第15話 欲
十一になる年、父は変わり始めた。
正確には、変わったのではない。元からそうだった性質が、俺という道具を得て、剥き出しになっただけだ。
「クレイ。今日から、うちは腹も診る」
「はら?」
「深い傷も、腹の中も、全部だ。お前ならできるだろう」
「できない」
「できたじゃねえか。あの脚も、あの太腿も」
「あれは、はらじゃない」
俺は、はっきり言った。
「はらは、あけないと、なおせない。あけるには、どうぐがいる。ひかりがいる。てが、あと、ふたつはいる。ぜんぶ、ない」
「なら、揃えりゃいいだろう」
そう言って、父は、銭を数え始めた。
その銭は、俺が稼いだものだった。
この一年で、この家の稼ぎは、三倍になっていた。
裏路地では、「ガルドんとこ」ではなく「子医者んとこ」と呼ばれるようになっていた。父はそれを不快がりながら、その名前が銭を呼ぶことは、理解していた。
だから、父は、もっと欲しがった。
深い傷を診る。腹を診る。もっと難しいものを診る。難しいほど、銭が高い。
この男の商売の理屈は、単純だ。
需要のある場所に供給を差し出す。腹を診る医者は、この街の下層には、いない。いないなら、そこに独占がある。独占には、高い値がつく。
商人としては、正しい。
医者としては、殺人だ。
「とうさま」
「なんだ」
「むりなものは、むりだ。むりなのをうけたら、ひとが、しぬ」
「死ぬ患者は、放っといても死ぬ」
「ちがう」
「同じだ」
父は、俺を見ずに言った。
「うちに来る連中は、どのみち施療院に並べねえ。うちで死ぬか、家で死ぬかの違いだけだ。なら、うちで死んでくれた方が、銭になる」
その言葉を、俺は、生涯忘れないと思う。
腹の底で、火が、動いた。
だが、その時の俺は、何も言わなかった。
言っても無駄だからだ。
この男は、間違ったことを言っているわけではない。裏路地の人間が、施療院に並べないのは事実だ。並べない以上、この家で死ぬか、家で死ぬかしか選べないのも事実だ。
だから、この男の理屈は、通る。
通るからこそ、たちが悪い。
そして、俺が一番腹を立てたのは、その理屈が------
俺が使いかけている理屈と、形が似ていることだった。
どのみち助からない。だから、こちらを優先する。
黒タグを切るときの、あの理屈と。
違う、と俺は自分に言った。
俺は、助かる見込みで割り振った。この男は、銭で割り振っている。同じではない。
だが、割り振っていることに変わりはない。
その年の冬、父は、腹の傷を三件受けた。
三件のうち、一件は、俺が拭って薬を垂らして助かった。傷が浅かったからだ。
二件は、死んだ。
一件目は、若い男だった。荷車に轢かれて、腹を打った。外傷はほとんどない。だが、腹が張っていた。中で何かが破れている。俺には、それが肝か脾かも判別できなかった。開ければわかる。だが、開けられない。
三時間で、死んだ。
二件目は、女だった。刺されていた。傷は浅く見えたが、経路が悪い。俺が拭って薬を垂らしたが、二日後に熱を出し、腹全体が硬くなった。
腸が破れていたのだ。
腸の中身が腹に漏れれば、腹膜炎になる。前の世界なら、開けて洗って、破れを縫う。ここでは、何もできない。
五日、苦しんで、死んだ。
その五日間、俺はその女のそばにいた。
痛みを和らげる方法が、何もなかった。水も飲ませられなかった。飲めば、もっと悪くなる。ただ、口を湿らせることしかできなかった。
女は、四日目に、俺の手を握った。
「ぼうや」
「うん」
「あんた、ずっとここにいたね」
「うん」
「…あたし、死ぬのかい」
俺は、答えなかった。
嘘をつくべきだ、と頭が言った。前の世界では、そうすることもあった。希望を残すことが、患者にとって良い場合がある。
だが、この女は、既に知っていた。知っていて、訊いた。
「…たぶん」
俺は、そう言った。
女は、しばらく黙っていた。それから、笑った。
「そうかい」
「…ごめん」
「なんで謝るのさ。あんたは、ずっといてくれたよ」
俺は、その手を握り返した。
前の世界で、俺は、こういうことをしなかった。する時間がなかった。救急の医者は、看取りには居合わせない。次の患者へ行く。振り返らない。それが仕事だった。
初めて、看取った。
五日かけて、一人が閉じるのを最初から最後まで見た。
女は、五日目の夜に死んだ。最後に何か言おうとして、言えずに死んだ。
その「言えなかった何か」が、俺の中に残った。
この女は、書き終わらなかった。
途中で、閉じられた。
閉じたのは、刃を刺した男か。それとも、開けられなかった俺か。あるいは、腹を診ると決めた父か。
------全部だ、と俺は思った。
そして、二件目の患者を運び出した夜、俺は、家を出ることをはっきりと決めた。
決めながら、俺は、自分に問いかけていた。
出て、どうする。
俺が出ても、この家は、営業を続ける。父は、俺なしで、腹を診続けるだろう。俺が出た分だけ、死人が増える。
それは、俺の責任か。
責任ではない、と頭は言う。
この家の患者を殺しているのは、父の欲と無知だ。俺がここにいることは、その無知に「子医者」という看板を貸しているだけだ。俺がいることで、この家は、本来受けるべきでない患者を受けている。
つまり、俺がここにいることが、死人を増やしている。
だが、腹は、別のことを言った。
俺が出れば、俺の手が届いたはずの誰かが、死ぬ。俺が拭えば助かった傷が、拭われずに塞がれる。
どちらを選んでも、誰かが死ぬ。
前の世界の、あの現場と、同じだ。
俺は、どちらかを選ばなければならない。
選ぶ基準は、一つしかなかった。
数だ。
ここに残って、俺の手が拾える命の数。ここを出て、力をつけて、道具を揃え、いつか拾えるようになる命の数。
後者のほうが、多い。
圧倒的に多い。
そのために目の前の何人かを見捨てる。
------ああ。
俺は、暗い土間で、笑いそうになった。
トリアージだ。
目の前の数人を黒に振り分けて、まだ見ぬ何百人を赤に置く。災害現場ではなく、自分の人生の上で。
俺が一人しかいないこと。俺の腕が、一度に一人しか救えないこと。それが、俺にこれを選ばせている。選ばずに済む世界を作らない限り、俺は、何度でも、これをやらされる。だから、出る。手を増やせる場所を探しに。
俺がこの世界で最初にやることが、それか。
黒タグを切る手が、また、動く。今度は、災害現場ではなく、自分の人生の上で。目の前の数人を黒に振り分けて、まだ見ぬ何百人を赤に置く。
ふざけるな、と腹の火が鳴った。
その怒りの向き先は、もう、はっきりしていた。
数だ。手の数だ。
俺が一人しかいないこと。俺の腕が、一度に一人しか救えないこと。それが、俺に選ばせている。
選ばずに済む世界を作らない限り、俺は、何度でもこれをやらされる。
俺は、帳面を懐に押し込んだ。
出る準備を始めることにした。




