第10話 拭う
魔法薬の境目を確かめる機会は思ったより早く来た。
七つになる冬だった。
その日運び込まれたのは、酔って階段から落ちた男だった。
太腿の外側が、大きく裂けている。長さは掌ほど。深さは------指が第二関節まで入る。
深い。だが、腹ほどではない。
俺は、傷の底を覗いた。大腿の外側。大きな血管の走行からは、外れている。血の出方が、押し出す形ではなく、湧く形だ。静脈と、細かい血管。骨には届いていない。筋膜は切れているが、筋の断裂は浅い。
急いで縫えば、命に別状はない。
そして------ちょうどいい深さだ、と俺は思った。
腹ほどではない。だが、浅くもない。指が第二関節まで入る、この深さ。魔法薬が、蓋になるか、届くか。その境目を確かめるのにこれ以上ない傷だった。
ただし、これは、試しではない。この男をいちばんよく治すやり方を選ぶだけだ。境を知ることと、この男を助けることが、たまたま、同じ方を向いていた。試しのために人を使う線は、越えない。越えないまま、確かめられる機会だった。
浅すぎない。深すぎない。薬が外だけを塞ぐか、奥まで届くか、その境目を確かめるのにこれ以上の傷はない。
そう考えた自分に一瞬、引っかかりを覚えた。
俺は今、目の前の患者を試す機会として見た。
前の世界なら、それは許される種類の思考だった。症例から学ぶのは、医者の仕事だ。だが、学ぶことと、試すことの間には、線がある。
俺がこれからやろうとしているのは、この男にとって、最善の処置か。
------最善だ。
拭ってから垂らせば、少なくとも、拭わずに垂らすよりは良い結果になる。理屈がそう言っている。理屈が外れたとしても、拭うこと自体が害になる要素はない。
なら、いい。
俺は、その線を自分の中で確かめてから、動いた。
「薬を使う」
父が言った。
俺は、止めなかった。
止める代わりにこう言った。
「とうさま。まえにいっしょにやらせて」
「なんだと」
「ちをふいてから、たらす。そしたら、ちがう」
父が、俺を見た。
この一年で、俺の言葉に対する父の反応は、変わっていた。頭ごなしに退けることが、減っていた。
荷運びの男の脚が残った件は、裏路地でそこそこ噂になっている。
「ガルドんとこの子供が、脚を助けた」と。
噂は、父の商売の役に立っている。だから父は、俺を無下にしなくなった。
してほしくはなかったが、都合はいい。
「......好きにしろ。だが、薬は俺が垂らす」
俺は、傷に取りかかった。
まず、血を止める。
押さえるべき場所を押さえ、少し待つ。細い血管なら、押さえているだけで止まる。血は自分で固まる力を持っている。その力が働く時間を与えてやればいい。
一つ数え、十数え、三十数える。
それから、布で傷の中の血を拭う。丁寧に奥まで。傷の底の肉が、露わになるまで。
血が邪魔なのだ、と俺は考えていた。
薬は、外表皮に一番濃く効く。それは、薬が外から入るからだ。だが、傷の中が血で満ちていれば、薬は血に薄められる。薄められれば、奥に届く前に力を失う。だから外だけが塞がる。
なら、血を拭って、薬が直接、傷の底に触れるようにすればいい。
薬を底から効かせる。
「いま。たらして。うえじゃなくて、なかに。ぜんぶ、なかに」
父が、瓶を傾けた。
液体が、拭われた傷の底に直接落ちた。
そして------底から、閉じた。
俺は、それを食い入るように見ていた。
傷の一番深いところの肉が、まず寄った。それから、その上の層。次にその上。順番に下から積み上がるように傷が浅くなっていく。最後に皮膚が閉じた。
外表皮が閉じたときには、既に中は埋まっていた。
「......おい」
父が、掠れた声を出した。
「今の、なんだ。いつもと、違う」
「したから、なおった」
「下から?」
「そう。まえは、うえからだった。だから、なかがのこった。こんどは、したから。だから、なかも、なおった」
父は、閉じた傷を指で押した。押して、腫れていないことを確かめた。それから、俺を見た。
その目に浮かんでいたものを、俺は覚えている。
驚きでも、感心でもない。
算盤だった。
この子は、金になる。
そういう目だった。
俺は、俯いた。俯いて、自分の手を見た。血を拭った布が、まだ握られている。
理屈が、証明された。
薬は、届いた場所から効く。だから、届かせる場所を選べば、制御できる。血を拭い、傷の底に直接触れさせれば、深いところから治る。逆に拭わずに垂らせば、外だけが塞がって、中が置き去りになる。
万能ではない。だが、道具にはなる。
使い方さえ間違えなければ。
そして、この世界の誰も、その使い方を知らない。
坂の上の施療院でも、たぶん知らない。
彼らは正規の薬を正しい手続きで、たっぷり使える。使えるからこそ、垂らすだけで済んでしまう。浅い傷なら、それで治る。治らなかった深い傷は、「傷が重かった」で片付けられる。
薬が足りているところでは、薬の限界に気づけない。
足りない場所でこそ、限界が見える。
俺は、下水口の、色水を売る家で、それに気づいた。
皮肉な話だ。
この世界で最も医療から遠い場所にいたからこそ、この世界の医療の急所が見えた。
「クレイ」
父が、俺の肩を掴んだ。
「その下から治すってやつ。他の傷でもできるか」
「ふかいの、なら」
「腹でもか」
「はらは、むり」
俺は首を振った。
「はらのなか、ちが、ずっとでる。ふいても、すぐたまる。それになかで、なにがきれてるか、みえない。みえないと、なおせない」
「なら、どうすりゃいい」
俺は、答えなかった。
答えは、頭の中にはあった。
開けて、見て、探して、縛る。血が溜まるなら吸い出しながらやる。見えないなら、光を当てる。手が足りないなら、増やす。痛みで暴れるなら、眠らせる。
その全部が、この土間には、ない。
だが、いつか揃える。
一つずつ。刃物を打たせ、光を確保し、薬を作り、手を集める。何年かかっても構わない。この身体は、まだ七つだ。時間だけは、前の世界より、たっぷりある。
前の世界で、俺に足りなかったのは、時間だった。
今度は、時間だけがある。
「まだ、むり」
俺は言った。
「クレイの、てが、ちいさいから」
父は、俺の手を見た。七つの子供の、小さな手を。
「......大きくなれ」
そう言って、父は笑った。
大きくなれば、もっと稼げる。そういう笑いだった。
俺は、笑い返さなかった。
大きくなる。そのつもりだ。
だが、それは、この男のためではない。




