第11話 下水口の子医者
噂は、俺が思っていたより速く広がった。
「ガルドんとこの子供に診てもらえ」
下水口の路地で、そう言われるようになったのは、八つになる頃だ。
荷運びの男の脚が残り、階段から落ちた男の傷が跡も残さず塞がり、熱で死にかけた子供が何人か生き延びた。それだけの実績で、裏路地の噂は立つ。
裏路地の人間は、免状を見ない。結果しか見ない。
前の世界とは、逆だ。あちらでは、資格が先にあった。資格のない者が正しいことを言っても、誰も聞かなかった。ここでは、資格そのものが存在しない。だから、結果だけが物を言う。
その分だけ、ここは公平だ。
そして、その分だけ、危うい。
結果だけで評価される場所では、たまたま上手くいった詐欺師と、本物の技術を持つ者が、区別されない。父が三十年やってこられたのは、そのためだ。
だから、俺は「子医者」と呼ばれた。
父は、それを面白く思っていなかった。
「客はな、俺に用があって来るんだ。お前は手伝いだ」
そう言いながら、父は俺に診させた。診させて、銭は自分が受け取った。
それでいい、と俺は思っていた。銭に興味はない。俺が欲しいのは、症例だ。
症例が要る。
この身体は、まだ小さい。指も短く、力も足りない。だが、目と頭は前のままだ。使える手が育つまでの間に、俺はこの世界の身体をこの世界の病をこの世界の傷を片端から見ておかなければならない。
前の世界の知識が、そのまま通じるとは限らない。
それは、早い段階で気づいていた。
たとえば、この世界の人間の傷の治りが、少し速い。
魔法薬を使わなくても、俺の記憶にある治癒の速度より、二割ほど速い。単純な切創なら、前の世界で二週間かかったものが、十日で塞がる。骨も、記憶より早くくっつく。
理由はわからない。
空気中の何かか、身体の作りが微妙に違うのか、あるいは、この世界の人間が全員、薄く魔力とやらを帯びているのか。
そして、もう一つ、気づいたことがあった。
速さが、揃わない。
同じ深さの切創を同じように洗って、同じように置いておく。それで、十日で塞がる者と、十六日かかる者がいる。年齢でも、栄養でもない。若くて健康な男が遅く、痩せた老婆が早いことがある。
前の世界にも、治りの個人差はあった。だが、あれは説明がついた。年齢、栄養、持病、血の巡り。数えられる理由が、必ずあった。
ここには、それがない。
数えられる理由を全部揃えても、まだ、揃わない。
------魔力だ。
俺は、そう見当をつけた。
この世界の人間が薄く魔力を帯びていて、それが治癒を助けているなら、その量に個人差があれば、治る速度も揃わない。魔力の多い人間は早く治り、少ない人間は遅い。
そして、その量を、俺は測れない。
見えない。触れない。訊いてもわからない。本人すら知らない。
これは、まずい。
前の世界で、俺が持っていた見立ての基準が、根こそぎ揺らぐ。
十日で塞がるはずの傷が、十六日かかっている。それは、俺の処置が悪かったからか。それとも、この患者の魔力が少ないだけか。
区別がつかない。
区別がつかなければ、俺は自分の処置が正しかったかどうかを判定できない。
魔力という、測れない変数が、間に挟まる。俺の処置が良かったのか、患者の魔力が多かっただけなのか。切り分けられない。
前の世界の俺の物差しは、数えられる理由だけでできていた。ここには、数えられない理由が混じっている。ならば、数を増やすしかない。一つ一つでは消えない魔力の差も、数が集まれば、平らになる。だから、数える。
判定できなければ------学べない。
そこまで考えて、俺は、背筋が冷えた。
これだ。
これが、この世界の医学が育たなかった、もう一つの理由だ。
この世界では、同じ処置をしても、結果が揃わない。揃わない原因が、誰にも見えない。だから、何が効いて何が効かないかを誰も確定できない。
「この薬は効く」と言う者がいる。実際、その者が使った患者は治った。
「あの薬は効かない」と言う者がいる。実際、その者が使った患者は死んだ。
どちらも嘘をついていない。どちらも、自分の見たものを正しく報告している。ただ、患者が違っただけだ。
そういう世界では、経験は積み上がらない。積み上がるのは、矛盾する言い伝えだけだ。
だから、薬草の書には「効く」としか書いていない。なぜ効くのかは書いていない。書けるはずがない。書こうとしても、証明する方法がない。
「わかるのは神様だけだ」
いつか薬師の老人がそう言うことになるのをこの時の俺はまだ知らない。だが、この街の誰に訊いても、似た答えが返ってくることは、既にわかっていた。
それは、信仰ではない。
諦めだ。しかも、この世界の条件下では、正しい諦めだ。
------なら、どうする。
俺は、その夜、長いこと考えた。
測れない変数がある。それは、動かせない。
なら、その変数をそもそも問題にしなくて済む形で、数を集めればいい。
たとえば------同じ患者を使う。
