第19話 夜
出る夜は、雨だった。
準備は二年前から済んでいた。
刃物が四本。薬草の知識。文字。帳面。父から少しずつ抜き取って貯めた銭が、銅貨で百と少し。
それだけだ。
荷は、驚くほど軽かった。
十三年住んだ家から持ち出すものが、これだけしかない。
持ち出せるものが、これだけしかない。
俺は、土間に立って、その家を見た。
煤けた梁。生まれて最初に見た天井。血を拭った桶。色水を煮た鍋。父が座る椅子。母が器具を並べる台。
助けた人間の顔が、いくつか浮かんだ。
荷運びの男。脚を引きずりながら、礼に干し肉を置いていった。階段から落ちた男。次に来たときは、別の傷だった。背を立てて抱かれた、あの熱の子供。あれは名前も知らないままだ。
腹を裂いて子を取り出した、あの女。今は隣の路地で、赤子と一緒に生きている。
助けられなかった人間の顔も、同じだけ浮かんだ。
腹を膨らませて死んだ、名前も知らない若い男。二十日の順番を待てずに腕が腐りかけた荷運び。熱を出したまま連れて帰られて、それきり来なかった子供。腹を開けられずに死んだ、あの二人。
そして、五日かけて死んだ、あの女。
最後に何か言おうとして、言えなかった、あの口。
俺が出れば、この後、その数は増える。
父は俺なしで腹を診る。診て、殺す。銭のために。
それを止める方法は、俺がここに残ること以外にない。
残れば、何人か拾える。
残らなければ、何人か落ちる。
俺は、残らない。
その選択の重さを、俺はきちんと数えた。数えた上で、選んだ。
------黒を切る。
その言葉が、頭の中に浮かんだ。
浮かんで、消えなかった。
「クレイ」
母が、土間に立っていた。
灯りは点けていなかった。父は、酒を飲んで寝ている。
「これ、持っておいき」
母が差し出したのは、布に包んだ小さなものだった。受け取ると、重い。
開けると、光る小瓶が、二本入っていた。
魔法薬だ。父が棚の奥にしまっていたものだ。
「かあさま、これ」
「あの人は、数えてない。あたしが数えてるからね」
「でも」
「持っておいき」
母は言った。
「お前が持ってた方が、人が助かる。あの人が持ってたら、また誰か殺す」
俺は、瓶を握った。
冷たい。中の液体が、暗い土間で、わずかに光っている。
これが二本。二人分だ。
母が、数えていた。父が数えない薬を母だけが、数えていた。だから二本抜けた。
この二本で、深い傷を二人まで、俺の手で閉じられる。だが、二人で足りるはずがない。奇跡が二本きり、ということは、その二本に順番がつく、ということだ。誰に使い、誰に使わないか。この二本を持って歩く限り、俺は、毎日、それを選ぶことになる。
二人までなら、深い傷を俺の手で閉じられる。
「かあさま」
「なんだい」
訊きたいことが、いくつかあった。
なぜ助けるのか。
俺を気味悪がっていたはずだ。自分の子ではないと思っていたはずだ。稼ぎ頭を逃がせば、この家の稼ぎは元に戻る。母にとって、損しかない。
なぜ、損をする側に立つのか。
だが、訊かなかった。
訊いたところで、この母は、たぶん、答えない。
見えたものを見えたままに数える人だ。この母が数えた結果、俺を出す方が正しいという答えが出た。それだけのことだろう。
理由は、この人の中にある。俺が持ち出すものではない。
「…ありがとう」
俺は、そう言った。
この世界に生まれてから、俺が誰かに礼を言ったのは、その時が初めてだった。
母は、驚いた顔をした。
それから、目を逸らした。
「早くお行き」
「かあさまは」
「あたしは、ここにいるよ」
「とうさまと」
「そうだよ」
母は、少し笑った。
「あたしはね、あんたと違って、ここでしか生きられない女だ。それでいいんだ」
俺は、その言葉に何も返せなかった。
この母は、自分の場所を選んでいる。選んだ上で、そこにいる。俺が救うものでも、連れ出すものでもない。
「かあさま。もし、こまったら」
「困らないよ」
「もし」
母は、俺を見た。
「…そうだね。困ったら、あんたを探すよ」
嘘だ、と思った。この母は、探さない。
だが、俺はその嘘をそのまま受け取った。
俺は、戸を開けた。
雨が降っていた。
一歩、踏み出して、振り返らなかった。
振り返らない訓練は、前の世界で、身体に刻んである。
坂を登らず、下水口の外れへ向かった。
坂の上に行くつもりはない。まだ、行けない。
あそこへ行けば、俺は選ばれる側になる。選ぶ側になれるだけの力を持たない限り、あの門はくぐらない。
行き先は、決めていなかった。
だが、やることは決めていた。
一つ。生きる。
飯を食い、寝る場所を作り、この身体を大人まで育てる。医者としての手は、身体が要る。背が伸びなければ届かない場所がある。力がなければ締められない糸がある。
二つ。腕を売る。
裏路地でも、街道沿いでも、傭兵の宿でもいい。傷を診て、銭を取る。銭を取りながら、症例を数える。帳面を厚くする。
数が要る。何百件も。
三つ。麻酔を作る。
薬草を集め、蒸留し、量を測る。何年かかっても。
最初の一人は、俺だ。それは決めてある。
四つ。魔法を知る。
これが、一番の難物だった。
俺は、魔法を何も知らない。
魔法薬が外から効くことは突き止めたが、それがなぜかは知らない。何が「効いて」いるのか。どういう理屈で、肉が寄るのか。組織が再生するなら、その材料はどこから来るのか。
聖女の祈りが何なのかも知らない。
この世界の医療の半分は、魔法でできている。その半分を知らないままでは、俺の医学は、片肺だ。
そして、たぶん、俺の手だけでは足りない。
腹を開けるには、押さえる手が要る。痛みを止める手が要る。血を止める手が要る。俺が一人で全部やるのには、限界がある。
あの夜、女の腹を開けたとき、父の震える手が、それでも押さえていてくれたから、俺は切れた。
一人では、足りない。
------手が、要る。
雨の中を歩きながら、俺は、その言葉を何度も転がしていた。
前の世界で、俺が最後に思ったことと、同じだった。
俺があと一人いれば。
あの日、そう思った。
今も、同じことを思っている。
十三年経っても、世界が変わっても、俺の欲しいものは、変わっていない。
手が、要る。
俺の技術を理解して、俺の速度についてこられて、俺が切っている間、患者を保たせられる手が。
そんなものが、この世界のどこかにいるのか。
いなければ、作る。
育てる。
教える。
何年かかっても。
雨が、外套を通って、肩を濡らしていた。
寒い。腹も減っている。
だが、足は止まらなかった。




