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第42話 払える患者


中層の患者は質問をする。

これが、下水口との一番の違いだった。


「先生、これは何という病ですか」

「なんで、切らないといけないんですか」

「切ったあと、どうなるんですか」


下水口では、こういう問いは来なかった。彼らは黙って腕を出す。治れば礼を言い、治らなければ諦める。説明を求めない。求めても意味がないと知っているからだ。

中層は、違う。

彼らは、選べる立場にいる。施療院に並ぶことも、他の医者にかかることも、何もしないこともできる。選べるから、訊く。

俺は、最初、それを面倒だと思った。

説明する時間があれば、もう一人診られる。

だが、三月ほどで、考えを改めた。

説明した患者は、指示を守る。

三日後に来いと言えば来る。触るなと言えば触らない。この薬を朝と晩に飲めと言えば、飲む。

説明しなかった患者は、守らない。


------説明は、処置の一部だ。


前の世界では、当たり前のことだった。俺は救急にいたから、説明する時間などなかった。意識のない患者に説明はできない。だから、その筋肉が育っていなかった。

ここで、育て直すことになった。


「先生、この傷、縫わなくていいんですか」

「縫わない」

「でも、開いてます」

「この傷は浅いから。縫うと、中にばいきんが、入る」

「ばいきん」

「悪いものだ。目に見えない」

「見えないものが、あるんですか」


俺は、そこで一度、詰まった。

見えないものがある、と言い切っていいのか。

この世界の誰も、それを見たことがない。俺も、この世界では見ていない。前の世界には、それを見る道具があった。ここには、ない。

俺が持っているのは、そう仮定すると全部の説明がつくという事実だけだ。

汚れた傷は膿む。洗えば膿みにくい。手を洗ってから触れば、後の熱が減る。日が経った傷ほど危ない。

全部、「目に見えない何かが傷から入って増える」と考えれば、綺麗に説明がつく。

だが、証明はできない。


「…あるとおもってる」


俺は、そう言い直した。


「見たことは、ない。でも、あると思うと、全てに説明がつく」


患者は、怪訝な顔をした。


「先生でも、わからないことがあるんですか」

「あるさ。たくさんある」


俺は、そう答えた。

その日の夜、リィシャがそれを聞いて、驚いた顔をした。


「あんなことを患者に言うのですか」

「何を」

「わからない、と」

「わからないからな」

「教会では、言いません」


彼女は、そう言った。


「わからないと言えば、信じてもらえなくなります」

「そうかもな」

「では、なぜ」


俺は、しばらく考えてから、答えた。


「嘘を一度つくと、全部、噓になるからだ」


リィシャが、俺を見た。

「俺がわからないことをわかってるふりをする。そのうち、それがばれる。ばれたら、俺が、本当にわかってることまで、疑われる」

「......」

「だから、分けておく。わかってることと、わかってないことを」


俺は、帳面を叩いた。


「これは、そのためのものだ」


リィシャは、しばらく黙っていた。

それから、こう言った。


「教会は、逆です」

「逆?」

「わからないことをわからないと言いません。『神の御心です』と言います」

「それ、便利だな」

「便利です」


彼女は、そう言った。


「何にでも使えます。だから、何も答えていません」


払える患者が来るようになって、変わったことが、もう一つあった。

俺は、断るようになった。


「先生、この腫れ物、切ってください」

「これは、切らなくていい。放っておけば、ひく」

「でも、痛くて」

「痛いのは、あと三日でひく。切ったほうが早いけど、痕が残る。どっちがいい」


こういうやり取りが、増えた。

下水口では、こんな会話はしなかった。下水口の患者は、切らなくていいものを切ってくれとは言わない。銭がないからだ。銭がなければ、我慢する。

中層は、払える。払えるから、要らない処置まで求める。

そして、要らない処置は、害になる。

切れば傷ができる。傷ができれば、膿む可能性が出る。膿めば、死ぬ可能性が出る。


------治療は、必ず害を伴う。


前の世界で、俺が叩き込まれたことだ。害を上回る益があるときにだけ、やる。それだけが、治療をする理由になる。

この世界には、その考えがない。

医者は治す者であり、治すのが仕事であり、何かをすることが仕事だと思われている。

だから、父は、何でもやった。腹も診た。診て、殺した。


俺は、断る。


断ることが、この世界では、たぶん、最も新しい。

この世界の医者は、何かをすることで、食っている。切れば銭になる。薬を出せば銭になる。何もしなければ、銭にならない。だから、要らない処置まで、やる。

俺は、逆をやる。要らないなら、やらない、と言う。銭は、減る。だが、要らない傷で、人を殺さずに済む。断る、というのは、この世界では、医術ではなく、勇気の問題だった。


「クレイ」

「なんだ」

「今日、三人断りましたね」

「ああ」

「それで、いいのですか」


俺は、リィシャを見た。


「なにが」

「断れば、銭が入りません」

「入らないな」

「…そのうち、噂になります。あの医者は、診てくれない、と」


俺は、その指摘に少し考えた。


「なるかもな」

「困りませんか」

「困る」


俺は、そう言った。


「でも、要らないことをして、死なせるほうが、困る」


リィシャは、俺を見ていた。

そして、少し笑った。


「あなたは、本当に変わっていますね」

「そうか」

「教会の外の医者は、たいてい、逆です」

「しってる」


俺は、そう言った。

三十年、それで食ってきた男を、俺は知っている。



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