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六時を過ぎると、僕の目はテレビの画面より時計の時間を確認する回数の方が増えた。夜といわれただけで、時間は指定されていなかったので、もっと遅い時間のことかもしれないが、それでも気になった。
固定電話は引いていないし、これまでの連絡は携帯にかかってきたので、べつに自宅にいる必要がないことは分かっていた。結局今日は駅前の本屋を覘いたりCDショップに立ち寄って、ラーメンを食べた後は自宅に戻ってテレビの前に座っていた。
クリスマスのイルミネーションをバックに、女性リポーターが師走の街の様子を伝えていた。今年は寒気団が南下しており、都内でも年内に雪がちらつくことがあるかもしれないと話している。そういえば、先週は暖かいと思っていたのに今朝はかなり寒かったのを思い出した。
携帯電話が振動した。着信音がしないことで、マナーモードにしていたことを思い出した。画面表示はいつものように公衆着信と出ていた。
「はい」
「岡本さんかい?」昨夜と同じ男の声だった。「今から出られるかな」
「大丈夫だけど。どこに行けば・・」
しばらく考えるような間があった。
「そうだな、柳通りの市営団地はわかるかい」
「市営団地?」
駅の近くの店などを口にすると思っていたので、男の言葉は意外だった。
「ああ、富士マートとかいうスーパーマーケットの近くにある団地だな」
「そうだ」
その市営団地なら前の道を何度か通ったことがあった。
「五棟くらいあったと思ったが」
「そのとおり。あんたの家の方から来ると、一番近いのが“五号棟”だ。階段が二箇所あるが、道路から近い方の階段で屋上まで来てくれ」
「屋上に出られるのか」
近年事故や事件のためか、屋上があっても住民が立ち入り出来ない建物が多い。
「大丈夫だ、そこのドアだけ鍵が壊れている。見てきたから間違いない」
喫茶店や駅などを予想していた僕は、人気の無い場所で、しかも下見をしていることなどに嫌な予感がした。
「どうして駅前とかじゃなくて、市営団地の屋上なんだ」
「あんたと会っているところを、人に見られたくないんでね」
「一体何者なんだ」
「それは会ってからのお楽しみだ」男は不気味に笑った。
「あんたの家からだと、十分もあれば来られるだろう。屋上に出る扉の右側にある物を置いておく。あんたにとって重要なものだ。あんたの恋人が事故に遭った時の、大切な証拠品だ。まあ、楽しみにしていてくれ」
おい、と僕が次の質問をする前に電話は切れた。
絵美が事故に遭った時の証拠品。それがなにを意味するものか僕には見当もつかなかった。もう終わったことと思っていた過去に再び僕を引き込もうとするなにか。しかし、今更重要な意味があるようには思えなかった。無視すればそれで済むことかもしれない。しかし、僕の心の中にまだ消えずに残っているわだかまりがあることが、その電話を無視することを妨げていた。
別に僕になにか危害を与えることが目的とは思えない。会って、そのものが何であるか確認することくらい大したことには思えなかった。このままにしたら、かえって気掛かりになるように思えた。
僕は外出の準備をして、といってもブルゾンを羽織っただけだが、冷え込んできた夜の街へ飛び出した。
歩きながら市営団地の方向を頭の中で思い浮かべた。最初に歩き出した方向で大体は合っていた。寒くなったせいか、日曜日の夜だけに外を歩いている人の姿は少なかった。誰かに連絡をするべきかと一瞬思ったが、携帯も持っているし、いくらなんでもアメリカの映画みたいにいきなりピストルで撃たれることは無いだろう。
外灯の下でも僕の吐く息が白くなっているのがわかった。市営団地の近くに来ると、電柱に下がる外灯の距離がまばらになってきた。この辺りは柳の木が多く、夜目に見ると怪しい雰囲気がある。それでもこの時間なら、まだ自転車に乗る主婦や仕事帰りのサラリーマンらしき姿を見ることができる。夜も十時過ぎなら随分雰囲気が変わることだろう。
