↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/50

第1話 黒を切る


黒を切る。

三番目のストレッチャー。二十代後半、男。腹部の刺創、出血性ショック、意識レベルは呼びかけに辛うじて瞼が動く程度。開ければ助かる。開いて、詰めて、繋いで、二時間あれば助かる。

二時間が、ない。

俺はタグの角を折る。黒。指先は震えない。震える理由がない。これは判断だ。感情ではない。腹の刺創が助かる見込みと、隣で気道を潰しかけている女の助かる見込みとを秤にかけて、軽い方を落とす。それだけの、算術だ。


「先生、こっちの搬送…」


「後だ。赤が二人溜まってる。緑は自分で歩かせろ、壁際に寄せて座らせておけ。動けるやつには他人を押さえる仕事をさせろ」


言いながら次へ移る。移りながら、腹の男のことはもう頭から消す。消せる。消せるように訓練した。振り返らないことを何百回も反復して身体に刻んだ。

手は前だけを見て、動く。だが、腹の底だけは、後ろを覚えている。見送った一人ずつを。名前も、顔も、知らないまま。

訓練で消せるのは、手の動きだけだ。火は、消せない。訓練すればするほど、手は冷たく正確になり、その分だけ、腹の底の火は行き場を失って、濃くなる。振り返った瞬間に赤が黒になる。俺が振り返る一秒で、まだ切れる誰かのタグの色が変わる。だから振り返らない。

------ただ。

消したはずの頭の底で、何かが、低く、燃えている。


ふざけるな。


それは悲しみではなかった。俺はこの男を悲しんでいない。会ったこともない。名前も知らない。悲しむには情報が足りなさすぎる。罪悪感でもない。俺の判断は正しい。医学的に、統計的に、この状況下で下しうる最善だ。誰に問われても同じ判断を同じ速度で下す。訂正する箇所が一つもない。


なのに、燃えている。


俺の手はこの男を開けられる。技術がある。開けて助ける腕が、この右手にある。体力もある。三十時間起きていても指は正確に動く。道具もある。血液もある。あと一つ、時間さえあれば------あるいは、俺があと一人いれば。この俺が、もう一人、この場にいてくれさえすれば。

そのたった一つが、ない。


ふざけるな。


俺の腕でも技術でも体力でもない、俺の外側にある何かが、この男を殺す。順番が。運が。数が。俺には一切手が届かない何かが、俺の目の前で、まだ生きている男に黒を割り振る。俺の完璧な判断ごと、そいつが嗤っている気がする。お前がどれだけ優秀でも、と。


ふざけるな。


ふざけるな。


赤のタグを切る。緑を壁際へ。また黒。

手は動き続ける。正確に。冷たく。一秒も無駄にせず。腹の底で同じ言葉だけが繰り返される。ふざけるな。それは誰に向けた言葉でもない。強いて言えば、この世界の仕組みそのものへ。まだ切れる手があるのに切らせてもらえない。まだ生きている命があるのに数が足りないというだけで見送らされる。ふざけるな。

腹の底の火は、消えない。むしろ一人見送るたびに太く、静かに育っていく。俺はそれを消さない。消せないし、消したくもない。これだけは、振り返らずに抱えたまま運ぶ。


------次。



次に瞼を開けたとき、俺は、知らない天井を見ていた。

そこは、闇医者の家だった。

知らない天井は、木の梁が剥き出しの煤けた低い屋根裏だった。俺は泣くことしかできない肉の塊として、そこに生まれ落ちていた。手も、足も、意志の通りに動かない。首すら据わらない。前世で三十時間立ち続けた両脚も、血管を選り分けた指も、今は何一つ言うことを聞かない。ただ、目だけが見えた。耳だけが聞こえた。頭だけが、前のまま、そこにあった。

だから俺は、見ていた。

父は、医者だった。正確に言えば、医者を名乗る何か、だった。免状も、修業の裏付けも、何もない。あるのは度胸と、口の上手さと、そこそこに器用な手先だけ。裏路地の、まともな医者にかかれない連中が、藁にもすがる思いで戸を叩く。父はそいつらから銭を取り、傷を縫い、薬を売る。売る薬の半分は、ただの色つきの水だ。

