↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
6/60

第6話 凍る土間


「なに言ってるんだ、お前」


父の声から、笑いが消えていた。


「傷は塞がった。見ろ、跡もない。薬が効いたんだ。上等な薬だぞ、これは。お前が口を出す話じゃない」

「ちがう」

俺は言った。


「うえだけ、ふさがった。なか、まだ、きれてる」

「中?」

「はら。ここ」


膨れ始めた脇腹を指した。


「ふくれてる。ちが、溜まってる。だから、かおいろ、わるくなる」


父が、寝台を見た。見て、初めて、腹の形に気づいた顔をした。

だが、それだけだった。


「腫れてるだけだろう。傷を負えば腫れる。当たり前だ」

違う。腫れではない。

腫れは、傷の周りが均等に盛り上がる。押せば戻る。熱を持つ。これは違う。片側だけが、内側から押されるようにじわりと張っていく。押しても戻らない。熱もない。

そして張るほど、呼吸が浅くなる。

血が腹に溜まれば、下から横隔膜を押し上げる。押されれば、肺が広がる余地が減る。息が入らなくなる。だから顔色が落ちる。落ちればさらに息を急ぐ。急いでも入らない。

前の世界で、俺は腹腔内出血を数えきれないほど見た。交通事故、転落、刺創。腹は、外から見て一番判断を誤りやすい場所だ。表に何も出ていなくても、中が血の海になっていることがある。だから、腹の傷は必ず疑う。疑って、確かめる。確かめる術がある世界に、俺はいた。

ここには、それがない。

説明したかった。だが、五つの子供の口には、その言葉が入っていない。


「とうさま。ふさいだの、あけて。なかの、ち、だして。それから、なかの、きれてるとこ、しばる」

「馬鹿を言え」


父の声が、初めて、本気で尖った。


「せっかく塞がった傷を切り開けだと? 薬代がいくらしたと思ってる。あれをもう一本使えるとでも思ってるのか。それに------腹を開けて、中を縛る? 誰がだ。俺か? 俺にそんなことができるか。できるわけがねえだろう」


そこだけは、正しかった。

この男には、できない。

腹を開けたところで、中で何が切れているかを見つけられない。腹の中は、血が溜まれば何も見えなくなる。血を掻き出しながら、どの臓器のどこが破れているかを指と目で探す。探し当てても、そこを掴んで、糸で縛らなければならない。

その全部をこの男は知らない。知らないまま開ければ、患者はもっと早く死ぬ。

だから開けないという判断は、この男の技術の水準においては、正しい。

正しい判断が、人を殺す。

前の世界で、俺が何度も見た形だ。

あの日の現場でも、そうだった。俺の判断は正しかった。訂正する箇所が一つもなかった。それでも、目の前の男は死んだ。

だが、あれは資源が足りなかった。

ここは、知識が足りない。

前の世界では、腕はあったが、時間と手が、足りなかった。ここでは、頭はあるが、身体と、道具が、足りない。

形は違う。だが、結局は、同じだ。足りない、という、ただそれだけの理由で、目の前の一人が、閉じる。資源の不足には、勝てなかった。だが、知識の不足なら、俺が、中に持っている。あるのに届かない。それだけの話だ。

同じ「足りない」でも、性質が違う。資源は増やせない。だが、知識は------俺の中に既にある。

あるのに届かない。


「先生、こいつ、どうなんだ」


連れの男が、割って入った。革靴の男だ。


「塞がったんだろう。もう大丈夫なんだろう」

「ああ。傷は塞がった。あとは寝かせておけば------」

「いき、してない」


俺の声が、被さった。

寝台の若い男の胸が、止まりかけていた。

浅く、速かった呼吸が、間延びしている。一つ吸って、次までが長い。顎が上を向く。下顎呼吸だ。指の先が、白を通り越して、青い。

落ちる。

俺は寝台に駆け寄った。加減も何もなかった。小さな手で顎を上げ、口を開かせ、気道を確保する。それだけは、この身体でもできる。

だが------それだけだ。

息の道を空けても、送るべき血がなければ、意味がない。血は腹の中に溜まっている。溜まった血は、心臓に戻ってこない。戻らなければ、送るものがない。空の管をいくら押しても、何も流れない。

腹を開けて、溜まった血を出して、切れた血管を縛る。それしか、この男を助ける道はない。

その道が、この土間には、ない。

道具がない。父の刃物は、厚く、鈍い。あれで腹壁を切れば、切れるのではなく裂ける。光が足りない。獣脂の灯り一つでは、腹の中は闇だ。手が足りない。開けた腹を保つ手、血を掻き出す手、探る手。最低でも三人分の手が要る。

何より、俺の手が、五つの子供の手だ。

開いたとしても、この指では、腹の奥まで届かない。届いても、力が足りない。糸を締める力が足りない。

俺は、自分の手を見た。

小さい。柔らかい。爪すら、まだ薄い。

この手で、何ができる。


「おい、どうなってんだ、先生!」

「落ち着け、今------」


土間が、騒がしくなった。父が叫び、連れの男が父の胸倉を掴み、母が二人の間に入る。誰も、寝台を見ていなかった。

俺だけが、見ていた。

若い男の呼吸が、一度、大きく吸い込むように跳ねた。

それから、止まった。

それきりだった。

数を数えるまでもなかった。指の色、顎の角度、胸の動き。全部が、終わりを告げていた。前の世界で、何百回と見た形だ。俺の手が届かなかったときの、あの形。

塞がった傷が、きれいなままそこにあった。

跡もない。まるで、最初から何も起きなかったかのように。

その下で、腹だけが、張っていた。

騒ぐ声が、遠くなった。

腹の底で、火が、燃えていた。


ふざけるな。


こいつは、助かった。腹を開けて、血を出して、縛れば、助かった。技術は、ある。この世界にはないだけで、確かに存在する技術だ。俺は知っている。俺の頭の中にその全部が入っている。

なのに、この手が届かない。

前の世界では、腕はあったが、時間と手の数が足りなかった。ここでは、頭はあるが、身体が足りない。道具が足りない。知識を持つ者が、俺一人しかいない。

形が違うだけだ。結局、また、足りない。

足りないという、ただそれだけの理由で、目の前の男が閉じた。

書き尽くす前に閉じた。

こいつが何者で、何をしてきて、これから何をするつもりだったのか、俺は何も知らない。知る機会が、失われた。こいつ自身も、それを書き終える機会を失った。


ふざけるな。


「…先生。こいつ、死んでるぞ」


連れの男の声が、低くなっていた。

父の顔から、血の気が引いた。


「そんなはずは…傷は、塞がった。俺は、ちゃんと、上等な薬を------」

「傷は塞がってるな。ああ、確かに塞がってるさ」


男は、寝台を見下ろした。


「なのに、死んでる。あんた、何をした」


何もしていない。

それが、答えだった。この男は、何もしていない。薬を垂らして、傷が消えるのを見て、満足した。それだけだ。

その「何もしなかった」が、この若い男を殺した。

俺は、寝台の脇に立ったまま、動かなかった。

死んだ男の顔を見ていた。

名前も知らない。どこの誰かも知らない。前の世界で、俺が黒タグを切ったあの男と、同じだ。悲しむには、情報が足りなさすぎる。

だから、俺は悲しまなかった。

ただ、覚えた。

魔法薬は、深い傷に効かない。効かないどころか、殺す。塞ぐことで、殺す。

この世界の誰も、それを知らない。

俺だけが、知っている。

知っているだけで、何もできなかった。


今日は。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。