第21話 値をつける
最初の一件は銅貨十だった。
傭兵崩れの男の腕を洗い、腐った肉を削ぎ、開けたまま置いて、三日後に膿が引いたのを確かめてから塞いだ。塞ぐには母がくれた薬を使わず、糸で縫った。薬は二本しかない。ここで使えば、次に本当に必要な時に何もなくなる。
男は、四日目に銅貨十を払った。払って、こう言った。
「もう二人ばかり、診て欲しいやつがいる」
それが、始まりだった。
下水口の外れに傭兵の使う安宿がある。街道を歩く連中が、街に入る前に体を休める場所だ。まともな宿には泊まれない、まともな医者にはかかれない、そういう連中が集まる。
俺は、その宿の裏の物置に寝床を借りた。宿代の代わりに宿の連中を無料で診る。それが条件だった。
一月で、俺の名はその界隈に広がった。
「金は取るが、確実に治す」
その評判は、正確だった。俺は値切らない。無料でも診ない。銅貨十を必ず取る。
理由は、二つあった。
一つは、生きるためだ。飯を食い、刃を研ぎ、薬草を買い、紙を買う。全部に銭が要る。
もう一つは、もっと実務的な理由だ。
無料で診ると、患者が言うことを聞かない。
これは、前の世界でも同じだった。人は、対価を払ったものを大事にする。銅貨十を払った患者は、俺が「三日後に来い」と言えば来る。「その手で触るな」と言えば触らない。無料で診た患者は、来ない。触る。そして悪化してから、また来る。
その時には、手遅れになっている。
だから、値をつける。
値は、患者を縛る紐だ。
無料は、優しさに見えて、優しさではない。無料で診れば、患者は、指示を守らない。守らなければ、悪化して、戻ってくる。戻ってきたときには、手遅れだ。
銅貨十は、罰ではない。紐だ。三日後に来い、と言えば来る。その手で触るな、と言えば触らない。その一本の紐が、患者を生かす。優しさより、紐のほうが、人を助けることがある。
「おい、子医者。今日は銭がねえんだ。後で払う」
「じゃあ、後で診る」
「傷が開いてんだよ」
「じゃあ、今、払って」
こういうやり取りを、俺は毎日していた。
十四になった。
背が伸び始めていた。声も、少し低くなった。まだ子供の顔をしているが、「坊や」と呼ばれることは減った。
指は、順調に育っていた。
毎朝の糸結びは、欠かしていない。片手で、左手で、目を閉じて。加えて、この一年で新しい訓練を足した。
暗闇で切る訓練だ。
腹の中は暗い。灯りをいくら並べても、開いた腹の奥までは届かない。前の世界には無影灯があった。ここにはない。
なら、目に頼らない手を作るしかない。
俺は、布を被せた箱の中に獣の肉を入れて、見ずに切る訓練をした。指先の感触だけで、層を見分ける。皮と、脂と、筋と、膜。触感が違う。違いを指に覚えさせる。
三月続けて、ようやく形になってきた。
「なあ、子医者」
宿の主人が、ある日、言った。
「あんた、どこで習ったんだ、その手つき」
「おやじ」
「ガルドの倅だってな。だが、ガルドはあんたみたいなことはしねえ」
俺は、答えなかった。
答えなかったが、この問いは、これから何度も来ると理解していた。
俺の技術には、出所がない。師匠がいない。修業した場所がない。この世界のどこにも、俺に教えられる人間がいない。
それは、危うい。
この世界の人間は、説明のつかないものを神か悪魔かのどちらかにする。裏路地の連中は結果しか見ないから、まだいい。だが、いずれ、そうでない場所に出る。
説明が要る。
嘘でもいい。信じられる筋書きが要る。
「父さまが、たまにまともなことをしてた」
俺は言った。
「それを見てた」
「あのガルドが?」
「たまにな」
宿の主人は、疑わしそうな顔をしたが、それ以上は訊かなかった。
嘘は、二重にしておくのがいい。父から習った、という嘘は、確かめようがない。確かめに行けば、父は「そうだ」と答えるだろう。自分の手柄になるからだ。
俺は、そのことを知っている。
帳面は、順調に厚くなっていた。
宿を拠点にすると、症例の質が変わった。
家にいた頃は、裏路地の住人が中心だった。栄養が悪く、慢性の不調を抱えた者が多い。
宿に来るのは、傭兵と、行商と、街道を歩く連中だ。若く、身体が丈夫で、外傷が中心。刃物傷、打撲、骨折、獣に噛まれた傷。
その分だけ、治りの速さの差が、はっきり見えた。
同じ年頃の、同じ体格の男が二人。同じ日に同じような切り傷を負って、同じように処置した。
一人は八日で塞がった。もう一人は十四日かかった。
八日の男は、痩せていて、酒を飲む。十四日の男は、鍛えていて、酒を飲まない。
前の世界の基準なら、逆になるはずだ。
俺は、帳面にその二例を並べて書き、線を引いた。
魔力の差か。
そう書いて、少し考えてから、消した。
決めつけるには早い。「魔力」というのは、俺がこの世界で拾った言葉であって、俺はまだ、それが何なのかを知らない。見えない変数を名前で片付けるのは、思考の停止だ。
代わりにこう書き直した。
------理由不明の個体差。要測定。
測る方法を、俺はまだ持っていない。
だが、書いておけば、いつか測る方法を見つけたときにこの記録が使える。
そう思って、俺は書き続けた。
宿の物置には、光が入らない。
夜、獣脂の灯りを一つ点けて、俺は帳面を広げる。書き終えると、灯りを消して、暗闇で肉を切る。
そういう日々だった。
寂しくはなかった。
前の世界でも、俺はこういう生活をしていた。病院に泊まり込み、当直室で仮眠を取り、起きて手を洗い、また現場に出る。誰かと過ごす時間は、ほとんどなかった。
それで足りていた。
足りていた、と思っていた。
だが、時々、あの土間を思い出した。
震える手で、それでも押さえていた父の手を。
灯りを五つ並べた母を。
------一人では、足りない。
その言葉が、時々、暗闇の中で戻ってきた。
俺は、それを追い払わなかった。
追い払う必要が、なかった。それは事実であって、感傷ではない。俺は本当に手が足りていない。
だから、探す。
どこにとはまだわからない。
だが、この世界には魔法がある。祈りで人を癒す者がいる。ということは、身体に何かを作用させる技術が、既に存在するということだ。
その技術を、傷を塞ぐ以外の使い方で使える人間が、どこかにいるはずだ。
いなければ、作る。
俺は、灯りを消した。
明日も、宿の連中が来る。膿んだ傷と、折れた骨と、腐りかけた歯。
一件、銅貨十。
数えて、書く。
それが、いまの俺の全部だった。