市営団地の入り口に辿り着いた。男が言っていたように、一番手前の建物には大きく“5”の文字が見えた。敷地内に入ると自転車置き場があり、直ぐ横に階段があった。奥の方にはもう少し大きなエントランスがあり、そちらにはエレベーターもあるようだった。
僕は電話で言われたとおり、階段を使って上へ登った。八階建てのマンションだが、階段は狭いスペースに作っているため一階上に上がるまでに三回方向を変える。息を切らしながら、かなり上がったつもりで表示を見ると、まだ五階だった。一度止まって深呼吸をし、再び階段を登った。
途中で、八階まではエレベーターを使えばよかったと気付いたが、もう七階を回っていた。八階を過ぎて、屋上への階段をよろけながら足を繰り出した。踊り場に段ボール箱が数個置いてあった。住民が物置代わりに使っているようだった。
屋上へ出る扉が目の前にあった。暗いと思ったら頭上の電球は切れていた。今暴漢に襲われたら、相手が女であってもかなわないかもしれないと思った。少し息を整えるように間を置いて、ドアの取っ手をひねった。男が言ったように鍵は掛かっていなかった。
ゆっくりドアを開きながら、真っ暗な空間に人影を探したが、人が居るようには思えなかった。周囲に気を配りながらドアから手を放し、ぐるりと一周見回した。段々目が慣れてきたが、人の姿は認められなかった。屋上にあるのは二メートルほどのコンクリート台のに乗った貯水タンクと、等間隔で並ぶ膝丈くらいの換気口くらいだった。
自分が上がってきた階段の裏スペースも確認し、やはり誰もいないこと確認したところで、男が電話でいっていたことを思い出した。確か、階段を出た右側とか言っていた気がする。
僕はもう一度階段への扉へ戻り、周囲を見回した。全く光の無い中で、扉を開いた状態で目を凝らすと、なにか置いてあるのが分かった。手で触れてみると冷たい金属であることが分かった。さらに慎重に触れて持ち上げると、かなり大き目のモンキースパナであることが分かった。
「なんだ、これは」
電話の男はここに置いてある物が絵美の事故と関係があると言っていた。しかし僕にはそのスパナから連想するものは何も無かった。
それまで静まり返っていた空間に、人のざわめきが聞こえたような気がした。するとそれは次第にはっきり聞こえるようになり、女性の悲鳴のような声も混じった。どうやら、下の方から聞こえるようだった。
僕はスパナを手にしたまま、声が聞こえる屋上の縁の方へ歩み寄った。コンクリートのフェンスは僕の胸くらいの高さで、下を覘くことができた。
隣の棟との間には駐車スペースがあり車が並んでいるが、僕が覘き込んでいる直ぐ下の部分は花壇になっているようだった。駐車場の中央部に二本立っている外灯がわずかにその辺りを照らしている。三、四人が少し離れて取り囲む中央に何かあった。しばらくしてそれが人であることがわかった。同時に、身動きしないその人影は大怪我をしているか、あるいは死んでいるのでは、という考えが浮かんだ。
「まさか」
血の気が引くとはこういうことかと実感した。不思議と頭の中は冷静に状況判断している自分がいた。あそこに人が倒れているということは・・と考えた時、今自分の置かれている状況がいかに説明しがたいものであるに行き当たった。
まず手に持っているスパナ、これは一体なにを意味しているのか。とても絵美の事故に関係するものとは思えなかった。一本ずつ指を広げ、手にしていたスパナを床に置いた。なにか手にべとつく感覚があった。それを確認すべく、僕はさっき自分が登ってきた階段へと続く扉へ戻り、取っ手を回した。
踊り場の電灯の光で、手に黒っぽいものが付いているのが分かった。階段を下りて電灯の直ぐ下まで行くと、それが黒ではなく赤に近いものであることが分かった。血だった。
自分が全く予期していなかった出来事に巻き込まれてしまったことは分かった。しかし今はそれがなんだか分からない。とにかく今はここにいることが良くないことであることは理解できた。
僕は階段を上がってくる時の数倍の速さで降りていた。途中で後ろから誰かが階段を降りてくる気配と話し声が聞こえた。中庭で起こった異変に気付いた住人が部屋から出てきたのだろう。僕は血の付いた右手だけは人目につかないように隠して階段を降り続けた。
