↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
21/45

第21話 値をつける


最初の一件は銅貨十だった。

傭兵崩れの男の腕を洗い、腐った肉を削ぎ、開けたまま置いて、三日後に膿が引いたのを確かめてから塞いだ。塞ぐには母がくれた薬を使わず、糸で縫った。薬は二本しかない。ここで使えば、次に本当に必要な時に何もなくなる。

男は、四日目に銅貨十を払った。払って、こう言った。


「もう二人ばかり、診て欲しいやつがいる」


それが、始まりだった。

下水口の外れに傭兵の使う安宿がある。街道を歩く連中が、街に入る前に体を休める場所だ。まともな宿には泊まれない、まともな医者にはかかれない、そういう連中が集まる。

俺は、その宿の裏の物置に寝床を借りた。宿代の代わりに宿の連中を無料で診る。それが条件だった。

一月で、俺の名はその界隈に広がった。


「金は取るが、確実に治す」


その評判は、正確だった。俺は値切らない。無料でも診ない。銅貨十を必ず取る。

理由は、二つあった。


一つは、生きるためだ。飯を食い、刃を研ぎ、薬草を買い、紙を買う。全部に銭が要る。


もう一つは、もっと実務的な理由だ。


無料で診ると、患者が言うことを聞かない。

これは、前の世界でも同じだった。人は、対価を払ったものを大事にする。銅貨十を払った患者は、俺が「三日後に来い」と言えば来る。「その手で触るな」と言えば触らない。無料で診た患者は、来ない。触る。そして悪化してから、また来る。

その時には、手遅れになっている。

だから、値をつける。


値は、患者を縛る紐だ。


無料は、優しさに見えて、優しさではない。無料で診れば、患者は、指示を守らない。守らなければ、悪化して、戻ってくる。戻ってきたときには、手遅れだ。

銅貨十は、罰ではない。紐だ。三日後に来い、と言えば来る。その手で触るな、と言えば触らない。その一本の紐が、患者を生かす。優しさより、紐のほうが、人を助けることがある。


「おい、子医者。今日は銭がねえんだ。後で払う」

「じゃあ、後で診る」

「傷が開いてんだよ」

「じゃあ、今、払って」


こういうやり取りを、俺は毎日していた。

十四になった。

背が伸び始めていた。声も、少し低くなった。まだ子供の顔をしているが、「坊や」と呼ばれることは減った。

指は、順調に育っていた。

毎朝の糸結びは、欠かしていない。片手で、左手で、目を閉じて。加えて、この一年で新しい訓練を足した。

暗闇で切る訓練だ。

腹の中は暗い。灯りをいくら並べても、開いた腹の奥までは届かない。前の世界には無影灯があった。ここにはない。

なら、目に頼らない手を作るしかない。

俺は、布を被せた箱の中に獣の肉を入れて、見ずに切る訓練をした。指先の感触だけで、層を見分ける。皮と、脂と、筋と、膜。触感が違う。違いを指に覚えさせる。

三月続けて、ようやく形になってきた。



「なあ、子医者」


宿の主人が、ある日、言った。


「あんた、どこで習ったんだ、その手つき」

「おやじ」

「ガルドの倅だってな。だが、ガルドはあんたみたいなことはしねえ」


俺は、答えなかった。

答えなかったが、この問いは、これから何度も来ると理解していた。

俺の技術には、出所がない。師匠がいない。修業した場所がない。この世界のどこにも、俺に教えられる人間がいない。

それは、危うい。

この世界の人間は、説明のつかないものを神か悪魔かのどちらかにする。裏路地の連中は結果しか見ないから、まだいい。だが、いずれ、そうでない場所に出る。

説明が要る。

嘘でもいい。信じられる筋書きが要る。


「父さまが、たまにまともなことをしてた」

俺は言った。


「それを見てた」

「あのガルドが?」

「たまにな」


宿の主人は、疑わしそうな顔をしたが、それ以上は訊かなかった。

嘘は、二重にしておくのがいい。父から習った、という嘘は、確かめようがない。確かめに行けば、父は「そうだ」と答えるだろう。自分の手柄になるからだ。

俺は、そのことを知っている。



帳面は、順調に厚くなっていた。

宿を拠点にすると、症例の質が変わった。

家にいた頃は、裏路地の住人が中心だった。栄養が悪く、慢性の不調を抱えた者が多い。

宿に来るのは、傭兵と、行商と、街道を歩く連中だ。若く、身体が丈夫で、外傷が中心。刃物傷、打撲、骨折、獣に噛まれた傷。

その分だけ、治りの速さの差が、はっきり見えた。

同じ年頃の、同じ体格の男が二人。同じ日に同じような切り傷を負って、同じように処置した。

一人は八日で塞がった。もう一人は十四日かかった。

八日の男は、痩せていて、酒を飲む。十四日の男は、鍛えていて、酒を飲まない。

前の世界の基準なら、逆になるはずだ。

俺は、帳面にその二例を並べて書き、線を引いた。

魔力の差か。

そう書いて、少し考えてから、消した。

決めつけるには早い。「魔力」というのは、俺がこの世界で拾った言葉であって、俺はまだ、それが何なのかを知らない。見えない変数を名前で片付けるのは、思考の停止だ。

代わりにこう書き直した。

------理由不明の個体差。要測定。

測る方法を、俺はまだ持っていない。

だが、書いておけば、いつか測る方法を見つけたときにこの記録が使える。

そう思って、俺は書き続けた。



宿の物置には、光が入らない。

夜、獣脂の灯りを一つ点けて、俺は帳面を広げる。書き終えると、灯りを消して、暗闇で肉を切る。

そういう日々だった。

寂しくはなかった。

前の世界でも、俺はこういう生活をしていた。病院に泊まり込み、当直室で仮眠を取り、起きて手を洗い、また現場に出る。誰かと過ごす時間は、ほとんどなかった。

それで足りていた。

足りていた、と思っていた。

だが、時々、あの土間を思い出した。

震える手で、それでも押さえていた父の手を。

灯りを五つ並べた母を。

------一人では、足りない。

その言葉が、時々、暗闇の中で戻ってきた。

俺は、それを追い払わなかった。

追い払う必要が、なかった。それは事実であって、感傷ではない。俺は本当に手が足りていない。

だから、探す。

どこにとはまだわからない。

だが、この世界には魔法がある。祈りで人を癒す者がいる。ということは、身体に何かを作用させる技術が、既に存在するということだ。

その技術を、傷を塞ぐ以外の使い方で使える人間が、どこかにいるはずだ。

いなければ、作る。

俺は、灯りを消した。

明日も、宿の連中が来る。膿んだ傷と、折れた骨と、腐りかけた歯。

一件、銅貨十。

数えて、書く。

それが、いまの俺の全部だった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。