第17話 二十日の女
十三の春、その女が運び込まれた。
若い。二十そこそこだろう。腹が、大きい。
臨月だ。そして、腹の左に深い刺し傷があった。
「揉め事に巻き込まれた」
運んできた男は、そう言って、すぐに逃げた。銭も置かずに。
父が、傷を見て、舌打ちした。
「腹だ。しかも、はらんでる」
俺は、女の脈を取った。速い。浅い。顔は白い。腹の傷から、まだ血が出ている。
意識は、辛うじてある。呼びかけると、瞼が動く。
前の世界で、俺が黒タグを切った男と、同じ状態だ。
そして、腹の張りが------おかしい。
胎児が、動いていない。
「とうさま」
「わかってる。無理だ、こりゃ」
父の判断は、この一度だけは、正しかった。
これは、無理だ。
母体は出血性ショックの入り口にいる。腹の中で何が切れているかわからない。しかも子宮が大きく張り出していて、腹の中の構造は普段と全く違う位置にある。胎児が動かないなら、既に胎盤に何かが起きている可能性が高い。
前の世界なら、緊急帝王切開だ。
子を出し、子宮を確認し、出血源を探して止める。輸血を回しながら。麻酔科医が母体を保たせながら。
チームで、十人がかりでやる仕事だ。
ここには、俺と、無知な父と、母がいる。
麻酔はない。輸血はない。光は獣脂の灯りだけ。器具は、俺が打たせた四本と、父の鈍器。
助かる見込みは、低い。
前の世界の基準なら、俺はこれに黒を切る。切って、次へ行く。それが正しい判断だ。
だが。
次が、ない。
ここには、他の患者がいない。俺の手が空いている。時間も、ある。
黒を切る理由が、一つもない。
「施療院に運べ」父が言った。
「うちじゃ無理だ」
「はこべば、しぬ」
「じゃあどうしろってんだ」
「ここで、あける」
土間が、静まった。
父が、俺を見た。母が、俺を見た。
「…お前、正気か」
「はこんでも、ならばされる。にじゅうにち、まてない。ここであけるしか、ない」
俺は、女を見た。
この女は、順番待ちの列に間に合わない。銭もない。身元も知れない。坂を登っても、門前で断られるか、並ばされるかだ。並べば死ぬ。
俺の目の前で、また、順番が人を殺そうとしている。
腹の底で、火が、燃え上がった。
ふざけるな。
「とうさま。ゆをわかして。ぬのをぜんぶ、につめて、あついのをつかう。かあさま、あかりをありったけ。それと、みずをのませないで。もう、おそい」
「おい、クレイ------」
「とうさまは、おさえるだけでいい。おれが、きる」
俺は、懐から、四本の刃物を出した。
父の目が、それを見て、見開かれた。
「…なんだ、それは」
「おれの、どうぐ」
説明をしている暇はなかった。
俺は、湯で刃を煮て、手を洗い、腕まで洗った。爪の際まで洗った。父が呆れた顔をしていたが、構わなかった。
この処置は、開けた腹の中に、俺の手を入れる。入れる手が汚ければ、助けた後で殺すことになる。腹膜炎で五日苦しんだあの女の顔が、頭をよぎった。
同じことは、繰り返さない。
「かあさま。ぬの、にたのをつかって。さわるまえにてをあらって」
母は、何も言わずに従った。
灯りを五つ、寝台の周りに並べた。この家にある灯りの、全部だ。
それでも、暗い。
前の世界の手術灯を、俺は一瞬、思い出した。影のできない光。あれがあれば、と思って、すぐに切り捨てた。ないものを数えても、何も増えない。
あるもので、やる。
そして、俺は、切った。
腹壁を正中に。
皮膚、皮下、そして筋膜。
層は、前の世界とほぼ同じだった。
それを確かめられただけで、俺の中の何かが、緩んだ。
同じだ。この世界の人間の腹は、俺の知っている腹だ。八年、確かめられずにいたことが、この一瞬で確定した。
八年、俺は、この世界の身体が、俺の知る身体と同じかどうかを確かめられずにいた。死体を切ることは、罪だった。だから、生きた腹を開ける、この一瞬まで、待つしかなかった。
