第4話 加減
その日から、俺は少しずつ、手伝いの幅を広げられた。
父は、俺を使えると踏んだらしい。器具を並べさせ、布を用意させ、簡単な処置の手元を任せるようになった。膿を出す、浅い傷を洗う、包帯を巻く。子供にもできる、と父が判断した仕事だ。
任されるたび、俺は考える。
どこまでやって、どこで止めるか。速すぎず、正確すぎず、それでいて、目の前の患者を殺さない範囲で。
加減、というやつだ。
前の世界で、俺は加減など、一度も考えたことがなかった。速く、正確にそれが全てだった。一秒でも速く。一ミリでも正確に。それが患者のためであり、それ以外の速度は、怠慢だった。振り返らず、迷わず、最善だけを最速で。それが、救急の医者の手だった。
俺の手が遅れれば人が死ぬ。だから遅れない。理屈はそれだけで、そこに個人の都合の入る余地はなかった。眠くても、疲れていても、手だけは同じ速度で動くように仕込んだ。仕込むのに何年もかけた。
なのに今、俺は、わざと遅く動く訓練をしている。
糸を結ぶとき、本当は一秒で結べる。だが、三秒かけて結ぶ。指の動きをたどたどしく見せる。時々、わざと結び直す。子供が覚えたての手つきに見えるように。速さを殺す。正確さを隠す。
これが、思っていたよりも難しい。
正確に動くことは、身体に染みついている。染みついたものを意識して崩す。しかも、自然に崩れたように見せる。下手を演じるには、下手がどういう手つきをするかを正確に知っていなければならない。父の手つきを、俺は毎日、嫌というほど観察している。おかげで、下手の再現だけは、上手くなった。
皮肉なものだ、と自分でも思う。あれほど「遅い手は殺す」と憎んだ俺が、今は、自分の手を遅くすることに神経を使っている。
だが、これは必要な芝居だった。
この家で、俺は神童でなければならない。
稼ぎ頭であり、父にとって手放せぬ手でなければならない。そうでなければ、この身体は守られない。裏路地で、後ろ盾のない子供が、どう扱われるか------それは、前の世界を知らずとも、想像がつく。使い道のある子供は、飯を食える。使い道のない子供は、口減らしの対象になる。この家の算盤は、そういう算盤だ。
だが同時に、俺は化け物であってはならない。
五つの子供が、動脈の走行を知り、肺の病を見分け、大人が数年かけて覚える手技を一息でこなす。それが露見すれば、父は俺を「便利な手」ではなく「気味の悪いもの」として扱い始める。
あるいは、もっと悪い。売り物にする。見世物にする。銭になる異物として、どこかへ差し出す。
この世界、家の外の事をまだ俺は知らない。だが、この世界の人間が、説明のつかないものをどう扱うかは、想像がつく。前の世界でも、そうだった。理解できないものは、神か、悪魔かの、どちらかにされる。どちらにされても、俺の手は、俺のものでなくなる。
だから、加減が要る。神童と化け物の、その細い境目の上を、俺は歩き続けなければならない。
速く動けば、化け物。遅く動けば、ただの子供。正しく直せば、怪しまれる。間違えて直せば、人が死ぬ。
その細い一本の上を、俺は、毎日、歩く。前の世界では、速く正確にだけを考えていればよかった。ここでは、どこまで見せて、どこで止めるかを常に量り続ける。手より先に加減が、要る。
道は狭い。だが、歩けないほどではない。
「クレイ」
夜、片付けをしていると、母が声をかけてきた。
ネラが、俺に自分から話しかけるのは、珍しい。この母は、俺に必要なことしか言わない。あれを取れ、これを洗え、そこにいろ。命令の言葉ばかりで、会話の言葉は、めったに寄越さない。
「なに、かあさま」
「お前、その手つき、誰に習ったんだい」
母の目が、俺を見ていた。
あの気味の悪いものを見る色。だが、その奥にもう一つ、別のものがあった。怖れとも、期待とも、つかないもの。
「…とうさまの、みてた」
「あたしは、そんな手つき、あの人から見たことないよ」
俺は、黙った。
母は、馬鹿ではない。父よりも、ずっと目がいい。父は自分の手柄だと思い込みたがるが、母は違う。母は、見えたものを見えたままに数える。あの人はそういう手つきをしない、だからお前はあの人から習っていない。事実の積み方が、正しい。
だから、危うい。
この家で最初に俺の正体に気づくとすれば、それは父ではなく、この母だ。
「かあさま」
俺は、母の目をまっすぐ見返した。五つの子供の目で。
「クレイ、へんかな」
母は、少し、たじろいだ。
「…いや。変じゃ、ないよ」
母は、目を逸らした。
「ただ、あんまり、人前で、目立つんじゃないよ。この稼業は目立つと、ろくなことがない。わかるね?」
「うん」
わかっている。母のほうが、よくわかっている。
この母は、俺を気味悪がりながら、同時に守ろうとしている。目立つな、と。それは、俺のためであり、この家のためでもある言葉だった。この稼業で目立つということが何を意味するか、母はきっと、誰かの例を知っている。免状もなく人を診る家が、目をつけられたらどうなるか。
「かあさま」
「なんだい」
「めだつと、どうなるの」
母は、しばらく、答えなかった。それから、器具を布で拭きながら、短く言った。
「連れていかれるよ」
誰にとは言わなかった。どこへとも言わなかった。母がそれ以上言わなかったことのほうが、言ったことより重く聞こえた。
俺は、それきり、何も訊かなかった。
母も、それきり、何も言わなかった。
俺は、片付けを続けた。器具を正しい順に並べる。今度は、わざと一つ、順番を崩して置いた。それから、直した。子供が、間違えて、直したように。
母が見ているかどうかは、確かめなかった。見ていてもいい。見ていたなら、その方がいい。
加減だ。
こうして、俺の日々は過ぎていった。
手伝いは板についた。稼ぎ頭になりつつあった。父は俺を頼り、母は俺を見張り、患者は俺の一言に時々、救われた。裏路地の小さな家の中で、俺は、神童と化け物の境目を器用に歩いていた。
歩きながら、数えていた。
助かった者と、助からなかった者。俺の一言で目が出た者と、色水と運に投げられた者。数は、後者のほうが、ずっと多い。当たり前だ。俺は五つの子供で、口を出せる場面は限られていて、口を出しても届かない病のほうが、この世には多い。
腹の底の火は、その数だけ、太くなっていく。
だが、俺はまだ、何も知らなかった。
この世界に魔法があることを。傷を塞ぐ薬があり、祈りで人を癒す者がいることを。そして------それだけの力がありながら、なぜこの世界の医療が、これほどまでに貧しいのかを。
まだ、何一つ。
知ればいい。これから、全部。
俺は、そう思っていた。まだ、その知が、俺を待つものの大きさを知らないままに。




