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恵梨香と最後に会ってから一週間が経った。彼女に絵美のことを話したお陰で、僕の気持ちには間違いなく変化があった。単に自分でそう思っているだけかもしれないが、ひとつの区切りがついたことは疑いの無い事実だった。その後、恵梨香から連絡は無かった。このままもう会うことが無い可能性も考えられたが、それはそれでちょっと寂しい気がした。不思議な感覚だった。
昨夜は金曜ということもあって、DVDをレンタルしてきて缶チューハイを片手に三時頃まで映画を二本見てしまった。最近の映画は半年もするとDVD化されてしまう。混んでいる映画館で見るより、じっくり見られる利点もあり、特別見たい作品以外はDVDで見ることが多くなった。
レンタルならふたりで見ても料金が一緒だから、週末は絵美と一緒に見ることも多かった。事故の後、ひとりで見る気にならなかったので、レンタルしてきたのも久しぶりだった。
目が覚めて時計を見ると十一時近かった。これも恵梨香効果かもしれないが、ぐっすり眠れる時間が長くなったような気がする。この一週間は六時前に目が醒めることはなかった。
カーテンを開けると、十二月とは思えない陽光が目を眩ました。窓のサッシを開いても思ったほどの冷気は入ってこなかった。
(今日はなにをしよう)
仕事がない日は、時間を持て余してしまう。来週は祝日もあるし、週末からは冬季休暇に入ってしまう。二日しかない毎週の休みでさえ持て余しているのだから、一週間以上の休暇をどのように過ごすかなど、想像もつかない。やはり長野に行った方が良いかもしれない。その前に絵美の墓参りにも行きたい。今月の月命日は平日なので、週末でないと行けそうになかった。
長野に帰る前に、健一達ともう一度会っておきたいとも思う。この前は僕に気を使って、思うような話もできなかったに違いない。年が変わる前にもう一度会っておいた方が良いだろう。
もう昼飯の時間だなと思ったとき、携帯の着信音が鳴った。公衆電話からだった。
(この前の奴からだろうか)
二度目となるといたずら電話というわけでもなさそうだ。
「はい」
今度も名前は言わなかった。
「岡本さんかい」
「そうだけど、あなたは?」
「名前なんかどうでもいいだろう、それよりこの前電話した件だけど」
少し話をしたところで、男の声だがこの前の声とは違う気がした。
「この前って、あなた、この前電話してきた人とは声が違うようだけど」
「へえ、岡本さん。あんた記憶力が良いねえ」
男はヘラヘラした笑い声をたてた。
「その通り。この前の奴とは違う。でも、話は一緒だ」
「事故のことって言ってたけど、今更なにを」
「あんたにとっては終わったことかもしれないけど、警察も知らない大事な話を教えてやろうと思ってね」
「警察も知らないこと・・」
男が何を言いたいのか、予想もつかなかった。
「いたずらじゃないよな」
「そんなことに貴重な時間は使わないよ。あんたが聞く気がないというなら、無理にとは言わないけど」
「どんな話だい」
男はまた気味の悪い笑い声を上げた。
「まあ、そう慌てるなよ。それに、見せたいものがあるから、会って話した方が良いだろう。明日の夜は時間があるかい」
僕は危険な匂いを嗅いだ気がした。果たして、この男の呼び出しに応えて良いものだろうか。
「見せたいものって、なんだ」
「まあ、それは見てのお楽しみってことで。あんただって、恋人の事故の真相を知りたいだろう」
僕は即答できずに、しばらく無言でいた。
「まあ、話を聞いて損は無いよ。明日の夜六時過ぎに電話するから、その時場所を連絡するよ。じゃあ、また」
待て、と言っても既に電話は切れていた。一体何者だろう。声の感じは自分より年下のように思えた。
男の言う見せたいものも、話も想像がつかなかった。警察も知らないこと。絵美が居なくなってしまった今、新たな事実が分かったところで、何も変わりはしないだろう。
ジーンズとトレーナーに着替えて、家を出た。アパートの階段を下りると前の道で小学校高学年くらいの子供がふたりでキャッチボールをしていた。時々見かける顔だった。
僕が傍を通ると、しばらくボールを投げるのを止めているのが分かった。おはようと声を掛けると、ちょっと戸惑った顔で、こんにちはと応えた。
「ああ、もうお昼過ぎだったな、ごめん。今起きたばかりなんだ」
僕が頭を掻くと、ふたりは笑顔を見せた。
駅への道を歩きながら周りの住宅や商店を見ていると、通勤時には気付かないものを見つけることがある。木造の一軒家の壁に、手書きした紙が貼ってあった。「子猫お分けします」
昨日は目にも入らなかった。でも、紙の様子からすると、もっと以前から貼られていたようにも見える。長野に居た小学生の頃、猫を飼っていた。名前は覚えていない。いつからいたのかも知らない。もしかしたら、僕が生まれる前から居たのかもしれない。
