↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
20/50

第20話 夜が明ける


雨は明け方に上がった。

俺は、下水口の外れの、崩れた壁の陰で夜を明かした。

濡れた服が、身体を冷やしている。腹が減っていた。夜のうちに寒さで二度、目が覚めた。

だが、悪くない気分だった。

自分の意志で、初めて、動いた。

それだけのことがこんなに身体を軽くするものかと思った。

十三年、俺はあの家で父の道具として手を動かしてきた。

助けた人間もいた。殺されるのを見ているしかなかった人間もいた。そのどちらも、俺が選んだことではなかった。

誰が来るかは、戸が決めた。何をするかは、父が決めた。

これからは、選ぶ。

誰を診るか、何をするか、どこへ行くか。全部、俺が決める。

決めた結果、間違えば、それも俺のものだ。

その重さも含めて、俺のものになる。

朝日が、下水口の路地に差し込んできた。

雨上がりの匂いがした。下水の匂いが、少しだけ薄まっている。濡れた石と、土と、遠くの炊事の煙。

その光の中で、俺は、坂の上を見上げた。

大聖堂の尖塔が、朝日を受けて、金色に光っていた。

あそこにこの世界の医療の全部がある。

薬があり、医者がいて、書物があり、そして、祈りで人を癒す者がいる。

あそこは、正しく人を救っている。

列の前に並べた者を確かに救っている。それは疑っていない。祈りが本当に人を癒すなら、それは俺の技術より、遥かに優れている。切らずに痛みもなく、跡も残さず治す。俺がどれだけ腕を磨いても、そこには届かない。

そして、列に並べなかった者を天気のように見送っている。

俺は、その尖塔を長いこと見ていた。

いつか、あそこへ行く。

だが、選ばれる側としてではない。



「おい、ガキ」


声をかけられて、振り返った。

崩れた壁の向こうから、男が二人、こちらを見ていた。

身なりは悪い。だが、腰に剣を下げている。傭兵か、その真似事か。

一人が、腕を押さえていた。布を巻いてあるが、血が滲んでいる。


「お前、あの子医者ってやつか」


俺は、答えなかった。


「ガルドんとこの腹を切るガキだって聞いた。こんなとこで、何してる」


噂は、もうそこまで広がっているらしい。腹を切る、という話まで。

一晩で広がる速さではない。あの女の一件から、もう半月経っている。


「家を出た」


男たちが、顔を見合わせた。

それから、腕を押さえていた方が、言った。


「診れるか、これ」


俺は、その腕を見た。

布の下から滲む血の色。滲み方。男の顔色。立ち方。かばい方。

痛みで顔をしかめる頻度。汗の出方。

そこまで見て、俺は、口を開いた。


「見せて」


男が、布を解いた。

前腕の外側。裂けている。深い。だが、動脈ではない。血の出方が、押し出す形ではない。

そして、傷の縁が、赤黒く腫れていた。

時間が経っている。二日か、三日か。汚れも入っている。


「薬、垂らした?」

「ああ。安いやつだが」

「…塞がってない」

「そうなんだよ。安物だからか、途中で止まりやがった」


違う、と俺は思った。

安物だから止まったのではない。

汚れたまま垂らしたから、中で膿が始まっている。中が炎症を起こしていれば、薬の効きが変わる。半端に塞がって、半端に開いている。

この状態が、一番悪い。

外は閉じかけ、中は膿んでいる。膿が出る道が、狭い。

このまま放っておけば、腕を落とすことになる。落とす頃には、たぶん、熱が出ている。熱が出てからでは、落としても間に合わないことがある。


「治せる」

俺は言った。


「でも、痛い」

「痛いのは慣れてる」

「今塞いだら、死ぬ。まず、中を洗う。汚い肉をとる。それから、塞ぐ」

「…どのくらいかかる」

「半刻」


男は、連れと顔を見合わせた。

それから、笑った。


「いくらだ」

「銅貨で、十」

「高えな」

「やすいと、死ぬ」


男が、また笑った。


「面白えガキだ」


そして、腕を差し出した。

俺は、荷を下ろし、刃物を出した。四本のうち、一番小さいものを選んだ。

朝の光が、その刃に当たった。

自分で打たせた刃だ。自分の銭で。自分の意志で。

誰の道具でもない。

------始める。

俺は、そう思った。

ここからだ。

ここから、数を数え始める。この手が、これから何人を拾えるか。何人を取り落とすか。

一件目は、この男だ。傭兵か、その真似事の、名前も知らない男。

帳面の、五百一枚目。

そして、いつか。

順番と運で人が閉じられない場所をこの手で、作る。

一人では足りないから、手を集める。教える。増やす。

俺があの日、あと一人いれば、と思ったあの「一人」を何十人、何百人と作る。

前の世界では、あと一人、が、来なかった。手は、増やせなかった。だから、俺は、黒を切った。

この世界でなら、増やせるかもしれない。一人を二人に。二人を十人に。俺の腕は増えなくても、俺の外の手は、増やせる。順番と運で人が閉じられない場所は、一人の名医では、作れない。作れるのは、増えて、散らない、手の数だけだ。

そのためにまず------


「水を沸かして」

俺は言った。


「後、手を洗って」

「はあ?」

「あんたの、手。押さえてもらう。洗ってない手で、触ったら、こいつが死ぬ」


男は、怪訝な顔をした。

だが、俺の顔を見て、何かを察したらしい。何も言わずに桶を探しに行った。

俺は、その背中を見ながら、思った。

説明はしない。まだ、できない。数が足りない。

理屈を話しても、この世界の誰にも通じない。通じないものを話すのは、時間の無駄だ。今は、ただ、洗わせる。理由は「俺がそう言うから」でいい。

だが、いつか、この世界の全員に手を洗わせる。

理屈で。数字で。誰が言っても同じ結論になる形で。

そのための数を今日から、数える。

俺は、刃を握り直した。

指は、震えていない。

震える理由が、ない。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。