第43話 灰色の客
その男が来たのは、秋の初めだった。
昼過ぎ、患者が途切れた時間帯だ。
戸が開いて、灰色の衣が入ってきた。
俺は、手を止めた。
教会の色だ。だが、リィシャの着ている雑務用のものとは、質が違う。生地が厚く、縫いが整っている。裾に細い銀の線が入っていた。
年は、四十がらみ。痩せていて、背が高い。顔立ちは整っているが、印象に残らない。そういう顔をしていた。
「こんにちは」
男は、そう言った。
丁寧な、感じのいい声だった。
「ここが、噂の診療所ですか」
「何の噂だ」
「腕のいい若い医者がいる、と」
男は、部屋を見回した。
板張りの床。樋で引いた水。処置台。七つの灯りを収める枠。棚に並んだ器具。
その視線が、一つずつ、正確に止まった。
見ている、と俺は思った。だが少し違う。
この男は、見物しているのではない。検分している。
「立派なものですね」
「そうか」
「特にこの床。板張りですか」
「そうだ」
「珍しい。この辺りの家は、たいてい土間ですが」
「洗えるからだ」
「洗える」
男は、その言葉を繰り返した。
「なるほど。血が染みない」
俺は、答えなかった。
この男は、俺が説明していないことを既に理解している。
「申し遅れました」
男は、そう言って、軽く頭を下げた。
「ヴェインと申します。大聖堂の、務めをしております」
「位、は」
「大したものではありません。人と物の差配をしております」
------人と物の差配。
それは、この組織の実務を握っているという意味だ。
祈りではなく、人事と物流。誰をどこに配し、何をどこへ流すか。
「何の用だ」
「ご挨拶に」
ヴェインは、そう言った。
「街の医療に携わる方には、なるべくご挨拶に伺うようにしております。教会だけでは、手が足りませんので」
俺は、その言葉を頭の中で反芻した。
教会だけでは、手が足りない。
リィシャが言った通りだ。この組織は、自分たちの限界を正確に理解している。
そして、その限界を埋める外部を把握しようとしている。
「あんた、そのために一人ずつ、回っているのか」
「ええ」
「何人、いる」
「この街に外で医療に携わる方は、私の把握している限りで、二十七人おります」
即答だった。
俺は、その数字を覚えた。
二十七人。
そのうち何人が、まともに人を治せるのかは、わからない。父のような男も、この数に入っているだろう。
「あなたで、二十八人目です」
ヴェインは、そう言って、微笑んだ。
「まだ、数えられてなかったのか」
「ええ。あなたは、少々、把握が遅れました」
「なんでだ」
「下におられたので」
------下におられたので。
そういうことか、と俺は思った。
下水口の医療者は、数えていない。数える価値がないからだ。
中層に出てきて初めて、この男の帳面に載った。
「今、数えられたのか」
「そうなりますね」
「何を数えている」
「名前と、場所と、扱う症例と、評判です」
ヴェインは、そう言った。
「それだけです」
それだけであるはずがない、と俺は思った。
だが、この男は、嘘を言っていない。たぶん、本当にそれだけを書いている。
問題は、その帳面が、いつ、どう使われるかだ。
「ひとつ、訊いていいか」
「どうぞ」
「あんたらは、何で外の医者を放っておく」
ヴェインの表情が、わずかに動いた。
面白がる色が、そこにあった。
「おかしいですか」
「おかしい。あんたらは、癒しを握っている。握っているのなら、他の医者は邪魔なはずだ」
「なるほど」
ヴェインは、頷いた。
「では、逆にお尋ねします。この街で、一日に何人が怪我をし、病むと思われますか」
俺は、答えなかった。
正確な数は、知らない。
「私どもの施療院で、一日に診られるのは、およそ百二十人です」
ヴェインは、静かに言った。
「聖女様の祈りに至っては、一日に十人がやっとです」
「それで」
「街には、四万人おります」
俺は、その数字を頭の中に置いた。
四万人。一日に施療院で百二十人。
比率を計算するまでもなかった。
「足りないな」
「そうです。まったく、足りません」
ヴェインは、そう言った。
「私どもは、それを知っております。知っておりますから、外の方々を邪魔しません。邪魔をすれば、死ぬ者が増えるだけです」
「じゃあ、あんたらは、助けたいのか」
「助けたいのですよ」
ヴェインは、そう答えた。
即答だった。そして、その声に嘘の匂いがなかった。
俺は、その男を見た。
------本気で言っている。
助けたい、という言葉に嘘がない。それが、この男の、いちばん、厄介なところだ。
悪人なら、戦える。だが、この男は本気で、四万人をどう救うかを数えている。その上で、リィシャを外し、書庫に罠を張った。善意と、非情が、同じ一人の中で、矛盾なく、動いている。俺が、いちばん、勝ちにくい相手だった。
たぶん、この男は、本当に助けたいと思っている。
そして、本当に助けたいと思いながら、リィシャの外仕事を止め、書庫に罠を仕掛け、エルミナを使った。
両立している。
この男の中では、それが矛盾していない。
「じゃあ、なんで」
俺は、口を開きかけた。
なんで、リィシャを止めた。
そう訊きかけて、飲み込んだ。
訊けば、こちらが何を知っているかを明かすことになる。
「なんでも、ない」
「そうですか」
ヴェインは、そう言って、戸のほうへ歩いた。
そして、戸を開ける手前で、振り返った。
「一つだけ、申し上げても」
「なんだ」
「腹の中を開けるのは、おやめになったほうがよろしい」
俺の背が、冷えた。
「何の話だ」
「解剖、と申しますか」
ヴェインは、その言葉を静かに口にした。
「あれは、教義に触れます。私どもの領分ではなく、審問の領分になります。私は人と物の差配をしているだけですので、そちらには口を出せません」
彼は、微笑んだ。
「口を出せないというのは、庇うこともできない、という意味です」
そして、頭を下げた。
「では、失礼いたします。良い仕事をなさっている。続けてください」
戸が、閉まった。
俺は、しばらく、動かなかった。
いや、動けなかった。




