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第12話 届かない場所


死体は、教会が持っていく。

それを知ったのは、下水口で人が死んだ日だった。

隣の路地に住んでいた老人が、朝、死んでいた。誰も驚かなかった。冬に老人が死ぬのは、この街では日常だ。

俺は、その老人を何度か診たことがあった。

咳をしていた。長い咳だ。痩せていた。胸の音を聴きたかったが、聴く道具がない。耳を当てて聴いたことはあるが、子供が老人の胸に耳を当てるのを周りは遊びだと思って笑った。

肺の何かだろう、と見当をつけていた。

だが、確かめられなかった。

そして今、確かめる機会が、目の前に転がっている。

この老人の胸を開ければ、俺の見当が正しかったかどうかがわかる。何が起きていたのかが、わかる。わかれば、次に同じ咳をする患者を診たとき、俺はもっと正確なことが言える。

そう考えた瞬間、俺は自分を少し嫌になった。

だが、すぐに打ち消した。

この老人の人生は、もう終わっている。終わったものを使って、まだ続いている誰かの人生を延ばす。それは、この老人から何も奪わない。

奪われるのは、遺された者の感情だけだ。

その感情は、軽くない。だが、命よりは軽い。

------そう割り切れる自分が、この世界では、たぶん、異物なのだ。

昼前に灰色の衣を着た男が二人、荷車を引いて坂を下りてきた。老人を布に包み、荷車に載せ、また坂を登っていった。

それだけだった。銭のやり取りもなかった。


「あれ、どこ、いくの」


俺は、母に訊いた。


「教会の墓地だよ。死んだら、みんな教会が持っていく」

「みんな?」

「みんなだ。金持ちも、下水口の人間も、そこは同じだよ。死んだ身体は、教会のものになる。地に還すのは、教会の仕事だからね」

「かえさないと、どうなるの」


母の手が、止まった。


「クレイ。そういうことは、訊くもんじゃない」

「なんで」

「…身体を傷つけたり、隠したりしたら、重い罪になる。生きてる人間を殺すのと、同じぐらいの罪だよ。あたしが子供の頃、それで縛り首になった男がいた」

「どんな、おとこ」


母は、しばらく答えなかった。


「墓を掘り返した男さ。理由は知らない。金目の物を探したんだって話も、変な儀式をやってたって話もある。どっちが本当かは、あたしは知らない」

「その人、なんて、いってた」

「知らないよ。もう縛られてたからね」


母は、それきり口を閉じた。

俺は、坂を登っていく荷車を見送っていた。

罪。

死んだ身体を調べることが、罪。

理由は、わかる気がした。

教会が治癒を握っているなら、人の身体は、教会にとって聖なるものであるはずだ。癒しは神から与えられ、身体は神から預かったもの。預かりものを切り開いて中を見る。

それは、彼らの理屈では、冒涜になる。

前の世界でも、そうだった。

人体を切り開いて中を確かめることが、長いこと禁じられていた時代があった。禁じられていた間、医学はほとんど進まなかった。人の身体の中身を知らずに人の身体を治そうとしていたからだ。

千年以上、動物の解剖から得た知識を人間に当てはめ続けていた。動物と人間は、内臓の位置も、血管の走り方も、違う。違うのに誰も確かめなかった。確かめることが、禁じられていたからだ。

進み始めたのは、誰かが、禁を破って中を見てからだ。

見た者は、異端と呼ばれた。

墓を暴き、絞首台から死体を下ろし、隠れて切った。そうやって描かれた解剖図が、それまで千年信じられてきた記述の、二百箇所以上の誤りを暴いた。

その男は、生涯、その業績を攻撃され続けた。

俺は、荷車が坂の角を曲がって消えるまで、そこに立っていた。

要るのだ。

俺には、それが要る。

この世界の人間の身体が、俺の知る身体とどれだけ同じで、どこが違うのか。血管がどこを走り、臓器がどう配置され、層がどう重なっているのか。それを確かめずに腹を開けるのは、目隠しで刃を振るうのと同じだ。

前の世界の解剖の知識は、俺の頭にある。

だが、それは前の世界の身体の知識だ。

この世界の人間が、外見上、俺の知る人間と同じであることは確かめた。腕の骨の数、指の関節、頭蓋の形。触れる範囲で、全部同じだった。

だが、外が同じでも、中が同じとは限らない。

しかも、この世界には亜人がいるという。エルフだの、獣人だの、名前だけは聞いたことがある。見たことはない。下水口には来ない。

もし、彼らの身体が人間と違うなら------外見が違うのだから、中はもっと違うだろう------彼らを診るとき、俺の知識は、全部が凶器になる。

人間の常識で切れば、殺す。

確かめる方法は、一つしかない。

そして、その一つが、縛り首だ。

俺は、その日、自分の手を長いこと見ていた。

八つの子供の手だ。まだ何もできない。だが、いつか大きくなる。

大きくなったときにこの手が何をするのか。

罪を犯すのか。

前の世界で、俺は法を犯したことがない。

犯す必要がなかったからだ。あの世界では、人体の中を知ることは、罪ではなかった。学ぶことも、切ることも、正規の手順の中にあった。遺体を提供する制度があり、感謝と儀礼があり、学ぶ者はそれを受け取って学んだ。

秩序の中に全部が収まっていた。

ここでは、違う。

ここでは、正しいことをするために罪を犯さなければならない場面がある。

そのことに、俺はまだ、答えを持っていなかった。

答えは持っていなかったが、一つだけ、決めていることはあった。

生きている人間で、確かめはしない。

それだけは、しない。

死体を切ることと、生きている人間で試すことは、まったく違う。

前者は、死んだ人間の身体を借りることだ。その人間の人生は、もう終わっている。終わった後の身体から、まだ生きている誰かのための知識を取り出す。

だが、後者は違う。

まだ終わっていない人生を材料に変える行為だ。

それは、俺が一番、許せない類のものだった。

なぜ許せないのか、その時の俺は、はっきり言葉にできなかった。

ただ、前の世界の記憶の底にある何かが、それを絶対に拒んだ。

黒タグを切った、あの手が。

まだ生きている男に順番と運が割り振られた、あの現場が。

人の命が、誰かの都合で「先に閉じられる」ことへの、あの怒りが。

生きた人間を実験に使うのは、それと同じだ。

大勢を救うために一人を材料にする。数の上では、正しくすらある。だが、その正しさに頷いた瞬間、俺は、順番を割り振る側の、いちばん醜い顔になる。

この一線を、俺は、九つで、引いた。理屈で引いたのではない。前の世界の記憶の底の、あの怒りが、引いた。だから、どんなに正しい理屈を積まれても、この線だけは、動かせない。

誰かの都合で、まだ続いていた人生を途中で閉じる。しかも、そいつは「もっと大きなもののため」だという顔をして、それをやる。

大勢を救うために一人を材料にする。理屈は通る。数のうえでは、正しくすらある。

だが、材料にされた一人は、そこで終わる。書き終わっていない途中で、他人の都合で、閉じられる。

その一人にとって、大勢が救われたかどうかは、何の意味もない。


ふざけるな。


死体は要る。だが、生きた人間は、絶対に使わない。

その線だけは、この世界のどこにいても、引いておく。

たとえ、その線の内側で、救えたはずの誰かを取り落とすことになっても。



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