第9話 順番
夏の終わりにその男が来た。
四十がらみの、荷運びの男だった。左の脛が、潰れていた。
「石材の下敷きになった」
付き添いの兄弟が、そう説明した。
「三日前だ。施療院に行った。行ったんだが」
「並んだのか」
「並んだ。順番は、二十日後だと」
父が、傷を見て、顔をしかめた。
俺も見た。
脛の骨が、皮膚を破って外に出ている。開放骨折だ。開いた傷は、三日分の汚れを吸い込んで、赤黒く腫れ上がり、周りの皮膚が張って、熱を持っていた。
膿の匂いがした。それも、かなり濃い。
もう始まっている、と俺は思った。
傷から入ったものが、脚の中で増えている。増えたものは、いずれ脚を出て、身体全体を巡る。そこまで行けば、脚の話ではなくなる。この男が死ぬかどうかの話になる。
前の世界なら、切って洗う。汚れた肉を全部そぎ落とし、洗って、開けたまま置く。抗生物質を入れる。それでも間に合わなければ、脚を落とす。
三日は、遅い。だが、まだ手はある。
俺は、男の身体を見た。熱がある。だが、まだ意識ははっきりしている。脈は速いが、乱れてはいない。
境界線の、手前だ。あと二日遅ければ、間に合わなかった。
「二十日は、待てねえよな」
兄弟が言った。
「だから、ここに来た。あんた、薬を持ってるって聞いた。教会の、本物の薬を」
父の目が、動いた。
「......あるにはある」
「いくらだ」
兄弟が銭袋を出した。中身を見た父の顔が、緩んだ。
やめろ、と俺は思った。
やめろ。この傷にあの薬を垂らすな。
汚れた傷を上から塞いだら、どうなるか。
中に入ったものが、外に出る道を失う。膿は、行き場をなくして、脚の中で増え続ける。あの若い男の腹と、同じことが、この脚で起きる。
血の代わりに膿で。
しかも今度は、それが全身に回る。
血の中に膿が回れば、熱が出る。脈が乱れる。意識が落ちる。そこまで行けば、脚を落としても間に合わない。
前の世界でも、抗生物質がなかった時代には、それで大勢が死んだ。傷そのものではなく、傷の後で死んだ。
「とうさま」
俺は、袖を引いた。
「その傷、ふさいだら、だめだ」
「またお前か」
「なか、きたない。きたないまま、ふたしたら、なかで、ふえる」
「増える? 何がだ」
説明できない。
この世界に細菌という言葉はない。目に見えないものが傷から入って増える、という概念そのものが、たぶん、ない。膿は「悪い血」か「毒気」か、そういう説明をされているのだろう。
俺は、この世界の医学書をまだ読めない。読めるようになれば、この世界が膿をどう説明しているかがわかる。わかれば、その説明の言葉を使って、話ができるようになる。
まだ、その手札がない。
だから俺は、見えるものだけで言った。
「うみ。うみが、そとにでられなくなる。でられないと、あしのなかにたまる。たまったら、あしのなかから、からだじゅうにいく」
「くだらん」
「まえの、はらのひとと、おなじ」
父の手が、止まった。
あの若い男のことをこの男は忘れていない。忘れられるはずがない。塞がった傷の下で、人が死んだ。その記憶が、この男の中にまだ引っかかっている。
引っかかっているのは、良心ではない。
商売の勘だ。あの一件で、父は連れの男に凄まれた。銭は貰ったが、二度と関わるなと言われた。あれは、この男にとって「損をした一件」として記憶されている。
損は、覚える。
「…じゃあ、どうしろってんだ」
「あらう。なかまで。きたないにく、とる。それから、ふさがない。あけたまま、おいとく」
「開けたままだと?」
「うみが、そとにでる、みちをのこす」
父は、しばらく、傷を見ていた。それから、兄弟のほうを見た。
「......薬は、使わん」
「なんでだ! 銭は出すと言ってるだろう!」
「使えば死ぬかもしれん、とこいつは言ってる」
