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 恵梨香からの連絡はなかった。僕の中に電話かメールを期待する気持ちが無かったといえば嘘になるが、若い娘はこんなもんだろうな、という気持ちがそれを打ち消した。

 公衆電話から電話をしてきた男からも、その後は連絡が無かった。ちょっと波乱が起こりかけた僕の生活も、徐々に元に戻ろうとしていた。

木曜日の仕事帰り、電車の改札を出て、次第にクリスマスの飾り付けが目立つようになった商店街を歩き始めると、背後から声がした。直ぐに恵梨香だと気付いた。

「せいさん」

 振り返ると、この前会った時と同じコートに赤いマフラーを巻いた恵梨香が居た。今日は髪をポニーテールにして上げている。にっこり笑う口元に白い歯が綺麗に並んでいた。今日は布製のカバンを両手で前に下げていた。

「よう、久しぶりだね。体調は戻った?」

「もう大丈夫。せいさんは今会社の帰り?」

「そうだよ」

 夕飯はこれからかと訊かれたので、そうだと答えると、恵梨香は満足そうに頷いた。

「じゃあ、これから私が夕飯作ってあげる。行こう」

 僕の返事も待たず、恵梨香は歩き出していった。慌てて後を追いかけて問い質すと、カレーを作ってくれるということだった。

「市販のルーじゃないのよ。叔母さんがお店で出してる特製カレーの香辛料を分けてもらって来たの」

 恵梨香は嬉しそうに説明した。


 部屋に上がり込むと、マフラーとコートを脱いで、恵梨香はバックの中から食材を取り出した。手際よく野菜を刻む音がし、間もなく鍋を火に掛け、炒める音がし始めた。

 肉と野菜を香辛料と共に炒める香りが部屋に広がった。

「あっ、ご飯炊かなくちゃ」

 鍋に水を加え煮込み始めると、今度は炊飯器に米を入れて研ぎ始めた。

「このお米、大丈夫よね」

「お袋が送ってくれた。今年の米だよ」

 僕はベッドに寄りかかってテレビを見ながら答えた。

 それから三十分ほどして「できたー」という声が聞こえてきた。しかし、炊飯器はまだご飯が炊けたことを知らせるピーという音をたてていない。

「あと二分でご飯が炊けるから、もうちょっと待っててね」

 さっきから空腹を刺激する、カレーの良い香りが鼻を突いていた。

「スプーンはどこ?」

「食器棚の左の引き出しの中」

 間もなく、あったという声がした。同時にご飯が炊き上がった音が響いた。

「せいさん、お待たせ」

 恵梨香がカレーを乗せた皿を運んできた。もう一度台所へ引き返すと、小皿に乗ったらっきょうとスプーンを持ってきた。

「福神漬けの方がよかった?このらっきょうも美味しいから食べてみて。さあ、せいさん、食べよう」

 恵梨香に促されてスプーンを手に取り、一口カレーを口に含んだ。恵梨香は僕のリアクションを待って、じっと見ている。

「美味しい」

 僕の感想に、恵梨香の顔の緊張が一瞬にして緩んだ。本当に美味しかった。

「良かったー」

 安心したのか、恵梨香の右目がちょっと潤んだ気がした。彼女も一口食べて、これなら上出来と言った。

「お店で作るときと、量とか全然違うから自信なかったんだ」

「本当に美味しいよ」

「せいさんに喜んでもらって、本当に嬉しい」

 普段は大きな瞳を、これ以上ないくらい細めて見せた。僕はお代わりをして二杯目を食べ始めた。

「今日は仕事休み?」

「うん、私は月曜と木曜がお休み。もうひとりのバイトの子と、都合によっては代わることがあるけどね」

「そうか」

 僕はコップの水を飲みながら、カレーを食べ続けた。あまり辛いカレーは苦手だが、喫茶店で出しているカレーだけあって、それほど辛味は強くなかった。

「いろんな野菜が入っているようだけど」

 そう言うと、恵梨香は最後の一口を食べ終え、ティッシュで口元を拭った。

「わかる? 企業秘密だから全部は教えられないけど、セロリも入ってるのよ」

 僕は一瞬、スプーンを持つ手が止まった。

「セロリ、苦手なんだけど」

 恵梨香は自慢げに微笑んだ。

「でも、分からなかったでしょう。セロリはみじん切りにして入れてるから」

 確かに、二皿食べ終えようとしていたのに、セロリが入っていることには気がつかなかった。

