↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
17/45

第17話 二十日の女


十三の春、その女が運び込まれた。

若い。二十そこそこだろう。腹が、大きい。

臨月だ。そして、腹の左に深い刺し傷があった。


「揉め事に巻き込まれた」


運んできた男は、そう言って、すぐに逃げた。銭も置かずに。

父が、傷を見て、舌打ちした。


「腹だ。しかも、はらんでる」


俺は、女の脈を取った。速い。浅い。顔は白い。腹の傷から、まだ血が出ている。

意識は、辛うじてある。呼びかけると、瞼が動く。

前の世界で、俺が黒タグを切った男と、同じ状態だ。

そして、腹の張りが------おかしい。

胎児が、動いていない。


「とうさま」

「わかってる。無理だ、こりゃ」


父の判断は、この一度だけは、正しかった。

これは、無理だ。

母体は出血性ショックの入り口にいる。腹の中で何が切れているかわからない。しかも子宮が大きく張り出していて、腹の中の構造は普段と全く違う位置にある。胎児が動かないなら、既に胎盤に何かが起きている可能性が高い。

前の世界なら、緊急帝王切開だ。

子を出し、子宮を確認し、出血源を探して止める。輸血を回しながら。麻酔科医が母体を保たせながら。

チームで、十人がかりでやる仕事だ。

ここには、俺と、無知な父と、母がいる。

麻酔はない。輸血はない。光は獣脂の灯りだけ。器具は、俺が打たせた四本と、父の鈍器。

助かる見込みは、低い。

前の世界の基準なら、俺はこれに黒を切る。切って、次へ行く。それが正しい判断だ。

だが。

次が、ない。

ここには、他の患者がいない。俺の手が空いている。時間も、ある。

黒を切る理由が、一つもない。


「施療院に運べ」父が言った。


「うちじゃ無理だ」

「はこべば、しぬ」

「じゃあどうしろってんだ」

「ここで、あける」


土間が、静まった。

父が、俺を見た。母が、俺を見た。


「…お前、正気か」

「はこんでも、ならばされる。にじゅうにち、まてない。ここであけるしか、ない」


俺は、女を見た。

この女は、順番待ちの列に間に合わない。銭もない。身元も知れない。坂を登っても、門前で断られるか、並ばされるかだ。並べば死ぬ。

俺の目の前で、また、順番が人を殺そうとしている。

腹の底で、火が、燃え上がった。


ふざけるな。


「とうさま。ゆをわかして。ぬのをぜんぶ、につめて、あついのをつかう。かあさま、あかりをありったけ。それと、みずをのませないで。もう、おそい」

「おい、クレイ------」

「とうさまは、おさえるだけでいい。おれが、きる」


俺は、懐から、四本の刃物を出した。

父の目が、それを見て、見開かれた。


「…なんだ、それは」

「おれの、どうぐ」


説明をしている暇はなかった。

俺は、湯で刃を煮て、手を洗い、腕まで洗った。爪の際まで洗った。父が呆れた顔をしていたが、構わなかった。

この処置は、開けた腹の中に、俺の手を入れる。入れる手が汚ければ、助けた後で殺すことになる。腹膜炎で五日苦しんだあの女の顔が、頭をよぎった。

同じことは、繰り返さない。


「かあさま。ぬの、にたのをつかって。さわるまえにてをあらって」


母は、何も言わずに従った。

灯りを五つ、寝台の周りに並べた。この家にある灯りの、全部だ。

それでも、暗い。

前の世界の手術灯を、俺は一瞬、思い出した。影のできない光。あれがあれば、と思って、すぐに切り捨てた。ないものを数えても、何も増えない。

あるもので、やる。

そして、俺は、切った。


腹壁を正中に。

皮膚、皮下、そして筋膜。

層は、前の世界とほぼ同じだった。

それを確かめられただけで、俺の中の何かが、緩んだ。

同じだ。この世界の人間の腹は、俺の知っている腹だ。八年、確かめられずにいたことが、この一瞬で確定した。

八年、俺は、この世界の身体が、俺の知る身体と同じかどうかを確かめられずにいた。死体を切ることは、罪だった。だから、生きた腹を開ける、この一瞬まで、待つしかなかった。

