第44話 把握される
「ヴェイン様が」
その夜、リィシャは、俺の話を聞いて、顔を白くした。
「ここに来たのですか」
「北」
「何を」
「挨拶、だとよ」
俺は、その時のやり取りを順に話した。
二十七人の医療者。四万人の街。一日百二十人の施療院。十人の聖女。
そして、最後の一言。
リィシャは、床に座り込んだ。
「…知られています」
「そうだな」
「あの方が、あなたの名前を書いたのなら、もう、上まで届いています」
「あの男は、なんなんだ」
俺は、そう訊いた。
「あんたの知っていることを全部、話してくれ」
リィシャは、しばらく黙ってから、話し始めた。
ヴェインは、聖職者ではあるが、祈りの人間ではない。癒しの才は、ほとんどない。
彼の仕事は、大聖堂と施療院の運営そのものだ。薬の在庫、人員の配置、寄進の管理、外部との折衝。
そして
------候補の選抜と、記録の管理。
「あの方が、候補を外す判断もします」
俺は、顔を上げた。
「じゃあ、あんたを外したのも」
「…はい」
リィシャは、そう言った。
「私を外したのは、ヴェイン様です」
俺は、その情報を頭の奥に置いた。
「どんなふうに言われた」
「丁寧に」
彼女は、そう答えた。
「一つも、責められませんでした。ただ、『あなたには、別の役目が向いています』と」
「それだけか」
「それだけです」
「怒られたほうが、ましだったか」
リィシャは、少し黙ってから、頷いた。
「…はい」
俺は、その男の像を組み立て直した。
責めない。罰しない。丁寧に扱う。そして、確実に外す。
書庫の綴りを並べ替えたのも、外仕事を止めたのも、たぶん、同じ手つきだ。
「リィシャ」
「はい」
「あの男は、あんたが、ここに来てることを知っていると思うか」
彼女は、答えなかった。
答えられなかったのだろう。
「…たぶん、知っています」
「なんで、止めない」
「わかりません」
俺は、そこを考えた。
止めない理由。
一つ。まだ確証がない。だが、この男は確証がなくても動く。書庫の罠が、その証拠だ。
二つ。止める必要がない。リィシャがここに来ることが、教会にとって不利益でないなら、放っておく。
三つ------
「…使ってる、のかもな」
「使う?」
「あんたをここに来させてておく。そうすれば、俺が、何をしてるか、ずっとわかる」
リィシャの顔が、凍った。
「私が、あなたを教会に」
「いや」
俺は、遮った。
「あんたが話してるとは、思ってない」
「では」
「話さなくても、わかる」
俺は、そう言った。
「あんたが、いつ、どのくらい、ここにいるか。それだけで、俺が、どのくらいの仕事をしてるかが、わかる。あんたが疲れて帰ってきたら、大きい仕事があった、ってことだ」
リィシャは、両手で顔を覆った。
「…私は」
「あんたのせいじゃない」
「観る側が、上手い。それだけだ」
その夜、俺は、眠らなかった。
考えることが、多すぎた。
ヴェインという男は、俺を潰しに来たのではない。
数えに来たのだ。
潰しに来た相手なら、身構えればいい。だが、数えに来た相手には、身構えようがない。この男は、俺を敵とも味方とも、決めていない。ただ、帳面の、一行にした。
有用なうちは、放っておく。有用でなくなれば、消す。その判断をこの男は、感情ではなく、数で下す。俺が、患者を数えるのと、同じ手つきで。
名前と、場所と、扱う症例と、評判。それを書いて、帰った。
そして、最後に一言だけ、警告を残した。
腹を開けるのはやめておけ。あれは審問の領分だ。私は庇えない。
------親切な警告か。
それとも、逃げ道を塞ぐ布石か。
たぶん、両方だ。
この男は、本気で助けたいと思っている。同時に組織を保つことを最優先している。その二つが、この男の中では矛盾しない。
だから、こう考えているはずだ。
クレイという医者は、有用である。
四万人の街で、施療院は一日百二十人しか診られない。外の医療者が二十八人いて、その中で腕がいいのは、たぶん数人だ。
そういう男を潰す理由はない。
だが、腹を開ける医者は、有用ではない。
有用どころか、危険だ。教義の根幹に触れるからだ。人体は神からの預かりもので、切り開くことは冒涜である。
その一点だけは、この柔軟な組織が、絶対に譲らない。
------だから、あの警告か。
腹を開けるのをやめれば、俺は「有用な外部の医療者」として、この街で生きられる。
やめなければ、審問の領分に入る。
選ばせに来たのだ。
俺は、暗い診療所で、板張りの床を見ていた。
洗える床。
腹を開けるためだけに、俺はこれを張った。
やめる、という選択肢は、俺の中に一瞬も浮かばなかった。
浮かばなかったが、それが正しいのかどうかは、別の話だ。
もし俺が腹を開けるのをやめれば------俺は、この街で、たくさんの人間を診られる。教会に守られ、堂々と看板を出し、弟子を取ることすらできるかもしれない。
腹の中で人が死ぬのは、一年に何人だ。
俺の記録では、この二年で、腹を開けて助けた人間は、四人だ。
四人。
やめれば、その四人は死ぬ。
だが、やめなければ、俺自身が消される可能性がある。消されれば、俺が今後助けるはずだった全員が、助からない。
------数だ。
また、数の話になる。
俺は、その計算を頭の中で始めた。
始めて、すぐにやめた。
計算しても、答えが出ないからだ。
俺が今後何人助けるかは、俺が何年生きるかによる。何年生きるかは、俺にはわからない。
わからない数を天秤に載せることはできない。
------なら、目の前だ。
俺は、そう決めた。
目の前に開けなければ死ぬ患者が来たら、開ける。
その積み重ねで死ぬなら、それは俺の生き方の結果だ。
それだけのことだった。




