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昼近くになって目を覚ました。久しぶりに熟睡した気がした。ベッドの中からカレンダーを見上げる。今日は十二月十三日土曜日。あと二週間で会社は年末の休みに入る。今年は長野に帰るかまだ決めていなかった。そろそろお袋から電話が来る頃かもしれない。
絵美の葬儀には、両親揃って長野から来てくれた。そういえば、去年の正月休みは絵美と一緒に長野に行ったんだなと思い出した。初めての雪国に、きれい、きれいを連発していた。雪を見るのは初めてじゃないだろうと訊くと、東京に降る雪とは全然違うと答えた。ちょっと積もっただけで交通機関が麻痺してしまう首都圏とは違い、雪があるのが当たり前で、人も車もその中でごく自然に動いている様子が、絵美の目には新鮮に映ったようだった。
立ち上がりカーテンを開けると、しばらく眩しさに目が開けられなかった。太陽の光が高い位置から差し込んでいた。長野はそろそろ雪が積もり始めているだろうか。
トイレに行き、顔を洗って、パジャマのままいつもの場所に座り込んだ。テレビのリモコンを操作すると、昼のニュース番組をやっていた。年末になると強盗や殺人事件が多くなる気がする。人の気持ちもささくれ立っているのかもしれない。
この休みはどうやって過ごそうかと考えた。そういえば、気になっていた映画があった。諏訪を舞台にした日本映画が先月から上映されていた。この前雑誌で知ったが、長野の冬の美しさに惹かれて映画を撮ったという監督のコメントが気になっていた。まだ上映されているはずだ。一瞬、恵梨香のことが頭に浮かんだが、ひとりで見に行くことにした。
携帯で時間を確認すると、次の上映まで一時間ほどあった。そんなに混みそうな映画ではないので、時間までに行けば見られると思った。仕事に行く時に乗換えをするターミナル駅で降りれば、駅から直ぐにあるシネコンだった。映画を見に行くのも久しぶりだった。最後に見たのは八月の初め頃だったと思う。やはり絵美と見たスピルバーグのシリーズ物の冒険映画が最後だった。どうしても、自分の過去を顧みると絵美が絡んできてしまう。一緒に過ごした時間は二年ほどなのに、それだけ僕の人生に占める絵美の存在が大きかったということだろう。
土曜ということもあって、予想していたよりは空き席は少なかった。それでも後方の通路際の席が空いていた。絵美と出会う前は、ひとりで映画を見ることも結構あった。男友達は一緒に映画に行くような奴ではなかったし、今の仕事場に移ってからは、同じ部署内には付き合いができるような同性は居なかった。パソコンの開発に居た時には気の合う仲間も居て、飲みに行ったり映画に行ったこともあったが、彼らはばらばらに配置換えされてしまった。一番仲の良かった独身者は、郡山に転勤になった。今では賀状のやり取りくらいしかない。
ペットボトルのお茶を一口飲んで、肘掛のカップホルダーに置いたとき、横に人が立つ気配があった。内側の座席に入る人だと思い、膝を引っ込めようとすると声を掛けられて驚いた。
「やっぱり、岡本さんですね」
見上げると、見覚えのある顔があったが、直ぐには誰か分からなかった。
「竹内です」
その名前と声で、自分と同じグループのオペレーターをしている竹内玲子であることを思い出した。いつもは髪を束ねているのに今日は下ろしていたので大分イメージが違った。
「ああ、ごめん。髪型が違うから、直ぐには分からなかったよ」
「そうだと思いました」
玲子は両手に飲み物とポップコーンを持って、手首にはバッグを提げていた。
「おひとりですか」
ああ、と答えると「じゃあ、隣に座っても良いですか」と訊いた。
構わないと答えると、玲子は僕の前を通って隣に腰掛けた。
「今日はひとりでつまらないなって思っていたんです。岡本さんに会えるなんて、ラッキーです。あっ、食べませんか?このポップコーン、美味しいですよ。珍しいんです、醤油バター味なんです」
玲子との間の肘掛の上に置かれたので、一つまみだけ手を伸ばした。
「美味しいね。変わった味だ」
僕の感想に玲子は目を細めた。
「岡本さん、よく映画には来られるんですか」
「いや、久しぶりだよ」
「絵美さんは映画好きでしたよね」
と言ってから、玲子は顔をしかめた。
「ごめんなさい。私ったら、無神経なこと言って」
「気にしないで、大丈夫だよ」
絵美が玲子と仲がよかったことは知っていた。玲子は一年後輩だったが、よく絵美の話に名前が出てきた。
「絵美さんには会社に入った時からすごく可愛がって頂いて。感謝しています。絵美さんが居なかったら、私、一ヶ月も持たなかったかもしれません」
