第18話 化け物
その夜から、父は変わった。
俺を見なくなった。
正確には、目を合わせなくなった。指示を出すときも、俺の顔ではなく、手元を見る。俺が近づくと、身体をわずかに引く。
飯の時も、口をきかなくなった。
母は、逆だった。母は、俺をまっすぐ見るようになった。
「クレイ」
女が目を覚ました翌日、母が言った。
「お前、あれをどこで覚えた」
「…みてた」
「嘘をおつき」
母の声は、静かだった。
「腹を切って、中を触って、縫って閉じる。あんな真似、この街の誰もしない。施療院の医者だってしないよ。誰も見たことがないものをお前は見て覚えたのかい」
俺は、答えなかった。
答える言葉がなかった。
前の世界で覚えた、と言ったところで、この母に何が伝わる。伝わらない。伝わらないなら、言わないほうがいい。
「あの人は、怖がってるよ」
母は続けた。
「自分の子供が、自分の理解できないことをやった。それが、あの人には耐えられない。あの人は、そういう人だ」
「かあさまは、こわくないの」
「怖いさ」
母は、即座に答えた。
「怖いよ。ずっと怖かった。お前は、産まれた時から、目が違った。赤ん坊の目じゃなかった。あたしはね、お前を最初に抱いた時から、この子は自分の子じゃないと思ってた」
俺は、母の顔を見た。
母は、俺を見返していた。逃げなかった。
「でも、お前は、あたしの腹から出てきた。それは本当だ。だから、育てた。育ててみたら、お前は人を助ける。あたしの見てる前で、何人も助けた。それが、あたしには、どうしても悪いことだとは思えない」
「かあさま」
「あの人は、そう思ってない」
母は、声を落とした。
「あの人はね、お前をどこかに売る算段をしてる」
俺の背が、冷えた。
「売る?」
「怖くて手元に置けないが、手放すのは惜しい。そういう時、あの人が考えることは、一つだよ。高く買う相手に渡す」
「どこに」
「坂の上さ」
母は、天井を------その向こうの、大聖堂の影を見上げた。
「教会にそういう話を持っていける筋がある。あの人が薬を流してもらってる筋だ。腹を切って人を助ける子供がいる、と言えば、向こうは食いつく」
俺は、黙って、母の言葉の意味を測った。
教会に渡される。
坂の上には、薬がある。医者がいる。書物がある。設備もあるだろう。清潔な水も、明るい部屋も、器具もある。
もし俺が向こうへ行けば、この土間よりは遥かにましな環境が手に入る。
一瞬、それも悪くないかと思った。
思って、すぐに打ち消した。
渡される、というのは、選ばれる側になるということだ。
俺が何を診るか、誰を助けるかを向こうが決める。順番を決めるのは、向こうだ。
そして、あの列に並べない人間を助けることは、たぶん、許されない。
俺が坂の上に入れば、俺の手は、列の前に並べる人間のためだけに使われる。
下水口には、二度と降りてこられない。
さらに------
俺が腹を切ることは、あの世界の理屈では、何になる。
母は前に言った。死んだ身体を傷つけたら重い罪になる、と。
生きている身体を切ることは、どう扱われるのか。
助かったから許されているだけで、死んでいたら、俺は何になっていた。
腹を切った子供。腹を切って、人を殺した子供。
「かあさま。おれ、はらをきったのは、つみになる?」
母は、しばらく黙った。
「…わからないよ」
「わからない?」
「誰もやったことがないんだ。だから、罪かどうか、決まってない。決まってないことは、決める人間の気分で決まる」
その言葉が、その夜、俺の中に残った。
決まっていないことは、決める人間の気分で決まる。
つまり、俺の行為が正しいかどうかは、俺がどれだけ人を助けたかでは決まらない。
決める側が、どういう気分かで決まる。
それは、医学の領域ではない。
法の領域だ。
俺は、法に従うことに抵抗はなかった。
前の世界でも、法はあった。医者は法の中で仕事をする。それは当然のことだ。俺が誰かを切ることが許されているのは、法がそれを許しているからだ。
許しがなければ、俺の手は、ただの刃物だ。
医者が自分の判断だけで人を切っていい世界は、俺が生きたい世界ではない。
だから、俺は法を否定しない。
だが。
法が、医を正しく測れているかどうかは------また、別の話だ。
前の世界の法は、少なくとも、医学を理解しようとしていた。医学が進めば、法もそれに合わせて動いた。完璧ではなかったが、対話はあった。理解しようとする姿勢は、あった。
この世界の法は、どうだ。
この世界の法は、人の身体の中を知らない。
知らないまま、身体に触れることを裁く。知らない者が、知っている者を裁く。
その構図に、俺は、初めて、はっきりとした嫌悪を覚えた。
嫌悪は覚えたが、逆らうつもりはなかった。
俺は事実を語る。何をして、何が起きたか。それだけを。
事実を語った上で、それが罪だと言われるなら、それは法の領分だ。俺は医者であって、法を作る人間ではない。
裁かれるなら、裁かれる。
ただ、法が正しく医を測れると信じてやる義理も、俺にはない。
その二つは、両立する。
従うことと、信じることは、別だ。
裁かれるなら、裁かれる。俺は事実を語る。何をして、何が起きたか。それだけを。その上で罪だと言われるなら、それは法の領分だ。
だが、法に従うことと、法が正しく医を測れると信じることは、別だ。この世界の法は、身体の中を知らない。知らない者が、知っている者を裁く。従いはする。だが、信じはしない。この二つを、俺は、分けて持つ。
「クレイ」
母が言った。
「出るなら、早い方がいい」
俺は、母を見た。
母は、俺を見なかった。
「あの人が動く前に出な」




