぎた頃だったが、さすがに冷え込んでいた。風が無いからよかったが、僕はブルゾンの襟を立てた。

「寒いね」

「せいさん、北国生まれなのに、寒がり?」

 恵梨香も寒そうに腕を胸の前で組んだ。

「生まれは長野でも、こっちで暮らした時間の方が長いから、変わらないよ」

「そうか」恵梨香の口元から白い息が流れた。

 駅が近づくと、サンタクロースの格好をしたチラシ配りの若者がいたり、ツリーを模ったイルミネーションが点滅して、クリスマスが近いことを思い出させた。いつもクリスマスだからといってバカ騒ぎをするわけでもないが、今年はそれどころじゃないなと思った。

 駅を過ぎて恵梨香のアパートが近づいてくると、また静かな通りに戻る。週末なのに、あまり酔っ払いの姿も見ない。

「せいさん」前を向いたまま恵梨香が言った。

「三ヶ月経っても、やっぱり悲しい?」

 なんでそんなことを聞くのだろうと思った。

「これまでも、辛いことや悲しいことはたくさんあったでしょう。でも、時間が経つに連れて段々薄れていくでしょう」

「そうかな」

 歩きながら、恵梨香は僕の方をちょっとだけ見た。

「人間って、忘れることができるから生きていけるんだと思うの。一番辛い、悲しい時のままだったら、きっと生き続けることは出来ないわ。悲しい記憶は残っているけど、後からの出来事がそれを少しずつ消していってくれる。だから生きていけるんだと思う」

 僕の反応を窺うように、もう一度顔を向けた。

「それはせいさんも感じているはずよ。でも、今はそれが辛いのかもしれない。絵美さんのことを忘れていく自分が」

「忘れたりしないよ」

 僕は大きな声を出してしまった。

「ええ、忘れないわ、一生。でも、記憶は少しずつ薄れていく。今のせいさんはそれが辛いのよ。絵美さんのことを少しずつ忘れていく自分が、許せないんだわ」

 僕は何も言い返すことができなかった。

 いつの間にか恵梨香のアパートの前まで来ていた。恵梨香は肩に下げていたバッグを下ろして両手で前に抱えると、僕の方に向き直った。

「生意気なこと言ってごめんなさい。せいさん、真面目すぎるのよ。それがせいさんの良いところだけど、欠点でもある」

 恵梨香は僕との別れ際にとびっきりの笑顔を見せようとでもするように微笑んだ。

「自然に任せて、忘れることは忘れた方が良いわ。でも、大切なことは忘れたくても絶対に忘れないから。それで十分よ」

 僕はしばらく恵梨香の顔を見ていたが、視線を下ろして頷いた。

「送ってくれて、ありがとう。もう大丈夫。おやすみなさい」

 おやすみ、と言って右手を上げて僕は恵梨香に背を向けた。ドアロックを外す音を聞きながら、僕は歩き出した。

 恵梨香の大人びた話に、妙に納得してしまった。十代とは思えない話し振りに、恵梨香が抱えるものの奥深さを垣間見た気がした。しかし、今日恵梨香に会う前よりは、確実に自分の視界は開けたように思えた。


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