玲子はストローから少し飲み物を吸い上げた。
「当時主任をしていた人はすごく厳しい人で、私は毎日何度も怒られてました。言われたとおりにやっていても、そうじゃないって怒られて、本当に辞めてやるって何度も思いました。でも、絵美さんが親身になって助けてくれて、だからこれまで続けてこられたんです」
「そんなことがあったんだ」
絵美からも聞いたことが無い話だった。絵美も入社した頃は厳しい指導を受けたという話は聞いたことがあったが、想像していた以上だったようだ。
「女だけの職場って、どうしてもそういうことがエスカレートしやすいんですよね」
「そんなものかな」
僕は曖昧に受け流しておいた。間もなく映画が始まってしまい、会話は途絶えた。笑ってしまうシーンでは、顔を見合わせることもあったが、さすがに話すことはできなかった。
映画の途中でマナーモードにしていた携帯が振動した。確認することができなかったが、最近連絡を寄こす相手は限られていた。短時間で止まったので、メールのようだった。
映画が終わって、ロビーに出ると玲子がお茶をしないかと訊いてきた。僕は起きてから何も食べていなかったことを思い出し、急に空腹を覚えた。
「そうだね」と言いながら、携帯のことを思い出し「ちょっと失礼」と断って、着信を確認した。
やはりメールだった。恵梨香からだった。なぜか玲子の前でメールを読むのがはばかられたので携帯をポケットに仕舞いながら「トイレに行っても良いかな」と言って同じフロアにあるトイレに入った。
並んでいる列から離れて、再び携帯を取り出してメールを読んだ。あの男が今度は恵梨香がバイトしている店にやってきたようだ。できれば仕事が終わった後、うちに来たいと書いてあった。仕事は七時までだという。
急いで返信を打った。駅まで迎えに行くから、仕事が終わったら連絡するように書いた。今の時間を確認すると、三時二十五分だった。
同じ建物の中にあるスタバに行ってみた。土曜日ということもあって、ほとんど席は埋まっていたので、そのまま飲み物を手に外へ出た。僕は食事していないことを話して、サンドウィッチも一緒に買った。日陰は寒かったので、陽の当たる場所を選んで歩道脇のブロックの上に腰掛けた。周囲にも同じように腰掛けている人がたくさん居た。
玲子はベージュの落ち着いたニットのツーピースを着ていた。ひとりで映画に来ていたということは、今付き合っている相手は居ないのだろうかと思ったが、口にはしなかった。
「映像で見る雪国って、本当に素敵ですよね」
「僕は長野の生まれなんだ」
玲子はビックリしたようだった。
「そうだったんですか。知りませんでした。じゃあ映画の場所にも行ったことあるんですか」
「子供の頃、諏訪には何度か行ったけど、映画に出てきたような場所には行った記憶は無いな」
「へえ、でも意外でした。岡本さんって、こちらの方だと思っていました」
僕はサンドウィッチを頬張りながら、笑った。
「結構そう言われるけど、中学の時にこっちに越してきたんだ。それからずっと居るから、こっちの方が長くなってしまったけど」
玲子は納得したように頷いた。
三十分ほどそこで話をした。玲子の子供の頃の話や、絵美との思い出も話してくれた。僕の知らない絵美の話だった。何故か不思議な気がした。陽が傾いてくると、肌寒さを感じるようになってきた。
両親と暮らしているという玲子は、買い物をしてから帰ると言って新しくできたショッピングモールに入っていった。僕は時間を確認して、家に帰ってもすることが無かったので、もう少し時間をつぶすことにした。この一年でこの駅の周りはすっかり変わってしまった。知らない店がたくさんできて、それを覘いているだけで時間はあっという間に過ぎていった。
七時頃に自宅近くの駅に戻り、目の前の本屋で立ち読みをして待つことにした。間もなく恵梨香からメールが届いた。駅で電車待ちをしているという。
恵梨香がバイトしている叔母の店は、ここから二駅隣りだから数分で来るだろう。駅前で待っているとリプライして、駅が見える位置まで移動して雑誌を手に取った。
三分ほどして、ホームに電車が入ってくるのが見えた。僕は雑誌を棚に戻して店を出た。
土曜ということもあって、勤め帰りというよりは、どこかに出かけて帰ってきたという感じの人が多かった。恵梨香の姿は改札を抜ける前から確認できた。グレイ地にピンクの糸でステッチされたワンピースを着ていた。手にはこの前と同じ大き目のバッグを重そうに提げていた。
「ごめんね、せいさん。せっかくの休みに」
重そうに両手で抱えるバッグを「持つよ」と手を伸ばした。
「ありがとう。今日はね、オムライス作ろうと思って」
