第5話 児戯
知る機会は唐突に来た。
その日、戸を叩いたのは、いつもの裏路地の客ではなかった。
身なりが、違った。汚れてはいるが、布地が良い。裏路地の人間ではない。もう少し、上の階層の匂いがした。革の靴を履いている。この界隈で、革の靴を履いている人間は、まずいない。
「医者はいるか。急ぎだ」
男は、若い連れを抱えていた。連れの脇腹が、赤黒く濡れている。
深い。一目でわかった。
腹だ。腹をやられている。前腕の傷とは、格が違う。
「診てくれ。金は出す。普通の医者は、こういうのは診たがらないんだ」
普通の医者が診たがらない理由を、俺は知っている。
腹の傷は、外から見えるより、中が問題だ。腹の中には、切れて困るものしか入っていない。腸、肝、脾、そして太い血管。どれが傷ついているかによって、やるべきことが全く違う。それを見極めて、対処できなければ、外を縫っても人は死ぬ。
だから、腕のない医者は、腹に手を出さない。出せば、殺すからだ。それは臆病ではなく、正しい判断だ。この世界の医者が全員無知でも、その一点だけは、経験が教えている。
父は、迷った。
そして迷いながら、金の匂いに負けた。
「…診よう。寝かせろ」
男が寝台に横たえられた。父が、傷を検める。
俺は隅から、その若い男を見ていた。顔色が悪い。息が浅く速い。額に汗。手足の先が白い。俺の見立てでは、既にかなりの量を失っている。腹の中に溜まっている分も含めれば、もっとだ。
急げ。急がなければ、この男は落ちる。
その時、母が、棚の奥から、小さな瓶を取り出してきた。
今まで、見たことのない瓶だった。とろりとした、淡く光る液体が、中で揺れていた。
「あんた、これ、使うかい」
母が、低い声で言った。
「高いよ。あんまり、使いたかないけど」
「…使うしか、ねえだろ。腹だぞ」
俺は、その瓶を見つめた。
色水とは、違う。あれは、ただの水だった。だが、これは------違う。中の液体が、淡く、確かに光っている。空気が、その周りだけ、わずかに揺れている。
魔力、というものを、俺はその時、生まれて初めて、目で見た。
父が、その液体を傷口に垂らした。
そして------傷が、塞がった。
見ている前で。赤黒く裂けていた脇腹の皮膚が、みるみる寄り、繋がり、癒着した。数秒だ。数秒で、外から見える傷は、消えた。まるで、最初から何もなかったかのように。跡すら、ほとんど残らなかった。
俺は、息を呑んだ。
これが、魔法。傷を塞ぐ薬。
俺の前の世界には、なかったもの。縫合も、消毒も、時間も要らず、ただ垂らすだけで、皮膚が繋がる。
もし、これが本物なら------もし、これが万能なら。
俺の技術など、いらない。この世界には、俺の腕を遥かに超える力が、既にある。俺が何年もかけて身につけた手技の全部が、この小瓶一本に負けている。
一瞬、そう思った。
思った瞬間に腹の底の火が、消えかけた。それは奇妙な感覚だった。安堵と、虚脱。俺が要らないなら、それでいい。人が助かるなら、俺の腕が無価値でも、構わない。前の世界で、俺が欲しかったのは、俺の値打ちではなく、助かる人間の数だった。
だが。
俺は、寝台の男を見ていた。
傷は、塞がった。外から見える傷は。
なのに------男の顔色が、良くならない。
むしろ、悪くなっていく。呼吸が、さらに浅く、速くなる。唇の色が、抜けていく。そして、塞がった脇腹の、その下。皮膚の下で、腹が、静かに膨れ始めていた。
俺の背筋が、冷えた。
内出血だ。
外の皮膚は塞がった。だが、中で切れた血管は、切れたままだ。塞がっていない。血は、外に出る道を失って、腹の中に溜まり続けている。皮膚という蓋をされたぶん、逃げ場をなくした血が、内側で、静かに男を殺していく。
なぜだ、と俺は考えた。考えながら、答えに既に半分たどり着いていた。
薬は、傷に垂らされた。垂らされた薬が、最初に触れるのは、一番外側の、皮膚だ。奥へ行くほど、薬は血に薄められ、薄まれば力を失う。だから、一番濃いまま、一番先に力を発揮するのは、いつでも、外表皮だ。
外から治る。外が塞がれば、それより奥には、もう薬は届かない。届く前に蓋が閉まる。
深い傷ほど、この薬は、奥を放置する。奥を放置したまま、蓋をする。
------これだ。
これが、この世界の医療が、貧しい理由の、一つ。
万能に見える魔法薬。浅い傷なら、確かに奇跡だ。垂らせば治る。誰も文句を言わない。だが、それは万能ではない。深い傷には、むしろ、人を殺す。皮膚を塞ぐことで、内出血に蓋をして、殺す。
そして、誰も、それに気づいていない。
傷が塞がったことに満足して、その下で人が死んでいくのを運が悪かった、で片付けている。薬が効かなかったのではない。薬が効きすぎたのだ。効きすぎて、間違った場所に効いたのだ。
浅い傷なら、奇跡だ。垂らせば治る。誰も文句を言わない。だから、誰も、疑わない。
万能に見えるものほど、その限界は、見えにくい。効きすぎる薬が、深い傷では、蓋になって、人を殺す。塞がった傷を見て、皆が満足する。その下で、人が閉じていくのを運のせいにして。この世界の医療が貧しい理由の、一つが、そこにあった。
だが、それを説明できる者が、この世界に一人もいない。
血管がどこを走るかを知らず、層の構造を知らず、外と内の順序を知らない。だから、薬が外から効くという、たったそれだけの事実に誰一人、たどり着けない。
また、運だ。
腹の底で、あの火が、燃え上がった。
ふざけるな。
父は、それに気づいていない。
「ほら、塞がった。もう大丈夫だ。金は------」
「とうさま」
俺は、言った。加減も、芝居も、その一瞬、忘れかけた。
「まだ、だ。まだ、おわってない。なか、まだ、ちが------」
「なに言ってる。塞がっただろう。見ろ、傷はもうない」
父は、笑った。得意げに。傷が消えたことに満足しきって。
腹が膨れていくのをこの男は見ていない。見ていても、それが何を意味するか、知らない。
俺は、もう一度、口を開いた。
今度は、加減を半分、捨てた。
この男が、俺の目の前で、閉じようとしている。塞がったはずの傷の下で、蓋をされた血に殺されようとしている。
それを黙って見送ることは------できない。
順番でも、運でもない。今度は、知らないから、死ぬ。
「とうさま。この人、しぬよ」
土間が、凍りついた。