一階まで降りたところで、かなりの数の住民が集まってきているのが見えた。このまま外に飛び出して行ったのでは返って目立つと思い、皆が向う方へ一緒に移動した。人々が向かっていたのは、屋上から見た花壇の方だった。
「子供は家に入って」
年配の男が叫んでいた。遠巻きに見守る人の間から覗き込むと、若い男が倒れていた。
「救急車はまだか」
「救急車が来たって、もう助からない。死んでるよ。それより警察には連絡したのか」
「一一九番にかけたら、警察にも連絡するって言ってた」
人の数はさっきより増えたようだが、子供や女性は家の中に戻ったようだ。騒ぎを聞きつけて、近所からも人が集まりだしていた。住宅外の人もやって来たことで、この場を後にしても怪しまれることはないと判断し、僕はそっと敷地を出た。警察が来るまでここにいるのは得策とは思えなかった。
市営団地を離れて一分もしないうちにパトカーのサイレンが聞こえてきた。ぞくぞく集まって来る野次馬とはひとり逆方向に歩くことに違和感を感じ、あまり急いでいると不審に思われると考え、気持ちは急いているのに、極力急がないように家へ向った。
自分の部屋に戻ってドアをロックするまでは、生きた心地がしなかった。ここへ帰るまで自分が息をしていたかどうかさえ記憶に無かった。
玄関で靴を脱いで直ぐ僕は座り込んでしまった。そして思い出して手を開いた。さっき見たものが夢であってくれと思う願いも叶わず、僕の右手には赤黒い血の痕が残っていた。しばらくそれを見つめた後、僕は立ち上がって洗面所へ向った。石鹸を使って何度も何度も洗い直したが、血の匂いは消えなかった。
喉がひどく渇いていることに気付き、冷蔵庫から缶ビールを出していつもの場所へ座った。ビールの冷たさは感じたが、味は全くしなかった。瞬く間に缶は空になったが、喉の渇きは治まらなかった。しかし、もう一度冷蔵庫まで立ち上がる気力はもう無かった。
もう一度さっきの出来事を振り返ってみた。電話の男に呼び出され、言われた場所に行ってみたが男の姿は無かった。代わりに血の付いたモンキースパナがあり、男が死んでいた。これはどういうことだろう。
全てを上手く説明することは出来ないが、分かっている事実がいくつかある。男が死んでいた建物の屋上に僕の指紋が付いたスパナがある。屋上に通じるドアにもおそらく僕の指紋は残っているだろう。あのスパナが凶器だとしたら、僕は最後に凶器に指紋を残した人間ということになる。
考えれば考えるほど、自分の置かれている状況は厳しい。救いは指紋があっても、それが僕の指紋であることは直ぐには分からないということだ。僕はこれまで指紋を取られるような目にあったことはない。
あとは、あの死体が何者なのかということだ。暗い中で見たのではっきり顔は分からなかったが、僕が知っている人間には思えなかった。僕と関係がない人間なら、そこから僕に辿り着くのは無理ではないか。そう考えたところで、僕の頭にひとりの男が浮かんだ。
「あの男」
そう、あの電話の男だ。あいつは僕があの時、あの場所にいたことを知っている。でも、やつはどうして現れなかったんだ。
まさか、あの死んでいた男が電話の男だったのだろうか。だから現れなかったのか。しかし、なんらかの事故で落ちたのだったら、あそこにスパナがあるのはおかしい。どう考えてもあのスパナは絵美の事故と関係があるものとは思えなかった。だとしたら、死んでいた男はあのスパナで殴られて、下に落ちたか落されたかしたということになる。ではもうひとり誰かがいたことになる。死んでいた男をスパナで殴ったもうひとりの人間。それが電話の男か。
そういえば、電話を掛けてきた男はひとりではないはずだ。最初の電話の声と二度目以降の男の声は明らかに違った。死んだのは、そのどちらかなのだろうか。それとも全く別の人間かもしれない。
僕は混乱した。しかし、電話を掛けてきた男がふたりいたということは、どちらか一方が死んだとしても、ひとりは生きていることになる。僕があそこに行ったことを知っている人間がひとり以上は。