層は、同じだった。前の世界の記憶が、そのまま、使える。八年ぶんの賭けが、報われた。俺の知識は、この腹の中では、凶器ではなく、地図だった。

血が溢れた。予想より多い。


「ぬの。おさえる。ここ」


父が押さえる。俺は、その隙に腹腔内を見た。

血の海だ。だが、その中に張り詰めた子宮がある。

出血源は------子宮ではない。左だ。

刺創の経路が、脾臓に届いている。

脾臓だ。

前の世界でも、脾臓は出血する臓器だった。血管が豊富で、組織が脆く、破れれば止まらない。

そして、脾臓は、取ってしまっても人は生きられる。生きられるが、その後、感染に弱くなる。

だが、今は、そんな先の話をしている場合ではない。


「ちをかきだす。おわん。はやく」


母が椀を持ってくる。俺は血を掻き出しながら、出血源を確かめ、そこを掴んだ。

指が、届いた。

七つの頃には届かなかった場所に十三の指が、届いた。

二年、指を鍛えた意味が、この一瞬にあった。

俺は、脾門を指で圧迫した。血の湧きが、弱まった。


「ここ。とうさま。ここをこう、はさんで。うごかさないで」

「お、おう」


父の手が、震えていた。この男が震えるのを、俺は初めて見た。

俺は、糸を出した。

結紮する。前の世界で、目を瞑ってでもできた手技だ。この身体では、初めてだ。

腹の中で、見えない場所で、指の腹だけを頼りに糸を回して締める。

指が、動いた。

一度目。二度目。三度目。

血が、止まった。


「…止まった」

父が、呆然と言った。


「止まりやがった」

「まだ。こども、だす」


俺は、子宮に向き直った。

胎児は、動いていなかった。

だが、まだ、可能性がある。子宮を切り、取り出して、刺激すれば。

胎盤剥離があったとしても、完全でなければ、まだ酸素は届いている。届いていれば、蘇生の余地がある。

切った。羊水が溢れた。

手を入れ、頭を探し、掴んで、引き出す。

小さい。青い。動かない。

俺は、赤子を逆さに持ち、背中を強く擦った。口の中を指で拭った。羊水を出させる。

それから、息を吹き込んだ。

俺の口から、小さな肺へ。強く吹きすぎない。この肺は、まだ一度も膨らんだことがない。破れる。

軽く、何度も。

十数える。二十数える。

三十数えたところで、赤子が、咳のような音を立てた。

そして、泣いた。

土間にその声が響いた。

母が、息を呑む音がした。


「かあさま。あたためて。ぬので、くるんで、はだのちかくで」


母が、赤子を受け取った。

俺は、女に戻った。

子宮を縫う。腹の中を確かめる。他に出血がないか。

腸を指で辿った。破れがないか。この確認を怠れば、あの女と同じことになる。一巡り、確かめて、破れがないことを確かめた。

それから、腹を閉じる。

腹膜、筋膜、皮下、皮膚。層ごとに縫う。層を合わせて縫わなければ、後で腹壁が裂ける。

閉じ終わったとき、朝になっていた。

俺は、手を止めた。

血まみれの、十三の手。

震えていない。震える理由がない。

女の脈を取った。まだ速いが、さっきよりは強い。生きている。

生きて、いる。

腹の底で、火が、静かに燃えていた。

拾った。

順番の列から、二人、拾った。

前の世界で、俺が何度も取り落としたものをこの土間で、二人。

------足りない。

そう思っている自分に、俺は気づいた。

嬉しくない。安堵もない。

ただ、足りないとしか思わない。

この二人が助かったのは、たまたま俺がここにいたからだ。俺がいなければ、二人とも死んだ。同じ夜にこの街のどこかで、俺のいない場所で、何人も死んだはずだ。

一人では、足りない。

俺は、顔を上げた。

そして、父が、俺を見つめているのに気づいた。

その目に浮かんでいたのは、算盤ではなかった。



恐怖だった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。