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第13話 蒸留


薬師の工房を初めて見たのは、九つの春だ。

父の使いで、下水口の外れにある工房に材料を受け取りに行かされた。父は行きたがらなかった。薬師と、あまり折り合いが良くないらしい。

理由は、なんとなく察しがついていた。

父の売る色水の材料は、この工房から買っている。薬師は、それがどう使われるかを知っている。知っていて、売っている。だが、良く思ってはいない。

そういう関係だ。

工房は、煙の匂いがした。

木を燃やす煙とは違う。もっと苦く、鼻の奥に刺さる匂いだ。乾いた草と、樹脂と、何かが焦げた匂いが混ざっている。


「ガルドんとこの坊主か」


出てきたのは、痩せた老人だった。片目が白く濁っている。


「銭は」

「もってきた」


老人は銭を数え、奥へ引っ込んだ。

俺は、その奥を覗いた。

覗いて、息が止まった。

そこにガラスの器があった。

丸い胴から、細い管が斜めに伸びている。管は下り、途中で何度か曲がり、別の器に繋がっていた。下の火で温められた液体が、胴の中で湯気になり、管を通り、冷えて、別の器に滴り落ちている。

蒸留器だ。

この世界に蒸留がある。

俺は、その場に立ち尽くしていた。

蒸留があるということは、液体を成分ごとに分けられるということだ。

それは、酒を強くすることに使われている程度かもしれない。だが、道具としては、揃っている。

沸点の違いで分離できる。抽出できる。濃縮できる。

つまり------薬が、作れる。

前の世界で麻酔に使われたものの多くは、植物か、単純な化合物だった。

単純とはいえ、ここで一から合成するのは無理だ。俺は化学者ではない。工業的な合成の手順を、俺は知らない。知っていても、原料がない。

だが、植物から抽出するだけなら、話が違う。

痛みを取る植物はどこの世界にもある。この世界にもあるはずだ。あるなら、探せる。探して、集めて、煮て、蒸して、分けて、濃くする。

濃くすれば、効く。効きすぎれば、殺す。

だから、量を測る。効く量と、殺す量の、境目を知る。

その作業は、俺が前の世界でやってきたことではない。

俺は臨床の人間で、薬を作る側ではなかった。使う側だ。効く量と危険な量は、既に誰かが測ってくれていて、俺はそれを暗記していただけだ。

だが、原理は知っている。

原理を知っていて、道具があるなら、あとは時間と、試行の回数の問題だ。

問題は、その試行を何で行うかだ。

人では、やらない。それは決めてある。

なら、獣だ。

前の世界でも、そうやって始まった。獣で試し、量を測り、それから人に使う。人に使う最初の一人には、必ず危険がある。その危険を誰が引き受けるのか。

------俺だ。

俺が最初に飲む。それしかない。

自分の身体でなら、俺は好きに試せる。俺の人生は、俺のものだ。誰の許可も要らない。

人では、やらない。それは、決めてある。だから、最初の一人は、俺だ。

獣で量を測り、境に近づけ、最後の一歩は、自分の身体で、渡る。危険を他人に負わせない。負わせた瞬間、俺は、材料の部屋を作る側に回る。だから、俺が飲む。俺の身体は、俺のものだ。賭けても、誰も、材料にはしていない。

そこまで考えて、俺は少し、可笑しくなった。

自殺は許せない、と俺は思っている。書き尽くす前に自分で本を閉じる行為だから。

だが、自分の身体で毒の量を測るのは、いいのか。

------いい、と俺は答えた。

閉じるためにやるのではない。開き続けるためにやる。方向が、逆だ。死ぬためではなく、生かすためなら、俺は自分の身体を賭けていい。

何年かかるかはわからない。

だが、道は、あった。


「坊主。何見てる」


老人が戻ってきた。


「あれ」

俺は、蒸留器を指した。


「なに」

「蒸溜器だ。触るなよ、高い」

「なにに、つかうの」

「薬草の汁を濃くする」

「こくすると、どうなるの」


老人は、俺を見た。濁っていない方の目で、じっと。


「…よく効くようになる。効きすぎると、死ぬ」

「はかるの?」

「そりゃあ、測るさ。何十年もかけて、誰かが測った。この量なら効く、この量なら死ぬ。それを書き残してある」

「かいてある?」

「書物だ。読めるか」


俺は、首を振った。読めない。この世界の文字は、まだ半分も知らない。

老人は、鼻で笑った。


「読めるようになったら、来い。見せてやってもいい」


俺は、老人の顔を見た。

濁った片目。指の皮が厚い。爪の間に薬草の色が染みついている。

この老人は、たぶん、この街で最も薬に詳しい人間の一人だ。そして、坂の上ではなく、下水口の外れにいる。


「おじいさん」

「なんだ」

「なんで、ここにいるの」


老人の手が、止まった。


「…坂の上のほうが、儲かる、って言いたいのか」

「うん」

「行ったさ。若い頃に、な」


老人は、それだけ言って、背を向けた。


「戻ってきた。それだけだ」


俺は、それ以上、訊かなかった。

だが、覚えておいた。

坂の上に行って、戻ってきた人間が、ここにいる。

いつか、その理由を訊く日が来るかもしれない。

その日、俺が家に持ち帰ったのは、父に頼まれた材料と------もう一つ、目標だった。

文字を覚える。

書物を読む。

この世界に既にある知識を全部、頭に入れる。

俺の知識は、この世界の前提を知らない。

この世界の薬草を知らない。この世界の病名を知らない。この世界の身体がどう理解されているかを知らない。何より、魔法という変数を全く知らない。

前の世界の知識だけで殴っても、届かないところがある。

俺は無知ではない。だが、無知でない分野が、この世界の全部を覆っているわけではない。

九つの俺は、その日から、文字を覚え始めた。

母が少し読めた。だから母に訊いた。母は面倒くさがったが、三日目には諦めて、教えるようになった。


「お前、覚えが早すぎるよ」


三月で、母が知っている文字は、全部覚えてしまった。


「かあさま、つぎ」

「もう教えるものがないよ」

「じゃあ、どこにいけばいい」

「…薬師のところにでも行きな」


父は、俺が字を覚えることに興味を示さなかった。


「字なんぞ覚えて何になる」

「くすりの、かきつけ、よめる」

「ふん。読めたところで、うちの薬は色水だ」


そう言って、父は笑った。

その笑いを、俺は覚えておくことにした。

この男は、自分の商売の底を自分でわかっている。

わかっていて、変えようとしない。変えられないのではなく、変える気がない。

いつか、この男とは、ぶつかる。

その予感が、その頃には、はっきりとあった。



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