同じ人間の身体で、右腕と左腕に同じ傷ができたなら、その二つの魔力は同じはずだ。片方だけ洗い、片方は洗わない。結果が違えば、それは処置の違いだ。
そんな都合のいい患者は、滅多にいない。
なら、数で潰す。
治りの速さが人によってばらつくなら、たくさん集めればいい。十人ずつ二組に分けて、片方だけに処置をする。組の中に魔力の多い者も少ない者も混ざる。混ざったまま、組同士を比べる。数が増えるほど、ばらつきは打ち消し合う。
残るのは、処置の違いだけだ。
------ああ。
俺は、帳面を見た。
この紙束が、何のために要るのかが、その夜、はっきりした。
一人の患者を助けるための記録ではない。この世界の誰にも見えない変数を数の力で殴り倒すための記録だ。
何百件。できれば、何千件。
そこまで集めて初めて、俺は「これは効く」と言える。
そして、その時初めて、俺の言葉は、この世界で意味を持つ。
だとすれば、感染の起き方も違うかもしれない。薬の効き方も違うかもしれない。
魔法薬の効きすら、患者の魔力によって変わる可能性がある。
------それは、確かめなければならない。
もし本当なら、俺の見つけた「拭ってから垂らす」という手順も、患者によって結果が変わることになる。効く者と、効かない者がいる。
そして、効かなかった時、この世界の人間は、こう言うだろう。
運が悪かった、と。
俺の知識は、前提が違う世界の知識だ。
だから、確かめる。一つずつ。
八つの年、俺は帳面をつけ始めた。
紙は高い。だから、父が捨てる薬の包み紙を集め、裏に書いた。
誰が、いつ、どんな傷で、何をして、どうなったか。それだけを短く。読める者がいたら困るので、前の世界の文字で書いた。この世界の誰にも読めない文字は、それだけで安全だ。
三月で、七十枚ほど溜まった。
読み返すと見えてくるものがある。
深い傷に薬を垂らして死んだ者が、俺の知る限りで、三人。うち二人は腹、一人は腿の付け根。生き延びた者は、いずれも傷が浅かったか、俺が拭ってから垂らした者だ。
汚れた傷を塞いだ後、数日して熱を出した者が、五人。うち二人が死んだ。
熱の病で来た子供のうち、鼻の脇が動いていた子は、四人中三人が悪化した。動いていなかった子は、九人中一人だけだった。
数が語る。
前の世界で、俺が信じていたのは、それだ。
一人の患者の話は、逸話にしかならない。効いた、治った、助かった。そういう話は、いくらでも集められる。効かなかった話が語られないだけだ。
だが、百人分の記録があれば、それは事実になる。
事実になれば、他人を説得できる。
いつか、この帳面が要る。
坂の上の連中に「あなた方の薬は深い傷を殺している」と言うとき、俺の言葉には、何の権威もない。免状もなく、修業もなく、裏路地で育った男の言葉だ。
だが、数字には、権威が要らない。
数字は、誰が持ってきたかで変わらない。
------そう信じていた。
前の世界で、俺はそう教わった。そして、それが常に正しいわけではないことも、後で知った。数字を持っていっても、聞く耳を持たない相手はいる。数字ではなく、誰が言ったかで判断する場所はある。
それでも、数字がなければ、話は始まらない。
「クレイ、なに書いてんだ」
父が、覗き込んできたことがある。
「らくがき」
「読めん字だな」
「クレイの、じ」
父は、面白がって笑い、それきり気にしなかった。この男は、字が読めない。
母は少し読めるが、俺の書いた文字を見て、一度、黙って眉をひそめただけだった。
それ以上は、訊かれなかった。
だが、母の目は、その時からまた少し、変わった。
気味悪がる色が、薄くなっていた。代わりに諦めに近い何かが、そこにあった。この子は、自分たちの理解の外にいる。理解しようとしても無駄だ。そういう諦めだ。
その諦めは、俺には、楽だった。
理解されないことは、この世界に来てから、ずっとそうだった。理解されようと努力するより、理解を諦められる方が、動きやすい。
「クレイ」
その夜、母が言った。
「お前、この家をいつか出るね」
俺は、手を止めた。
「なんで」
「わかるよ。あたしは、あんたを産んだんだ」
母は、それだけ言って、灯りを消した。
俺は、暗闇の中で、天井の梁を見ていた。
生まれて最初に見た、あの煤けた梁を。
出る。
出るつもりだった。いつからそう思っていたのか、自分でもわからない。だが、この家では、どうしようもないことが、多すぎた。
道具がない。光が足りない。手が足りない。
そして何より------この家では、俺の手は、父の商売の道具でしかない。
俺が本当にやりたいことをこの家でやることはできない。
腹を開けて、中を見る。血管を縛る。臓器を修復する。そのためにまず人体の中身をこの世界の身体の中身を正確に知る。
そのためには、死体が要る。
だが、それを口に出すことは、まだ、できなかった。
出せない理由が、その時の俺には、まだ、はっきりしていなかった。
ただ、口にした瞬間に何かが変わる予感だけがあった。




