第20話 夜が明ける
雨は明け方に上がった。
俺は、下水口の外れの、崩れた壁の陰で夜を明かした。
濡れた服が、身体を冷やしている。腹が減っていた。夜のうちに寒さで二度、目が覚めた。
だが、悪くない気分だった。
自分の意志で、初めて、動いた。
それだけのことがこんなに身体を軽くするものかと思った。
十三年、俺はあの家で父の道具として手を動かしてきた。
助けた人間もいた。殺されるのを見ているしかなかった人間もいた。そのどちらも、俺が選んだことではなかった。
誰が来るかは、戸が決めた。何をするかは、父が決めた。
これからは、選ぶ。
誰を診るか、何をするか、どこへ行くか。全部、俺が決める。
決めた結果、間違えば、それも俺のものだ。
その重さも含めて、俺のものになる。
朝日が、下水口の路地に差し込んできた。
雨上がりの匂いがした。下水の匂いが、少しだけ薄まっている。濡れた石と、土と、遠くの炊事の煙。
その光の中で、俺は、坂の上を見上げた。
大聖堂の尖塔が、朝日を受けて、金色に光っていた。
あそこにこの世界の医療の全部がある。
薬があり、医者がいて、書物があり、そして、祈りで人を癒す者がいる。
あそこは、正しく人を救っている。
列の前に並べた者を確かに救っている。それは疑っていない。祈りが本当に人を癒すなら、それは俺の技術より、遥かに優れている。切らずに痛みもなく、跡も残さず治す。俺がどれだけ腕を磨いても、そこには届かない。
そして、列に並べなかった者を天気のように見送っている。
俺は、その尖塔を長いこと見ていた。
いつか、あそこへ行く。
だが、選ばれる側としてではない。
「おい、ガキ」
声をかけられて、振り返った。
崩れた壁の向こうから、男が二人、こちらを見ていた。
身なりは悪い。だが、腰に剣を下げている。傭兵か、その真似事か。
一人が、腕を押さえていた。布を巻いてあるが、血が滲んでいる。
「お前、あの子医者ってやつか」
俺は、答えなかった。
「ガルドんとこの腹を切るガキだって聞いた。こんなとこで、何してる」
噂は、もうそこまで広がっているらしい。腹を切る、という話まで。
一晩で広がる速さではない。あの女の一件から、もう半月経っている。
「家を出た」
男たちが、顔を見合わせた。
それから、腕を押さえていた方が、言った。
「診れるか、これ」
俺は、その腕を見た。
布の下から滲む血の色。滲み方。男の顔色。立ち方。かばい方。
痛みで顔をしかめる頻度。汗の出方。
そこまで見て、俺は、口を開いた。
「見せて」
男が、布を解いた。
前腕の外側。裂けている。深い。だが、動脈ではない。血の出方が、押し出す形ではない。
そして、傷の縁が、赤黒く腫れていた。
時間が経っている。二日か、三日か。汚れも入っている。
「薬、垂らした?」
「ああ。安いやつだが」
「…塞がってない」
「そうなんだよ。安物だからか、途中で止まりやがった」
違う、と俺は思った。
安物だから止まったのではない。
汚れたまま垂らしたから、中で膿が始まっている。中が炎症を起こしていれば、薬の効きが変わる。半端に塞がって、半端に開いている。
この状態が、一番悪い。
外は閉じかけ、中は膿んでいる。膿が出る道が、狭い。
このまま放っておけば、腕を落とすことになる。落とす頃には、たぶん、熱が出ている。熱が出てからでは、落としても間に合わないことがある。
「治せる」
俺は言った。
「でも、痛い」
「痛いのは慣れてる」
「今塞いだら、死ぬ。まず、中を洗う。汚い肉をとる。それから、塞ぐ」
「…どのくらいかかる」
「半刻」
男は、連れと顔を見合わせた。
それから、笑った。
「いくらだ」
「銅貨で、十」
「高えな」
「やすいと、死ぬ」
男が、また笑った。
「面白えガキだ」
そして、腕を差し出した。
俺は、荷を下ろし、刃物を出した。四本のうち、一番小さいものを選んだ。
朝の光が、その刃に当たった。
自分で打たせた刃だ。自分の銭で。自分の意志で。
誰の道具でもない。
------始める。
俺は、そう思った。
ここからだ。
ここから、数を数え始める。この手が、これから何人を拾えるか。何人を取り落とすか。
一件目は、この男だ。傭兵か、その真似事の、名前も知らない男。
帳面の、五百一枚目。
そして、いつか。
順番と運で人が閉じられない場所をこの手で、作る。
一人では足りないから、手を集める。教える。増やす。
俺があの日、あと一人いれば、と思ったあの「一人」を何十人、何百人と作る。
前の世界では、あと一人、が、来なかった。手は、増やせなかった。だから、俺は、黒を切った。
この世界でなら、増やせるかもしれない。一人を二人に。二人を十人に。俺の腕は増えなくても、俺の外の手は、増やせる。順番と運で人が閉じられない場所は、一人の名医では、作れない。作れるのは、増えて、散らない、手の数だけだ。
そのためにまず------
「水を沸かして」
俺は言った。
「後、手を洗って」
「はあ?」
「あんたの、手。押さえてもらう。洗ってない手で、触ったら、こいつが死ぬ」
男は、怪訝な顔をした。
だが、俺の顔を見て、何かを察したらしい。何も言わずに桶を探しに行った。
俺は、その背中を見ながら、思った。
説明はしない。まだ、できない。数が足りない。
理屈を話しても、この世界の誰にも通じない。通じないものを話すのは、時間の無駄だ。今は、ただ、洗わせる。理由は「俺がそう言うから」でいい。
だが、いつか、この世界の全員に手を洗わせる。
理屈で。数字で。誰が言っても同じ結論になる形で。
そのための数を今日から、数える。
俺は、刃を握り直した。
指は、震えていない。
震える理由が、ない。