母はいつも台所の脇の勝手口の扉を少し開けていた。あの頃は玄関に鍵をかける家など無く、隣近所の顔も見知っていたし、猫も出入り自由が当たり前だった。昼間はあまり見ることがなかったが、夕方になるとちゃんと戻ってきて、僕らの夕食の時間になると一緒にご飯を食べていた記憶がある。
僕が五年生の頃だろうか、もうかなり高齢だったようで、その頃には外出する時間は少なくなり、家の中で丸まっていることが多かった。それがある日、外に出たまま夕飯の時間になっても戻ってこなかった。僕と母は猫が行きそうなところをふたりで歩き回り、名前を呼んだ。でも、見つからなかった。
帰り道、母は僕に話してくれた。
「あの子はね、最初から家にいた猫じゃないの。川原でひとりでいるのを見つけてね、最初はどこかの飼い猫だと思ったんだけど、次の日も同じところにいたから、お母さんが拾ってきたの」
「そうなんだ」
母は歩きながら僕の肩に手をかけた。
「もう年でしょ。そろそろ天国に行く頃かもしれない」
「天国?」
僕はそう言われてもぴんと来なかった。それまで身内の誰かが死んだりした経験がなかったので、死というものを身近に感じたことがなかったのだ。
「外で育った猫はね、天国に行く時、誰も居ないところへそっと行っちゃうの」
「もう帰ってこないの」
僕の問い掛けに、母は僕の目を見ながら小さく頷いた。
「そうかもしれない」
猫は母の言ったとおり、もう家には戻らなかった。何日間か、母はいつもの場所にご飯を用意して勝手口の扉も開けておいたが、ご飯が食べられることはなかった。しばらくして、我が家の勝手口は閉めておかれるようになってしまった。それは母が猫の死を受け入れた印だったのかもしれない。
公園が見えてくると、僕の目は恵梨香と最初に会ったベンチへと向けられた。そこにはブランコに乗る女の子を見守る母親の姿があった。あの日から二週間が過ぎていた。
きっと恵梨香は叔母の店で仕事の日だろうと思った。ここから二駅隣にあることは聞いているが、店の名前までは知らない。行ってみようとも思ってはいなかった。
駅前を通り過ぎ、更に三分ほど歩いたところでコンビニに入った。自動ドアが開くと、高校生のアルバイトと思われる若い女子店員が「いらっしゃいませ」と声を上げた。レジのカウンター付近を見たが、今は彼女ひとりしか見当たらなかった。
僕は店の奥へ入り、雑誌売り場に立って週刊誌を手にした。通勤時によく買うものだが、年末の合併号のためいつもより厚めのようだ。雑誌を手にしたまま飲み物の冷蔵庫を覘き、レモンティを選んだ。パン売り場に移動したところで、カウンターの奥から制服姿の男の店員が出てきた。僕はチーズとハムがサンドされたクロワッサンを手にしてレジへ向った。
女子店員がセンサーで商品を読み取り始めると、男も袋詰めのために近づいてきた。
「いらっしゃいませ」
「袋は一緒で良いよ」
僕がそう声を掛けると、男は一瞬手を止めて視線を上げた。
「なんだ、セイジかよ」
僕が財布から千円札を取り出しながら笑いかけると、健一も白い歯を見せた。
「今日は休みか」
「ああ、ところで、来週末また飲みに行かないか。それとも忙しいかな、年末は」
「お前の誘いなら、仕事サボってでも行くよ。いつだい?」
カウンターの後ろにカレンダーが張ってあった。
「二十七から俺は休みだ、でも長野に行こうと思っているから、七か八だと都合が良いな」
健一も振り返ったカレンダーを見た。
「それならどっちでも大丈夫だよ。大晦日に近いと抜けるのは難しいけど、その頃なら大丈夫。じゃあ、リョウ達にも声を掛けてみるよ」
「ありがとう、じゃあまた」
レジ袋を受け取り、僕は店を出た。通勤コースからは外れているので、仕事の行き帰りに寄ることはなかったが、休みの日には時々足を伸ばして来ていた。
陽射しが暖かかったので、僕はさっきの公園に戻ってパンを食べることにした。
公園には十人ほどの子供達と、三人の母親の姿があったが、ベンチはいくつも空いていた。彼らとは少し離れたベンチで、僕は週刊誌を開いてパンにかじりついた。アメリカの住宅ローンに端を発した金融の不安定は未だに収まる気配がなかった。雑誌には、経営危機が予想される日本の生保・金融関係の会社の話が載っていた。僕の勤める会社は輸出依存度は低い方だが、円高が進むとその影響は国内消費にもいずれ影響してくる。今年のボーナスも一部自社の商品購入券という形で支給された。安定した生活を望むなら、今会社を辞めるのは得策ではないかもしれないが、今の仕事を続けていく自信も無かった。
家業を継いで酒屋をコンビニにした健一、地元の信金に勤める亮、それぞれに苦労もあるだろう。僕のようなサラリーマンを羨ましく見ることもあるに違いない。具体的な目的もないのに、今の仕事に嫌気が差しているだけで転職を考えている僕は甘いのかもしれない。でも、今の自分を打破したいという思いだけはある。この気持ちが無くなったら、僕は定年まで会社に通い続けるだけの男になってしまうに違いない。でも自分にも、一体なにが出来るのか分からなかった。




