第16話 準備
出る、と決めてから俺は二年かけた。
十一で決めて、実際に出たのは、十三の春だ。
急がなかったのは、準備が要ったからだ。
裸で飛び出して野垂れ死ぬのは賢い判断ではない。俺は前の世界で、勢いで動いて死んだ人間を何人も見ている。搬送されてくるのは、いつも、判断を誤った人間だった。
準備をせずに動く者から、先に落ちる。
必要なものは、三つあった。
一つ、道具。
刃物だ。
父の使う刃物は、俺の目には鈍器に等しい。刃が厚く、幅があり、先が鋭くない。あれで皮膚を切れば、切れるのではなく、裂ける。
裂けた傷は、治りが悪い。切り口が潰れているからだ。組織が挫滅していれば、そこから壊死する。壊死すれば、感染の入り口になる。
薄い刃で、一度で、深さを揃えて切る。それが、傷を最も早く治す切り方だ。
だから、自分で作らせた。
下水口の外れに鍛冶をする男がいた。武器を打つ腕はなく、鍋や鎌を直して食っている男だ。
俺はそこへ通い、細く、薄く、先の尖った刃物を打たせた。
「こんな細いもん、何に使うんだ」
「ひとをきる」
男は、露骨に嫌な顔をした。
「…そういう仕事なら、よそへ行け」
「なおすほう」
「なおす?」
「はれものとか、きる。ふとい、はもの、いたい。ほそいと、はやい。はやいと、いたくない」
男は、しばらく俺を見て、それから、鉄を炉に入れた。
一度目は、厚すぎた。二度目は、幅が広すぎた。三度目で、ようやく形になった。だが、先が丸い。丸い先では、最初の一刺しが入らない。
「もっと、さき、とがらせて」
「これ以上尖らせたら、折れるぞ」
「おれない、てつは、ない?」
「あるにはある。高い」
「いくら」
男が言った額は、俺が半年かけて貯めた分の、倍だった。
俺は、半年待った。
銭は、父の目を盗んで貯めた。
診療の礼に食い物や品物を置いていく患者がいる。銭がない者ほど、そうする。干した魚、繕った布、拾った金具。父は現金しか数えないので、そういうものには興味を示さない。
だから、俺が受け取り、売った。
一つ一つは、銅貨数枚にしかならない。それを二年、積んだ。
四本。大きさ違いで四本。それが、俺の最初のメスだった。
一番大きいのが、皮膚を切るためのもの。次が、深部を切るためのもの。三番目が、細かい剥離用。四番目は、先を鉤状に曲げさせた。血管や糸を引っ掛けるためだ。
握った瞬間、指が覚えている形に少しだけ近づいた気がした。
完全ではない。前の世界のメスは、こんなに重くなかった。刃の交換もできた。この四本は、研ぎ直しながら使うしかない。
それでも、これは俺の道具だ。父の道具ではない。
二つ、知識。
文字は、二年で読めるようになった。
母から教わった分では足りず、薬師の老人のところへ通った。
「読めるようになったら来い」とあの老人は言った。
だから、行った。
老人は、驚いた顔をして、それから、渋々、書物を出してきた。
薬草の書だった。
この世界で使われる薬草が、絵と説明つきで並んでいる。効能、採れる場所、季節、そして------量。
この量で効く。この量で死ぬ。
俺は、それを片端から書き写した。紙がないので、頭に入れた。前の世界で、俺は膨大な薬の名前と量を覚えていた。覚える訓練は、身体に染みついている。
だが、書き写しながら、俺は違和感を覚えていた。
この書には、なぜ効くのかが、書いていない。
効く、としか書いていない。この草を煎じれば熱が下がる。この根を潰して塗れば腫れが引く。それだけだ。身体の中で何が起きているのかを誰も説明していない。
原因を追わない。結果だけを蓄える。
この世界の医学は、そういう形をしている。
それでも、結果は、蓄積されている。何百年分か。使えるものは、多い。
「じいさん。これ、なんで、きくの」
