第14話 洗わぬ手
十になる年の秋、産婆のばあさんが家に来た。
「ガルド。手を貸してほしい」
「産か」
「三日、産まれない」
父の顔が曇った。
「うちは産科じゃねえ。産婆はあんたの仕事だろう」
「あたしの手には負えない。もう、あんたのところしかない」
三日、と俺は聞いていた。
三日、産まれない。
それがどういう状態か、俺は知っている。前の世界でも、それは緊急だった。母体が保たない。胎児も保たない。あの世界なら、とっくに帝王切開に踏み切っている時間だ。
この世界にそれがあるかどうかは、知らない。
たぶん、ない。
腹を開けることが、この世界には存在しない。存在しないなら、当然、腹を開けて子を出すという発想までも存在しない。
「クレイ、来い」
父が言った。
産婆の家は、路地を三本奥に入ったところだった。
土間に汗の匂いが充満していた。若い女が、寝床に横たわっている。もう、叫ぶ力もない。目が虚ろで、唇が乾いている。
俺は、そばに寄って、腹に手を当てた。
固い。張り詰めて、収縮が続いている。だが、収縮のたびに胎児が下りてこない。
位置が、悪い。
そして、母体のほうが、限界に近かった。脈が速く、浅い。汗が冷たい。三日、飲まず食わずで、力み続けた身体だ。
やらなければ死ぬ。だが、俺の手ではやれない。
十の子供の手では、腹の中に届かない。指の長さが足りない。産道に手を入れて、児頭を回旋させる------その手技を、俺は知識としては知っているが、やったことはない。前の世界では、産科は俺の専門ではなかった。救急で分娩に立ち会ったことは何度かある。だが、回旋異常を手で直すのは、産科医の仕事だった。
知っている。だが、やったことがない。
その差は、大きい。
「おばあさん」
俺は言った。
「あんた、なかにてをいれられる?」
「入れられるよ。何度もやってきた」
「じゃあ、いれて。あかごの、あたま、さがして。むきをなおす」
「向きを?」
「よこむいてる。まっすぐにする」
産婆は、俺を見た。それから、父を見た。父は、肩をすくめた。
「うちの子は、変な目を持ってる」
母と、同じ言葉だった。
産婆は、頷いた。頷いて、手を------洗わずに伸ばした。
「まって」
俺は、その手を掴んだ。
「あらって」
「なに?」
「そのて。あらって。それから、ゆで、あつくして、それから、いれて」
産婆の顔が、怪訝に歪んだ。
「手なんか、いつも通りだよ。今日は死人にも触ってないし」
死人にも、と言った。
つまり、この産婆は、死人に触る日がある。この街では、産婆が死体を洗う役も兼ねていることがあるのだろう。触った手で、次の産に行く。
俺の背筋が、冷えた。
前の世界の、あの話と、そのまま同じだ。
「あらって」
「坊や、時間がないんだよ」
「あらって!」
俺は、初めて、この世界で声を張り上げた。
土間が、静まり返った。産婆が、目を丸くしていた。父が、俺の肩を掴んだ。
「クレイ、やめろ」
「あらわないと、しぬ」
俺は言った。
「あとで。うんだあとで、あついのが、でて、しぬ。おれは、みたことがある」
見たことがある。
前の世界の記録の中で、何万人も。
出産の後に高熱を出して死ぬ女たち。原因が長らくわからず、「産後の熱」という運命として扱われていた死。
それが、医者の洗わない手から運ばれていたと突き止めた男がいた。突き止めて、手を洗えと言い続けて、誰にも信じてもらえなかった男が。
その男は、嘲笑われた。同僚から、権威から、学会から。手が汚いから人が死ぬなど、侮辱だと。医者の手が人を殺すと言うのか、と。
死ぬ女の数は、その男が指示を出した病棟だけ、明らかに減っていた。数字は出ていた。それでも、通らなかった。
そして、その男が職を追われた後、死ぬ女の数は、また元に戻った。
正しさが証明されたのは、その男が死んだ、ずっと後だ。
俺は、あの記録を初めて読んだ日のことを覚えている。
正しいことが、正しいというだけでは、通らない。
「…クレイ」
産婆が、静かに言った。
「あんた、あたしの手が汚いって言うのかい」
来た、と思った。
「そういういみじゃない」
「あたしはね、三十年、この仕事をしてる。何百人も、取り上げてきた。あんたが生まれる前から、この手で」
「しってる」
「その手が、汚いって?」
産婆の声は、怒っていなかった。
だから、余計に重かった。
俺は、産婆の手を見た。皺だらけの、大きな手だった。何百人分の命を受け取ってきた手だ。この手を、俺は今、汚いと呼んでいる。
この手は、実際に何百人を取り上げた。それは事実だ。そして同時にこの手が何人かを殺したことも、たぶん、事実だ。
その両方をこの人に突きつける権利が、俺にあるか。
そして、俺には、それを証明する手立てがない。
見えないものが、この手についている。それが女の中に入り、そこで増えて、女を殺す。そう言ったところで、この世界の誰も、その「見えないもの」を知らない。
俺は帳面を持っている。だが、そこにあるのは、まだ数十件の記録だけだ。産後熱の記録は、まだ三件しかない。
三件では、何も証明できない。
俺には、言葉がなかった。
だから、俺は、こう言った。
「おれのためにあらって」
正しさで、押さない。押せば、この産婆は、自分が殺してきた側だと、認めることになる。人は、それを認めない。認めるくらいなら、事実のほうを否定する。
だから、逃げ道を差し出した。あんたのためじゃない、俺のためだ、と。相手の顔を潰さずに正しい手順だけを通す。人を動かすのは、正しさではなく、損をしない形だった。
産婆が、まばたきをした。
「おれが、こわがりだから。おれが、いやだから。だから、あらって。それで、おばあさんは、なんにもそんしない」
土間が、静かだった。
産婆は、しばらく俺を見ていた。それから、鼻から息を吐いた。
「…妙な子だね、本当に」
そして、桶に手を突っ込んだ。
湯を沸かし直させて、手を洗い、腕まで洗って、それから、女の中に手を入れた。
「…頭に触った」
「まわして。ゆっくり。むりにおさない」
産婆の顔が、集中で固くなった。俺は、母体の腹に手を当てて、収縮の間隔を数えていた。収縮が来ている間は、動かせない。収縮の合間に少しずつ回す。
「いま。いける」
「......回った。回ったよ」
赤子は、その夜のうちに産まれた。
女は、生きた。
十日後も、生きていた。
俺は、帳面に一行、書き足した。
産後熱の記録が、四件目にならなかったことを。
だが、その夜、俺は眠れなかった。
今日は、通った。
俺が子供で、我儘を言えたから通った。「あんたのためじゃない、俺のためだ」という逃げ道があったから、産婆は洗った。
だが、それは説得ではない。
大人になって、同じことを言えば、あの産婆の顔は、あの時の顔のままでは済まない。医者の手が人を殺すと言うのかと、そう返される。
返されたら、俺は何を出せる。
数だ、と俺は思った。
数を集めろ。何百件も。洗った場合と洗わなかった場合を並べて出せるだけの数を。
そうしなければ、この世界では、正しさは通らない。
そして、数を集めるということは------
洗わなかった側の記録も、集めるということだ。
つまり、洗わせなかった患者を、俺は見送らなければならない。
前の世界の、あの男も、それをやったのだろうか。
俺は、その夜、その問いに答えを出せなかった。




