第2話 戸を叩く者
戸が鳴った。
夜半だった。この家の客は、だいたい夜半に来る。まともな刻限にまともな戸を叩けない連中ばかりだからだ。日の高いうちに堂々と医者にかかれる人間は、この裏路地には住んでいない。住んでいたとしても、この家の戸は叩かない。もっと上等な、免状を持った医者のところへ行く。
「ネラ、灯りを。クレイ、そこどけ」
父が、寝ぼけ眼を擦りながら奥から出てくる。ガルド、というのが父の名だ。裏路地では、それなりに知られた名らしい。腕が良いからではない。夜中でも戸を開ける医者、まともな医者に断られた傷でも診る医者、そういう意味で知られている。
俺は言われた通り、土間の隅へ寄った。寄りながら、戸を開けるより先に外の気配を測る。荒い息。二人分。引きずる足音。片方は自力で歩けていない。そして------匂い。
血の匂いだ。鉄錆に近い、それなりの量。
俺はその匂いの濃さで、おおよその出血量を測る癖がついている。前の世界で、救急の受け入れ口に立っていた頃からの癖だ。搬送口の扉が開いた瞬間、まだ患者の顔も見えないうちに匂いと呼吸音だけで、どの程度の急ぎかを見積もる。あの癖が、この身体にもそのまま残っていた。頭は、前のままだ。
多い、と思った。少なくとも、擦り傷や切り傷ではない。
「開けるぞ」
父が閂を外す。転がり込んできたのは、若い男だった。左の前腕を右手で押さえている。指の間から、黒い筋が垂れていた。垂れて、土間の踏み固められた土に点々と落ちていく。
「せ、先生、頼む、これ......」
「落ち着け。まず見せろ。ネラ、湯」
父の手が、男の腕を取る。悪くない手つきだ、と俺は思う。度胸はある。患者を怯えさせない声の作り方も心得ている。乱暴に見えて、掴む位置は痛がらせない場所を選んでいる。それは経験の産物だ。この男は、無知だが、無能ではない。数だけは、こなしている。
ただ------遅い。
押さえて、覗き込んで、傷の位置を確かめるだけで、もう時間を食っている。灯りを近づけろと母に言い、布を持ってこいと言い、そのやり取りの間にまた数秒が流れる。その一秒ごとに垂れる黒が増える。
俺は、土間の隅から、傷を見た。
前腕の掌側。深い。皮膚だけの傷ではない。血の出方が、脈に合わせて、わずかに強弱している。垂れるのではなく、押し出されている。静脈ではない。動脈だ。位置からして、尺骨動脈の走行にかかっている。
父はまだ、そこに何が走っているかを知らない。知らないまま、傷そのものを見ている。傷を見るな、と俺は思う。血の出方を見ろ。どこから、どう出ているか。それが全部を教える。
「刃物でやられたか。喧嘩だな」
「賭場で、揉めて......」
「銭は」
「あ、ある。ちゃんと、払う」
「なら診る。黙って手を出してろ」
ガルドは布で傷口を押さえた。押さえる場所が、少しずれている。動脈の上ではなく、その脇を押している。だから止まらない。血は、布の下から、じわじわと湧き続ける。父はそれを見て、押さえる力を強める。強めても止まらない。当然だ。押す場所が違うのだから、いくら力を込めても、血の通り道は塞がらない。
俺は、土間の隅で、指を握った。
ここだ、と言いたかった。あと指一本ぶん、上流。手首のこの窪みをこの角度で、この強さで押さえれば、それだけで血は止まる。切れているのが動脈なら、末梢からいくら押さえても無駄だ。心臓から来る流れを切れた場所より手前で止めろ。上流を押さえろ。
たったそれだけのことだ。前の世界なら、一年目の医学生でも知っている。そして研修医が最初に叩き込まれる基本の基本だ。血は上から下へ流れる。だから止めるなら上、それだけの理屈で、この男の命は繋がる。
研修医、最初に叩き込まれる基本の基本。だが、この世界の誰も、それを知らない。傷そのものを押さえる。血の通り道ではなく。
知らない、というだけで、腕一本の傷で、人が死ぬ。順番でも、運でもなく。ただ、知らないから。前の世界で憎んだ死に方より、こちらのほうが、救いがない。直せるものが、直されずに閉じる。
だが、五つの子供がそれを言えるはずがない。言えば、化け物だ。
「先生、まだ、止まらねえのか」
「うるさい! 今やってる。ネラ、もっと布を」
父の額に汗が浮いていた。焦りが、手つきをさらに遅くする。悪循環だ。焦れば手元が乱れ、乱れれば時間が延び、時間が延びれば血が減り、血が減れば患者が暴れる。暴れれば、また手元が乱れる。
俺はそれを黙って見ている。見ていることしか、できない。
腹の底で、あの火が、低く鳴った。
ふざけるな、とは思わなかった。父の無知は、もう見慣れた。見慣れてしまった自分が嫌になるほど、見慣れた。怒りより先に手が疼いた。押さえたい。俺の手なら、三秒で止められる。位置を探すのに一秒、当てるのに一秒、押し込むのに一秒。三秒だ。
それをこの身体の小ささが、この立場が、許さない。
男の顔色が、少しずつ落ちていく。汗が浮き、唇の色が薄くなる。前腕一本の傷で人は死なない、と素人は思う。だが動脈が切れていれば、腕からでも人は死ぬ。時間さえかければ、身体の血は、腕からでも全部出ていく。
時間だ。また、時間だ。
俺は、一歩、前に出た。
「とうさま」
「なんだ、引っ込んでろ」
「そこ、ちがう。もっと、うえ」
言ってしまってから、加減を思い出した。子供の言葉に聞こえるように。ただの思いつきに聞こえるように。俺は、たどたどしく、指を自分の手首に当てて見せた。
「ここ、おさえると、とまる。まえ、とうさまが、そうしてた」
嘘だ。父はそんなことをしたことがない。だが、そう言えば、父は「自分が前にやったこと」だと思い込む。人は、自分の手柄なら、疑わない。子供が覚えていたことにすれば、俺は賢い子供で済む。父が思い出したことにすれば、父は名医のままでいられる。両方が立つ嘘だ。
ガルドは、一瞬、俺を見た。
その目に苛立ちがあった。子供が口を出したことへの苛立ちだ。だが同時に藁を掴みたい焦りもあった。止まらない血を前にして、この男には、もう手札がない。
それから、半信半疑で、俺が指した場所に親指を当てた。当てて------強く、押した。
血が、止まった。
布の下の、じわじわとした湧きが、ふつりと消えた。
土間が、静かになった。
父は、自分の親指と、止まった血を交互に見た。何が起きたのか、理解できていない顔だった。押さえる場所を変えただけ。それだけで、あれほど止まらなかったものが、止まった。その理屈をこの男は知らない。知らないまま、結果だけを見ている。
母が、俺のほうを見た。その目にあの器具の順番を並べ替えたときと同じ色が浮かんでいた。気味の悪いものを見る、あの色が。
「…ああ。そうだ。ここだ。前にもこうした」
父は、そう言って頷いた。自分を納得させるように。
「クレイ、よく覚えてたな」
そして、父は笑った。
「筋がいいな」
若い男が、涙ぐんで礼を言っていた。助かった、と繰り返していた。この男は、あと少し血が減れば、意識が落ちて、そのまま戻らなかった。それをこの男自身は知らない。父も知らない。ただ、止まった、という結果だけが、この土間にある。
俺は、俯いて、笑い返さなかった。
筋があるんじゃない。
俺が、既に知っているだけだ。