母は、看護師のようなものだった。血を拭き、器具を並べ、父の嘘に調子を合わせる。二人は俺を可愛がりはしなかったが、捨てもしなかった。手が増えれば儲かる。医者の真似事ができる子供が二人いれば、二倍稼げる。そういう算盤の上に、俺の命はのっていた。構わない。理由が銭でも、生かされているなら文句はない。俺は、生きるために泣いた。

クレイ、と名づけられた。土くれのクレイだ。大層な名ではない。裏路地に生まれた子に大層な名などつかない。前の名を、俺はもう口に出さない。九条迅は、あの災害現場で、黒タグの海に置いてきた。今の俺は、クレイだ。それでいい。

そして、見続けた。

見ているうちにわかってきた。父の手つきの、何もかもが、遅い。

刃物を入れる速さが遅い。皮膚のどこをどの深さで切れば、下の何を避けられるか------そんなことを父は何一つ知らない。血管がどこを走っているか知らない。筋がどの層で重なっているか知らない。だから、恐る恐る、浅く、何度も刃を往復させる。傷が増える。血が増える。時間が延びる。その一秒ごとに寝台の上の人間の色が悪くなっていくのを父は読めない。

児戯だ、と思った。

赤子の頭で、俺はそう思った。全部が児戯だった。メスもどきの鈍い刃物の、遅い動き。人体への、血管への、層構造への、その欠片もない理解。理解がないから、遅い。遅いから、殺す。腕が悪いから、殺す。

腹の底で、あの火が、また低く燃えた。


ふざけるな。


前世で、俺は順番と運に負けた。俺の腕の外側にある何かにまだ切れる命を奪われた。なのにここでは、腕の内側で人が死んでいく。技術さえあれば、知識さえあれば、絶対に殺さずに済んだ命が、無知一つで閉じられていく。順番でも運でもない。


ただ、下手だから。

ただ、知らないから。


そっちのほうが、まだ、救いがない。

だから俺は、決めた。動けるようになったら、この手を取り戻す。前の生で持っていた全部をこの小さな身体にもう一度刻み込む。

歩けるようになるより先に、俺は器具の名を覚えた。喋れるようになるより先に父の手元を盗み見て、どこが間違っているかを頭の中で全部添削していた。三つになる頃には、母が並べる器具の順番を正しい順に並べ替えて見せた。母は気味悪がった。父は、面白がった。


「筋がいい」

と父は言った。


何も、わかっていない。俺に筋があるんじゃない。俺が、既に知っているだけだ。

四つで、糸結びを覚えた------ふりをした。前世で目を瞑ってでも結べた結紮をわざと拙く、子供が覚える速度に見せかけて、少しずつ「上達」してみせた。速すぎれば怪しまれる。この家で、俺は神童でなければならないが、化け物であってはならない。加減が要った。生まれて初めて、俺は自分の手をわざと遅く動かす訓練をした。皮肉な話だ。前世では、一秒でも速くと、あれほど。

五つで、初めて刃を持たされた。

膿の溜まった腫れ物を切る、それだけの、簡単な仕事だった。父は、子供に度胸をつけさせるつもりだったのだろう。患者は貧しい老人で、失敗しても文句の出ない相手を選んだ。母が、心配そうに俺の手元を覗き込んだ。

俺は、切った。

一息で。迷わず、正確な深さで、正確な長さだけ。膿が出た。血は、ほとんど出なかった。避けるべきものを全部避けたからだ。

寝台の周りが、静かになった。

父の顔から、面白がる色が消えていた。母は、口を押さえていた。老人だけが、痛みが引いたことに気づいて、間の抜けた声で礼を言った。

俺は、自分の手を見た。小さな、五つの子供の手。まだ、前の手には遠い。指が短い。力が足りない。それでも------動く。俺の言う通りに動く。

戻ってきた。

腹の底の火が、その時、少しだけ、形を変えた気がした。怒りは、消えていない。消えるはずがない。ただ、その隣に初めて、別のものが灯った。ここでなら。この手でなら。あの日、順番と運に奪われたものを今度こそ------

まだ、早い。俺はその考えをいったん伏せた。俺はまだ五つで、ここは裏路地の、色水を売る詐欺師の家だ。世界のことは、何も知らない。魔法のことも、聖女のことも、この世界でなぜまともな医療が育たなかったのかも、まだ、何一つ。

知ればいい。これから、全部。

俺は、手伝いを始めた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。