「なんでって、効くもんは効くんだ」
「なかで、なにが、おきてるの」
老人は、俺を見た。
「......そんなことを訊いたやつは、お前が初めてだ」
「わからないの?」
「わからん。誰にもわからん」老人は言った。
「わかるのは、神様だけだ。人間は、効くかどうかを覚えるだけでいい」
その答えを、俺は覚えておいた。
わかるのは神だけ。人間は結果を覚えるだけ。
------それが、この世界の壁だ。
原因を追うことが、神の領分に踏み込むことだと、この世界は考えている。だから、誰も追わない。追わないから、進まない。
俺は、書き写しながら、探していた。
痛みを消すもの。眠らせるもの。
三つほど、候補があった。いずれも「量を誤れば死ぬ」と注記のついたものだ。
当たり前だ。眠らせる薬と、殺す薬は、量の違いでしかない。
一つは、乾いた白い樹液を集めるもの。前の世界の記憶と、特徴が似ている。これは効くだろうが、癖になる。使い所を選ぶ。
一つは、根を煎じるもので、量を誤ると心臓が止まると書いてある。
一つは、蒸した気を吸わせるものだった。これが、一番、俺の求めるものに近い。
老人に訊いた。
「これ、ひとをねむらせられる?」
「眠らせてどうする」
「いたいの、なくす」
「痛みは、我慢するもんだ」
老人は言った。
「痛みがないと、人は死んだのがわからん」
その答えも、俺は覚えておいた。
この世界には、痛みを消すという発想が、ほとんどない。
理由は、そもそも痛みを長時間与える処置が存在しないからだ。誰も腹を開けない。開けないから、痛みを消す必要が生じない。必要が生じないから、技術が育たない。
魔法薬は、垂らせば数秒で塞がる。痛む暇がない。
腫れ物を切る程度なら、押さえつけて一瞬で終わる。
だから、この世界には麻酔がない。
麻酔がないから、長い手術ができない。長い手術ができないから、腹を開けられない。腹を開けられないから、中を知らない。中を知らないから、麻酔の必要性にも気づかない。
輪になって、閉じている。
その輪の、どこか一点を破らなければ、何も始まらない。
俺が作るしかない。
誰かが作るのを待っていても、来ない。五十年、誰も破らなかった輪だ。薬師の老人も、破れなかった。
破るには、内側からしかない。この世界に既にある道具を使って、この世界の言葉で、一点を開ける。外から持ち込んだ知識だけでは、届かない。この世界の前提の中に入り込んで、内側から、こじ開ける。
三つ、身体。
十三の身体はまだ大人ではない。
だが、七つの頃の手とは違う。指が届く。力も、少しはある。
俺は、毎朝、指の訓練をしていた。
糸を結ぶ。結び目を解く。片手で。左手で。目を閉じて。前の世界でやっていたのと、同じ訓練だ。
最初は、話にならなかった。頭が知っている動きを指がなぞれない。何度もほどけた。何度も締めすぎた。
だが、身体は覚える。
一年で、右手は使えるようになった。二年目で、左手が追いついた。
指は、戻ってきていた。完全にではない。だが、この世界の誰よりも速く、正確に動く手には、なっていた。
背も伸びた。十三で、大人の肩ほどにはなった。この世界の人間は、前の世界より少し背が高い。俺も、たぶん、大人になれば六尺近くになる。
握力も、鍛えた。糸を締めるのに要る力は、思っているより大きい。
三つを揃えて、俺は待った。
出るきっかけを待った。
二年の間にこの家では、また何人か死んだ。俺の手が届かなかった者もいれば、届いたのに間に合わなかった者もいた。
その全部を、俺は帳面に書いた。
帳面は、五百枚を超えていた。
その五百枚が、俺のこの二年だった。
出るときに持っていくものは、それだけでいい。
きっかけは、向こうから来た。