層は、同じだった。前の世界の記憶が、そのまま、使える。八年ぶんの賭けが、報われた。俺の知識は、この腹の中では、凶器ではなく、地図だった。
血が溢れた。予想より多い。
「ぬの。おさえる。ここ」
父が押さえる。俺は、その隙に腹腔内を見た。
血の海だ。だが、その中に張り詰めた子宮がある。
出血源は------子宮ではない。左だ。
刺創の経路が、脾臓に届いている。
脾臓だ。
前の世界でも、脾臓は出血する臓器だった。血管が豊富で、組織が脆く、破れれば止まらない。
そして、脾臓は、取ってしまっても人は生きられる。生きられるが、その後、感染に弱くなる。
だが、今は、そんな先の話をしている場合ではない。
「ちをかきだす。おわん。はやく」
母が椀を持ってくる。俺は血を掻き出しながら、出血源を確かめ、そこを掴んだ。
指が、届いた。
七つの頃には届かなかった場所に十三の指が、届いた。
二年、指を鍛えた意味が、この一瞬にあった。
俺は、脾門を指で圧迫した。血の湧きが、弱まった。
「ここ。とうさま。ここをこう、はさんで。うごかさないで」
「お、おう」
父の手が、震えていた。この男が震えるのを、俺は初めて見た。
俺は、糸を出した。
結紮する。前の世界で、目を瞑ってでもできた手技だ。この身体では、初めてだ。
腹の中で、見えない場所で、指の腹だけを頼りに糸を回して締める。
指が、動いた。
一度目。二度目。三度目。
血が、止まった。
「…止まった」
父が、呆然と言った。
「止まりやがった」
「まだ。こども、だす」
俺は、子宮に向き直った。
胎児は、動いていなかった。
だが、まだ、可能性がある。子宮を切り、取り出して、刺激すれば。
胎盤剥離があったとしても、完全でなければ、まだ酸素は届いている。届いていれば、蘇生の余地がある。
切った。羊水が溢れた。
手を入れ、頭を探し、掴んで、引き出す。
小さい。青い。動かない。
俺は、赤子を逆さに持ち、背中を強く擦った。口の中を指で拭った。羊水を出させる。
それから、息を吹き込んだ。
俺の口から、小さな肺へ。強く吹きすぎない。この肺は、まだ一度も膨らんだことがない。破れる。
軽く、何度も。
十数える。二十数える。
三十数えたところで、赤子が、咳のような音を立てた。
そして、泣いた。
土間にその声が響いた。
母が、息を呑む音がした。
「かあさま。あたためて。ぬので、くるんで、はだのちかくで」
母が、赤子を受け取った。
俺は、女に戻った。
子宮を縫う。腹の中を確かめる。他に出血がないか。
腸を指で辿った。破れがないか。この確認を怠れば、あの女と同じことになる。一巡り、確かめて、破れがないことを確かめた。
それから、腹を閉じる。
腹膜、筋膜、皮下、皮膚。層ごとに縫う。層を合わせて縫わなければ、後で腹壁が裂ける。
閉じ終わったとき、朝になっていた。
俺は、手を止めた。
血まみれの、十三の手。
震えていない。震える理由がない。
女の脈を取った。まだ速いが、さっきよりは強い。生きている。
生きて、いる。
腹の底で、火が、静かに燃えていた。
拾った。
順番の列から、二人、拾った。
前の世界で、俺が何度も取り落としたものをこの土間で、二人。
------足りない。
そう思っている自分に、俺は気づいた。
嬉しくない。安堵もない。
ただ、足りないとしか思わない。
この二人が助かったのは、たまたま俺がここにいたからだ。俺がいなければ、二人とも死んだ。同じ夜にこの街のどこかで、俺のいない場所で、何人も死んだはずだ。
一人では、足りない。
俺は、顔を上げた。
そして、父が、俺を見つめているのに気づいた。
その目に浮かんでいたのは、算盤ではなかった。
恐怖だった。