「だめだよ、せいさん。好き嫌いしてちゃ」

 僕は苦笑いした。

「これならセロリも食べられるよ」

 でしょう、と恵梨香は得意げに親指を立てた。


 カレーを食べ終え食器を片付けると、恵梨香は薬缶をコンロにかけ、紅茶を入れる用意をした。叔母に美味しい紅茶の葉を分けてもらってきたと言った。

 皿はそのままで良いと言ったのに、恵梨香はお湯が湧くまでの間に洗い物を済ませ、これも店の売れ残りというマドレーヌをバッグから取り出した。

 紅茶は美味しかったのだろうが、カレーを食べた後だったのと、熱さで上顎を火傷してしまい、上手く味わうことができなかった。

「せいさん、大丈夫?」

 恵梨香に呆れられてしまったが、僕は結構食べ物で火傷をし易かった。しばらくの間、僕の左側に座った恵梨香も、紅茶のカップを持ったままテレビの画面に見入っていた。

「ねえ、せいさん」

 えっ、と僕はカップを唇から離して恵梨香に目を向けた。恵梨香は僕の方は見ず、テレビに視線を向けたまま話した。

「せいさん、自分の中に溜め込んじゃあダメだよ。少しずつ吐き出さないと、パンクしちゃうよ」

 僕は彼女が何を言い出したのか、分からなかった。

「私も同じような経験したから分かるの。誰にも言えないかもしれない。特に男の人は、友達とかにも話しづらいって聞くから。

私も誰にも言えなかった。友達にも。言えることじゃなかった。

 でも、何回かカウンセリングを受けて、初めて何年も胸の中に溜め込んでいたものを吐き出すことができたの。

 最初はカウンセリングなんて受けても、カウンセラーが何をしてくれるっていうのって思ってた。でも、何度か通っているうちに分かったの。カウンセラーが何かしてくれるんじゃない。私はあそこに行って、自分の胸の中に淀んでいるものを吐き出す時間と相手を得るためにお金を出しているんだって。

 それが分かって、話すことで少し楽になったの。ほんの少しだけだったけど、それまで溜まる一方だったものが、少しだけでも減っていくのが嬉しかった」

 恵梨香は頭を垂れ、両手で顔を覆った。僕はティッシュを箱から抜き出し、恵梨香の手に当てた。ありがとう、と言って恵梨香はそれを受け取った。

「せいさんを見ていると、分かるの。あのときの私と同じだって。このままじゃ、いくらせいさんが強くったって壊れてしまう」

 たった二日間同じ部屋に居ただけなのに、目の前に居る少女は僕の中にある問題を感じ取ってしまったようだ。あるいは、自分と共鳴する何かがあったのかもしれない。

「恵梨香ちゃんが見ても、今の僕はやっぱり病んでいるように見えるか」

 恵梨香は頷いた。

「そうだろうな。僕の時計は三ヶ月前に止まったままだ。進めることも、戻すこともできない。でも、世の中はそんなことにはお構い無しに、動き続けている。僕はその流れにさえ乗ることができない」

 愛するものを喪った喪失感を抱えて生きている人はたくさん居るだろう。僕だけのことじゃないのは分かっている。甘えていると言われてしまうかもしれないが、僕の場合は喪い方も普通じゃなかったと思う。そんなことは言い訳なのは自分が一番分かっているけど。


 紅茶を飲み終えると、恵梨香は帰り支度を始めた。僕は家まで送って行くと言ったが、恵梨香は大丈夫だからと玄関で靴に足を入れた僕に構わず、ドアを閉めて廊下を駆けて行った。

 僕がドアを開けて廊下に出ると、恵梨香は既に階段を下り、左手にバッグを提げて駅の方へ小走りで向っていた。一度だけ振り返った時に、僕はありがとうと叫んで手を振った。恵梨香も手を上げたが、その姿は直ぐに見えなくなった。

 その夜、僕は初めて恵梨香にメールを送った。「カレー美味しかった、ありがとう」と打った後に、しばらく考えて「また遊びにおいで」と付け加えた。

 恵梨香からメールの返信が来たのはその夜、十二時を過ぎてからだった。僕は週刊誌の映画紹介のページを読んでいた。

 前回同様、絵文字が散りばめられたメールには、「またご飯作ってあげるね」「今日は聞きそびれたから、今度約束してた恋人の話を聞かせてね」という文字と共に、今日店に来たおじさんの失敗談が書かれていた。


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