第3話 色のついた水
賭場の男は、腕を縫って帰っていった。
縫ったのは父だ。針の運びは、やはり遅い。皮膚を刺す角度が浅く、糸を締める力が均一でない。あれでは治りが汚くなるし、下手をすれば化膿する。だが------血さえ止まっていれば、遅くても人は死なない。止血が先、それさえ間違えなければ、後はいくらでも取り返せる。前腕の傷は、動脈さえ押さえてしまえば、命に関わる仕事ではなくなる。
命の順番、というものがある。前の世界で、俺が身体に叩き込んだ順番だ。息の道、呼吸、血の巡り。その順で潰していく。それを外さない限り、人はそう簡単には死なない。逆にそこを外せば、どれだけ丁寧に傷を縫っても、人は、死ぬ。
父は、その順番を知らない。知らないまま、何百人と診てきた。生き残った者は父の腕のおかげだと思い、死んだ者は運が悪かったと言われた。
問題は、命に関わらない客のほうだった。
明くる日、昼過ぎに来たのは、痩せた女だった。子供を背負っていた。三つか、四つか。ぐったりして、頬が赤い。息が浅く、速い。抱き下ろされたとき、俺は土間の隅から、その子の胸の動きを見た。
熱だ。それも、高い。
「先生、この子、三日、熱が下がらなくて。うわ言も言って。お願いします、なんとか」
「見せてみろ」
ガルドは子供の額に手を当てた。当てて、頷いた。
診てなどいない。触っただけだ。熱がある。それは触れば誰でもわかる。母親だって知っている。だから来たのだ。問題は、何の熱か、だ。
俺は、子供の呼吸を数えた。
速い。速すぎる。三つの子供の平時の呼吸数を、俺は知っている。この子は、その倍近い。そして、息を吸うたびに小さな鼻の脇が、ひくりと動く。鼻翼呼吸。胸の下のほう、肋骨の間が、吸うたびにへこむ。陥没呼吸。
肺だ。肺に来ている。ただの風邪の熱ではない。
呼吸が苦しい子供は、身体の全部を使って息を吸おうとする。鼻の穴を広げ、胸を目一杯引き上げる。それが鼻翼呼吸であり、陥没呼吸だ。この子は、寝ながら、必死に息を吸う仕事をしている。三日も、それを続けている。三つの身体には、重すぎる労働だ。
「よくある熱の病だな」
ガルドは、したり顔で言った。
「これがよく効く。三日で下がる」
そう言って棚から出したのは、青みがかった小瓶だった。
中身を、俺は知っている。何度も見た。井戸の水に乾かした花びらを漬けて、色をつけただけの水だ。作るところをこの目で見た。母が、鍋で花びらを煮て、こして、瓶に詰めていた。薬効など、ない。何一つ。
「これを朝と晩に一口ずつ。三日で熱は下がる。銭は前金だ」
「はい、はい。ありがとうございます、先生」
女は、なけなしの銭を差し出した。皺だらけの、汗ばんだ銭だった。長いこと握りしめてきた銭だ。ここへ来るまでの道すがら、ずっと手の中で握っていたのだろう。父はそれを受け取り、色水を手渡した。女は、それを宝物のように両手で包んで、頭を何度も下げた。
俺は、その子供を見ていた。
この子は、その水では下がらない。肺に来た熱は、色水では引かない。三日待てば下がるどころか、三日で、もっと悪くなる。運が良ければ持ちこたえる。運が悪ければ、閉じる。
また、運だ。順番と、運だ。
腹の底で、火が、鳴った。
ふざけるな。
この子は、まだ助かる。今なら、まだ。
前の世界でなら、当たり前の症例だった。子供の肺炎。胸の音を聴いて、どちらの肺かを見極めて、呼吸が楽になる姿勢を取らせて、水を切らさないようにして、熱を無理に下げすぎず、身体が戦うのを助ける。薬があれば、なお良い。だが薬がなくとも、それだけで助かる子は、いくらでもいる。
三つの子供の命が、色水一本で、運任せの海に流されていく。俺の目の前で。手の届く距離で。
俺は、動いた。
「かあさん」
------女にそう呼びかけた。子供のことだ、母親と呼べば、耳を貸す。
「この子、あおむけ、だめ。おこして。せなか、たてて」
女が、俺を見た。父も、見た。
「クレイ?」
「あおむけだと、いき、くるしい。おこすと、らくになる。ほら」
俺は、ぐったりした子供の背中に丸めた布を当ててみせた。上体が、少し起きる。
それだけで、子供の呼吸が、わずかに深くなった。鼻翼の動きが、少し収まった。当たり前だ。仰向けに寝かせれば、腹の臓器が下から胸を押す。上体を起こせば、その分だけ、肺は広がれる。たったそれだけで、息をする仕事は、軽くなる。
女が、息を呑んだ。
「らく、そう......この子、さっきより、らくそう......」
「みず、すこしずつ。ねつ、あついとこ、ひやす。わきと、くび」
たどたどしく、続けた。子供の言葉に聞こえるように。ただ、母親を真似ただけに聞こえるように。
「そうすると、たすかる、かも」
かも、と付け足したのは、加減だ。言い切れば、化け物だ。
女は、俺の言った通りに子供を抱え直した。背を立てて、抱いた。子供の呼吸が、また少し、楽になった。
女の目から、涙が落ちた。
その涙が、色水の小瓶にではなく、俺の------五つの子供の言葉に向いていた。
「ありがとう、ぼうや。ありがとう」
父は、それを少し離れて見ていた。
自分の売った色水には見向きもされず、息子の言葉に女が泣いている。その光景をガルドがどう思ったのか、その時の俺には、まだ読めなかった。腹立たしく思ったのか。それとも、この子はもっと使えると、算盤を弾いたのか。
母は、また、あの目で俺を見ていた。
俺は、女の背の子供を見送りながら、思った。
色水では、助からない。だが、俺が横から一言添えれば、助かる目が出る。姿勢を変えろ、水を飲ませろ、それだけの言葉で、三つの子供が、一人、生き延びるかもしれない。
だが、それは「かもしれない」だ。
俺は聴診器を持たない。薬もない。この子の肺のどこがどうなっているかを確かめる手段がない。だから、確かなことは何も言えない。ただ、少しだけ楽にしてやって、後は運に投げるしかない。
前の世界で、俺が最も憎んだ、あの投げ方で。
聴診器がない。薬がない。この子の肺の、どこがどうなっているかを確かめる手段が、ない。だから、確かなことは、何も言えない。
少しだけ楽にして、後は、運に投げる。あの黒タグと、同じだ。手を伸ばせば届いたはずの命が、指の間を抜けていく。それを数えながら、拾えるものだけを拾う。
この家で、俺にできるのは、それだけだ。父の詐欺の隣で、たまたま拾えるだけの命を拾う。手を伸ばせば届いたはずの命が、指の間を抜けていくのを数えながら。
足りない。全然、足りない。
だが、今は、それしかない。




