第8話 横流し
魔法薬は教会のものだった。
そう知ったのは、それから半年ほど後だ。
父が、月に一度、出かける先がある。夜明け前に出て、昼過ぎに戻る。戻るときは荷を抱えていて、その中にあの淡く光る小瓶が混じっていることがある。混じっていない月のほうが、多い。
「とうさま、どこ、いくの」
「仕入れだ」
「なにを」
「うるさい」
その一言で終わりだった。
この家には、俺に知らせないことが、いくつかある。仕入れ先。銭の隠し場所。そして、父が時々、夜中に人と会っていること。
隠されると知りたくなる。それは子供の好奇心ではなく、もっと実利的な理由だ。あの光る薬がどこから来るかを知らなければ、俺はそれを自分で手に入れる道を作れない。
だから、俺は父を尾けた。
六つになる年の、春だった。
尾行は、前の世界でやったことなどない。だが、人が振り返る条件は、身体の使い方で決まる。急に動くものと、視界の中で速度の変わるものに人は気づく。だから同じ速度で歩き、止まるときは他人の陰に入る。裏路地は人が多い。六つの子供は、風景の一部だ。
父は、下水口を出て、坂を登った。
登った先が、俺が初めて見る場所だった。
石畳だ。
裏路地の踏み固めた土ではない。ちゃんと切った石が、隙間なく敷き詰めてある。歩くと、足音が違う。土は音を吸う。石は返す。その返る音を、俺は生まれて初めて聞いた。
建物の壁が白い。窓に透明なものが嵌まっている。
ガラスだ、と俺は理解した。
この世界にも、ガラスはある。透明なガラスを平らに大きく作る技術がある。それは、俺が思っていたより、この世界の技術水準が高いことを意味していた。
なら、器具も作れる。
管も、瓶も、透明な容器も。作る先があるなら、作らせられる。
そして、坂の上にそれがあった。
大聖堂だった。
見上げるほど高い、白い石の建物。尖塔が空を突いていて、その頂に金色の何かが光っている。裏路地からでも見えていた影の正体が、それだった。俺は毎日、あの影の下で暮らしていたのに実物を見たのは、その日が初めてだった。
大聖堂の脇に低く長い建物が続いている。
そちらの入口には、列ができていた。
長い列だ。
老人がいる。子供を抱いた女がいる。担架に載せられて、動かない者もいる。列は、建物の角を曲がって、その先まで続いていた。
誰も、喋っていなかった。
ただ、順番を待っていた。
施療院、というのだと、後で知った。
教会が営む、正規の医者のいる場所。そこでだけ、あの光る薬が、正しく買える。そして、それより奥に聖女がいる。
俺は、その列をしばらく眺めていた。
眺めながら、数えていた。
見える範囲で、六十人ほど。角の向こうが見えないから、実数はもっと多くなる。この列が毎日できるのだとすれば、一日に何人が捌けているのか。捌けなかった者は、どうなるのか。
列の中ほどに担架があった。載せられた男は、動かなかった。付き添いの女が、時々、顔を覗き込んでいる。
覗き込むたびに女の肩が、少しずつ落ちていく。
俺は、目を逸らした。
父は、その列には並ばなかった。
建物の裏手に回り、目立たない小さな戸を叩いた。しばらくして、戸が細く開き、中から男が顔を出した。教会の者らしい、灰色の衣を着ていた。
言葉は聞こえなかった。だが、やり取りは見えた。
父が銭を渡す。男が、布に包んだものを渡す。それだけだ。数十秒で終わった。父はすぐに踵を返し、坂を下り始めた。
俺は、身を隠しながら、その光景を頭に刻んだ。
横流しだ。
正規の窓口ではなく、裏の戸から、教会の人間が薬を流している。父はそれを買い、裏路地で売る。あるいは、自分の診療に使う。値が高いのは、危ない橋だからだ。
つまり------魔法薬は、教会が握っている。
作るのも、配るのも、値をつけるのも、全部。
表から買うには、坂を登り、列に並び、順番を待たなければならない。並ぶ資格があるかどうかも、たぶん、選ばれる。
裏路地には、二種類の薬しか降りてこない。横流し品と、水で薄めた偽物だ。父が売る色水は、後者にすら届かない、ただの水だ。
坂を下りながら、俺は考えていた。
この構造は、見覚えがある。
薬を一箇所が握り、そこから配る。配る順番は、その一箇所が決める。決める基準は、たぶん、寄進の額と、身分だ。
そして、その先には、聖女がいる。祈りで人を癒す者。順番待ちが何ヶ月もある者。
腹の底で、火が、低く動いた。
順番だ。また、順番だ。
前の世界で、俺が黒タグを切った理由は、資源が足りなかったからだ。誰も悪くなかった。災害は誰のせいでもなく、救急の手が足りないのは、その日の不運だった。
俺は、あの日、天災に負けた。
だが、ここは違う。
ここでは、足りない資源を誰かが管理している。管理している以上、そこには意志がある。順番は、天災ではなく、決定だ。
前の世界で、俺が黒タグを切った理由は、資源の不足だった。誰も悪くなかった。あの日、俺は、天災に負けた。
だが、ここは、違う。足りない薬を誰かが握って、配っている。握っている以上、そこには、意志がある。天災には、勝てない。だが、意志が作った順番になら、手が、かけられる。
決定なら------変えられる。
その考えが、坂を下りきるまでの間に、俺の中で形になった。
俺は、下水口の匂いの中に戻った。
魚の腐った匂いと、人の匂いと、湿った土の匂い。石畳の上とは、空気の質が違う。同じ街の中で、坂を挟んで、空気が違う。
家に着くと、父はもう戻っていて、光る小瓶を棚の奥にしまうところだった。
「クレイ。どこ行ってた」
「そとで、あそんでた」
「ふん」
父は、それ以上、何も訊かなかった。
俺は、棚の奥を見ていた。
あの小瓶が、坂の上の裏戸から、どういう経路でここへ降りてきたか。それを、俺だけが知っている。
そして、もう一つ、知ったことがあった。
父は、教会と繋がっている。
細い糸だが、繋がっている。
その糸が、いつか、この家の首を絞めるかもしれない。あるいは------俺が、その糸を使うことになるかもしれない。
知っているだけでは、まだ何にもならない。
だが、いつか使う。




