第7話 蓋
死体は、朝までに運び出された。
連れの男が、銭を投げつけていった。診療代ではない。黙っていろ、という意味の銭だった。
この家に運び込まれた時点で、あの若い男は、表沙汰にできない事情の中にいたのだろう。革靴を履いていて、まともな医者にかかれない。そういう連中が、この街には一定数いる。密輸か、賭場の胴元か、貴族の使い走りか。死んだところで、誰も届け出はしない。
名前も知らないまま、あの男は消えた。
父は、その銭をしばらく握ったまま座り込んでいた。
「......薬は、効いたんだ」
誰にともなく、そう言った。
「傷は塞がった。あれ以上、何ができた。俺のせいじゃねえ。運が悪かったんだ」
運。
その言葉が出た瞬間、俺は口を開いていた。
「とうさま。うんじゃ、ない」
「なんだと」
「あのくすり、ふかいきず、なおせない」
父が、顔を上げた。
「あさいきずは、なおる。でも、ふかいのは、うえだけ、ふさがる。なかは、そのまま。だから、なかで、ちがたまって、しぬ」
言い切ってしまってから、加減のことを思い出した。
だが、止められなかった。止める気にも、ならなかった。
あの男が死んだ理由をこの家の誰も理解しないまま朝が来ることが、我慢ならなかった。理解されなければ、次も同じことが起きる。次も、その次も。同じ薬を同じように垂らして、同じように「運が悪かった」で片付けられる。
それが、何十年も続いてきたのだろう。
たぶん、この街が始まってから、ずっと。
「......子供が、何を知った風な」
「みてた」
俺は言った。
「くすり、たらして、うえがふさがるの、みてた。それから、はら、ふくれてった。ふさがってから、ふくれた。じゅんばん、そうだった」
父が、黙った。
順番。それだけは、この男にも見えていたはずだ。傷が塞がった後に腹が膨れた。その前後関係だけは、目に映っていた。ただ、意味を読まなかっただけだ。
見ることと、読むことは、違う。
前の世界で、俺はそれを何度も教えられた。所見はそこにある。誰の目にも映っている。それを異常だと読めるかどうかが、医者と素人を分ける。
「あんた」
母だった。
土間の隅で、血を拭いた布を桶に沈めながら、母が言った。
「あたしも、見てたよ。この子の言う通りだ。塞がってから、腫れた」
「ネラ、お前まで------」
「順番は、確かにそうだった。あたしはそれしか言ってない」
母は、それきり、何も言わなかった。
見えたものを見えたままに数える。この母の癖だ。理屈はわからない。だが、順番だけは、正しく数えた。
俺は、母を見た。
この母は、味方ではない。俺の言い分を支持したわけでもない。ただ、自分が見たことをそのまま述べただけだ。だが、それだけで十分だった。父は、母のその癖を知っている。この母が「見た」と言うなら、それは本当に起きたことだ。
父は、母と俺を交互に見て、それから、舌打ちをした。
「…だとして、どうしろってんだ」
そこだった。
そこが、この家の限界だった。
「深い傷に薬が効かねえなら、何を使う。俺は縫うぐらいしかできねえ。腹の中なんざ、開けたところで見えるもんか。薬が駄目なら、他に何があるってんだ。聖女様の祈りでも借りてこいってのか。順番待ちが何ヶ月あると思ってる」
聖女。
その言葉を、俺は初めて、この家で聞いた。
「せいじょ、って」
「知らんでいい。お前らみたいなのが、一生かかっても順番の回ってこねえ話だ」
「いのると、なおるの?」
「治るさ」
父は、吐き捨てるように言った。
「なんでも治る。腕が取れてようが、腹に穴が空いてようが、聖女様が祈れば治る。そういうもんだ」
「みたことある?」
父は、答えなかった。
答えられないのだ、と俺は思った。この男は、見たことがない。見たことのないものをなんでも治ると信じている。それは、信仰と呼ぶには雑すぎる。ただ、そういうことになっている、という程度の受け入れ方だ。
「順番待ちが何ヶ月」という言葉のほうが、この男にとっては現実だった。
父は立ち上がり、酒の瓶に手を伸ばした。それきり、この話を打ち切った。
俺は、桶の血を見ていた。
祈りで人を癒す者がいる。順番待ちが、何ヶ月もある。
それは------つまり、需要が供給を上回っている、ということだ。救える力が、救うべき数に足りていない。
だから、順番がつく。
順番がつけば、後ろに並んだ者から死ぬ。並ぶ前に死ぬ者もいる。並ぶことすら許されない者は、ここへ来る。裏路地の、色水を売る家へ。
腹の底で、火が、揺れた。
まだ形にならない予感が、そこにあった。
この世界の医療は、貧しいのではない。もっと悪い。足りている場所と、まったく足りていない場所にはっきり分かれている。そういう形をしている。
前の世界の、あの日の現場と、同じ形だ。
あの日、俺は資源の不足の中で、順番を割り振った。俺は、割り振る側だった。
この世界では、俺は、割り振られる側の、さらに外にいる。
俺は、その日のうちに決めたことが二つあった。
一つ。魔法薬の性質を正確に確かめる。どこまで浅ければ効くのか、どこから深ければ殺すのか。境目を知る。知れば、使い分けられる。
二つ。深い傷を、俺の手で閉じられるようにする。この身体が大きくなるまで待つ時間はある。だが、待っている間に道具を揃え、手技を仕込み直す。
そして、もう一つ、思いついたことがあった。
薬が蓋をするなら、蓋をする前に中を先に閉じればいい。
薬が外から効くのは、外から入るからだ。ならば、入る順を変えてやればいい。血を拭って、いちばん奥まで、薬を届かせる。深いところから、順に閉じさせれば、蓋には、ならない。
殺す道具を使い方一つで、生かす道具に変える。理屈は、通る。あとは、深い傷と、一本の薬が、同時に来る日を待つだけだ。待つ間にも、誰かが、死ぬ。それも、含めて、待つ。
出血を拭って、一番奥まで薬を届かせる。それができれば、あの薬は殺す道具ではなくなる。深いところから順に閉じさせれば、蓋にはならない。
理屈は、通る。
薬が外から効くのは、外から入るからだ。ならば、入る場所を変えてやればいい。
あとは、試す機会だ。
試すには、深い傷を負った患者と、魔法薬の一本が要る。どちらも、この家には滅多に来ない。
待つしかない。
待っている間にまた誰かが死ぬかもしれない。
それも、含めて、待つしかない。
「クレイ」
母が、桶を運びながら、俺の横を通った。
「昨日のあれ、二度と、他人の前で言うんじゃないよ」
「うん」
「…あの人の前でも、あんまり言うな。あの人は、自分より物を知ってる子供を可愛がれる質じゃない」
俺は、母を見上げた。
母は、俺を見なかった。桶を持って、そのまま外へ出ていった。
守られているのか、警告されているのか。
どちらでもある、と思った。この母は、俺を気味悪がりながら、俺が壊されないように立ち回っている。理由は、情ではないかもしれない。稼ぎ頭を失いたくないだけかもしれない。
どちらでもいい。
俺は、生きるために泣いた赤子の頃から、何も変わっていない。理由が銭でも、生かされているなら、文句はない。
生かされている限り、俺は、まだ書き続けられる。




