第41話 場所を持つ
診療所を借りたのは、十六の夏だった。
中層の、職人街の外れ。二階建ての一階部分で、元は乾物屋だったという。前の店主が死んで、半年空いていた。
「なんで、こんなに安い」
「人が死んだ家だからな」
家主は、そう言った。軽い声だった。
「気にするか」
「しない」
俺は、即答した。
人が死んだ場所を気にしていたら、医者はどこにも住めない。それにこの家で死んだのは老衰だと聞いた。感染性の病で死んだのなら、話は別だったろう。壁も床も焼くところから始めなければならない。
契約は、その日のうちに済んだ。
銭は、あった。
この一年で、俺とリィシャの稼ぎは、俺一人の頃の四倍になっていた。理由は単純だ。二人でやれる処置は、一人でやれる処置より難しく、難しい処置は、値が高い。
そして、中層の患者は、払える。
宿の物置を出るとき、宿の主人が、少し寂しそうな顔をした。
「もう、うちの連中は診てくれねえのか」
「診るさ」
俺は、そう言った。
「診るけど、ここじゃない。新しいとこに来てくれ」
「中層まで、うちの連中が行けるかよ」
俺は、そこで言葉に詰まった。
下水口の人間が、中層まで来る。歩けば半刻だ。歩ける者なら、来られる。
だが、歩けない者は、来られない。
そして、医者が要るのは、たいてい、歩けない者だ。
「…二本目の、脚を作る」
「なんだそりゃ」
「ここにも、たまにくる。仕事のない日に」
主人は、鼻を鳴らした。
「無理すんな。あんた、まだガキだ」
「十六だ」
「ガキだ」
俺は、それ以上、言い返さなかった。
診療所の中を作るのに半月かかった。
まず、床を張り替えた。土間ではなく、板張りにした。板は洗える。土は洗えない。血を吸った土は、そのまま残る。
次に水を引いた。井戸は裏にあった。それを桶ではなく樋で引き込んだ。手を洗うたびに井戸まで行っていては、洗う回数が減る。減れば、洗わなくなる。
------洗う手間を減らせば、洗う回数が増える。
前の世界で、俺はそれを何度も見た。手指消毒の設備が遠い病棟は、消毒率が下がる。近づけるだけで、上がる。人の意志は、そんなに強くない。
仕組みで、人の弱さを先回りする。それが、俺の、一番覚えた設計だ。清潔さを心がけ、に頼ると、忙しい日に崩れる。
心がけを要らなくすれば、崩れない。板を張り、水を近づけ、台の高さを合わせる。全部、意志を当てにしないための造りだった。
だから、意志に頼らない形にする。
処置台は、鍛冶の男に脚を打たせ、板を張った。高さは、俺が立ったまま処置できる高さに合わせた。この世界の処置は、たいてい床か寝台の上でやる。腰を屈めた姿勢は、長時間の作業には向かない。
灯りは、七つ。錠前屋に作らせた枠に嵌め、光を一方向に集める。
そして、棚。
薬草。器具。糸。布。そして、帳面。
分厚い一冊目と書き写しの始まった二冊目。
二冊目は、まだ百枚も進んでいない。リィシャが週に何日か来て、書き写している。彼女の字は速い。だが、彼女は教会の雑務がある。
「これ、いつになったら、終わるのですか」
「三年は、かかるだろうな」
「三年」
「一冊目が、増えるからな」
リィシャは、少し笑った。
「追いつかないのでは」
「だろうな」
俺は、認めた。
「でも、一冊目が、全部消えるよりは、ましだ」
診療所の名は、つけなかった。
看板も出さなかった。
理由はなんとなく察していたことだ。
無免許で人を切る場所に看板は要らない。看板は、そこが正式なものだと主張する道具だ。主張すれば、応答が来る。
応答が来るには、まだ早い。
だから、看板のない家に患者だけが来る。
来る患者は、日に三人から五人。宿の物置の頃より、少ない。
だが、一人あたりに使える時間が、増えた。
丁寧にやれる。記録が詳しくなる。追いかけられる。
三日後に来い、と言えば、来る。中層の患者は、来る。下水口の患者は、来ないことが多かった。仕事を休めないからだ。
------同じ処置をしても、結果が違う。
俺は、その差を帳面に書いた。
中層の患者の治りは、下水口の患者より、明らかにいい。
理由は、いくつも考えられた。栄養がいい。休める。家が清潔だ。三日後に来られる。
そして
------魔力の個体差が、どう絡んでいるのかは、まだわからない。
前の世界でも、貧困は病と同義だった。貧しいほど、病気になり、治りにくく、早く死ぬ。それは魔法のない世界でも、変わらなかった。
この世界は、そこにもう一つの籤を上乗せしている。
俺は、帳面に線を引いた。
------階層による治癒差。要検証。魔力との切り分け、方法なし。
方法がない。
いまは、まだ。