バッグの取っ手を広げて中を覘くと、玉ねぎなどの野菜やビニール袋に入った食材が見えた。
「お米あるよね」
「あるけど・・、そんな」
「やだなあ、遠慮しないで。せいさんは私の命の恩人なんだから」
「もう、十分お礼はしてもらったよ」
「いいじゃん」恵梨香に肩を叩かれた。「どうせ家に帰って、自分の夕飯作るなら、一緒、一緒」
僕は気になっていたことを思い出した。
「例の男はどうしたんだ」
恵梨香の表情が一瞬曇った。
「お店に来たんだけど、大人しく帰ったから・・、今日は大丈夫だと思う」
「そうか、それなら良いけど。帰りは念のため送っていくよ」
「ありがとう」
その一言で、いつもの恵梨香に戻った。
恩返しをする鶴ではないが、私は覘かないように釘を刺され、バターで肉や野菜を炒める香ばしい香りを嗅ぎながら、テレビの前に座って待っていた。前回と違い、調味料などの在り処も分かったようで、楽しげに鼻歌交じりに心地よい音が響いた。
「このソースだけは真似ができないから、もらってきたんだ」
時折、叔母のことや今日の店内での出来事を話すが、僕の返事は料理をする音で聞き取れないようなので、聞いているだけにした。空腹を刺激する香りが部屋に充満した頃「お待たせ」と言って、出来上がったオムライスが僕の前に出された。
「せいさんのは大盛りね。冷めると美味しくないから、先に食べてて」
とろとろの卵にデミグラスソースが乗っている。
「いただきます」
スプーンを一口運ぶと、想像以上に美味しかった。
「すごい、こんな美味しいオムライス食べたこと無いよ」
台所から恵梨香が顔だけ覗かせて、笑顔をみせた。私が半分ほど食べたところへ、恵梨香が自分の皿とスープを持ってきた。
「驚いたよ、この前のカレーも美味しかったけど、今日のオムライスは絶品」
「せいさんに喜んでもらえると、作った甲斐があるわ」
恵梨香は大きな目を細めて微笑んだ。
「これも叔母さん直伝?」
「そう、でも卵をスクランブル風にしたのは私のオリジナルよ。お店では普通のだけど」
「なるほど」
しばらくの間、恵梨香は自分では食べずに、僕が食べるのを見ていた。僕の手も止まってしまった。
「どうしたの、食べないの」
「だって、せいさん。本当に美味しそうに食べるんだもの」
恵梨香は指で目の下を押さえた。
「そんなに喜んでもらえたら、嬉しくて・・」
「なんだよ、恵梨香ちゃんらしくないな。さあ、食べよう」
それからはテレビの音を聞きながら、しばらく無言で食事をしたが、半部くらい食べたところで恵梨香はスプーンを置いた。
「ごちそうさま。お昼が遅かったから、もうお腹一杯」
そう言って、お腹をさすった。
「じゃあ、もったいないから、僕が食べるよ」
僕は恵梨香の皿を引き寄せた。僕が食べ終えるまで、恵梨香は笑顔のまま見ていた。
「ああ、本当に満腹。でも恵梨香ちゃん、何を作っても上手だね。家に居た時から料理はしてたの」
恵梨香の表情に陰が差したような気がして、僕はまずいことを言ってしまったかと後悔した。
「家ではお母さんが作っていたから、私はほとんど作ったこと無いけど。叔母さんがいろいろ教えてくれるから」
そうか、と僕は口を濁した。ふたりで皿を片付け、恵梨香が食後の紅茶を入れてくれた。
「これ、ハーブ入りだけど、せいさん大丈夫?」
ほんのりピンク色が差した紅茶を一口啜ってみた。
「うん、美味しいよ」
今日恵梨香が持って来てくれたのは、オレンジが入った焼き菓子だった。それが紅茶に良く合った。
「せいさん」
えっと僕が聞き返すと、恵梨香は一度逸らした視線を戻して言った。
「今日はあの人のこと、聞かせてくれる?」
恵梨香になら話せるかもしれない、と思った。興味本位に聞きたがる人が居なかったわけではない。これまでも話している相手に、そんな素振りを感じたことはあった。でも、自分から進んで話そうと思ったことはなかった。話したくもなかった。話すことは、またその時の状態に自分を置くことに他ならない。
健一達はそれを気遣ってか、逆に訊こうとはしなかった。しかし会社の上司の中には、同じ会社に籍を置くふたりの身に起こった出来事として自分が把握しておかなければならない、などという理屈を盾に、根掘り葉掘り聞き出そうとする者もいた。それでも、僕は最低限の報告以外はしなかった。
しかしこの前、健一達に会った後、自分でもこのままではいけないと思うようになっていた。カウンセラーに話すのもひとつの方法かもしれないが、恵梨香になら話せる気がしていた。この前恵梨香に絵美の話をして欲しいと言われてから、これが良い機会かもしれないと思っていた。
僕は絵美との最初の出逢いから、話し始めた。