「こいつって、その子供がか!」
兄弟の声が、跳ね上がった。
当然だ。六つの子供の言葉で、命がかかった判断が覆される。誰だって納得しない。俺が逆の立場でも、納得しない。
医者の言葉に人が従うのは、医者が正しいからではない。医者だから従うのだ。免状、白衣、肩書き。そういうものが、判断に重さを与える。
俺には、その全部がない。
あるのは、正しさだけだ。
正しさだけでは、人は動かない。
「うちの子は、変な目を持ってる」
母だった。
土間の隅で、母が、静かに言った。
「前にも、この子の言った通りになった。あんたら、二十日待てば死ぬから来たんだろう。なら、この子の言う通りにやらせてみたらいい。駄目なら、薬は返す。銭も返す」
母は、俺を見なかった。
だが、その言葉が、天秤を傾けた。
権威ではない。実績でもない。「駄目なら銭を返す」という、商売の言葉が、天秤を傾けた。
俺は、母のその一言を覚えておくことにした。
人を動かすのは、正しさではない。相手が損をしない、という保証だ。
正しさだけでは、天秤は、傾かなかった。母の一言――駄目なら銭を返す――が、傾けた。
免状も、白衣も、肩書きもない俺にあるのは、正しさだけだ。だが、正しさは、それだけでは、人を動かさない。動かすのは、相手が損をしない、という保証だ。この一事を、俺は、六つの冬に母から、学んだ。
その夜、俺たちは、脛を洗った。
父が押さえ、母が湯を運び、俺が指示を出した。指示といっても、六つの子供の口だ。
「ここ、とって」
「もっと、おく」
「そのいろのにく、いらない」
------そんな言葉の連なりだった。
死んだ肉と生きた肉は、色が違う。切ったときに血が出るかどうかで見分けがつく。出ないものは、もう死んでいる。死んだ肉は、腐敗の温床にしかならない。
前の世界では、これをデブリードマンと呼んだ。
やることは、単純だ。ただ、辛抱が要る。汚れた組織を一片も残さず取り除く。残せば、そこからまた増える。
父の手は、やはり遅かった。だが、この日は、途中から俺の言うことをいちいち確かめずに従うようになった。
男は、途中で三度、気を失った。
痛みだ。麻酔がない以上、生の肉を削られる痛みをこの男は素面で受けている。押さえる父の腕が、何度も跳ね飛ばされた。
俺は、その痛みをどうすることもできなかった。
痛みを消す方法があることを、俺は知っている。この世界にはないだけで、存在する。存在するのにここにはない。
また、それだ。
明け方近くまでかかった。
傷は、開けたまま置いた。塞がなかった。布を当てて、毎日取り替えるように言った。
男は、その脚で歩けるようになるまで、二月かかった。骨は曲がったままくっついた。前の世界なら、もっと綺麗に治せた。俺の手が大人の手だったら、もっと早く歩かせられた。
だが、脚は残った。男も、残った。
二十日後、順番が回ってきた施療院にこの男は行かなかった。行く必要が、なくなっていたからだ。
俺は、その二十日という数字を覚えておくことにした。
坂の上には、薬がある。医者がいる。祈りがある。
だが、そこに辿り着くのに二十日かかる。
二十日の間に脚は腐る。人は死ぬ。
順番待ちの列に並んだまま死んだ者が、この街にこれまで何人いたのか。
誰も数えていない。
誰も数えないから、それは事故ではなく、天気のように扱われている。運が悪かった、と。
ふざけるな。
坂の上の連中は、たぶん、自分たちが人を救っていると思っている。実際、救ってはいる。列の前のほうに並べた者は、救われる。
だが、列そのものが、人を殺していることには、気づいていない。
いや------気づいていて、仕方がないと思っているのかもしれない。
そちらのほうが、たぶん、正しい。
そして、そちらのほうが、俺には、遥かに許しがたかった。




