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第40話 その名を数える


リィシャはその夜、宿の物置に泊まった。

聖堂に戻れば、また監視の中だ。一晩くらい、休ませたほうがいい。俺はそう判断して、自分の寝床を譲った。

俺は灯りのそばで老人の覚え書きを読んでいた。

五十年分の失敗。

読めば読むほど、これが宝だとわかった。

効かなかったものが書いてあるということは、試さなくていいものがわかるということだ。俺がこれから何年もかけて潰すはずだった選択肢が、この一冊で消える。

たとえば、痛みを消す薬の候補。俺は三つ持っていた。そのうち一つは、この覚え書きに「三度試して三度とも吐かせた。量を四段階変えても同じ」と書いてある。

三度分の試行が、消えた。俺は、その三度をやらずに済む。

やらずに済むということは、その三度で失われたはずの時間が、他に回せるということだ。

そういう項目が、この一冊に何百とある。

老人は、五十年を無駄にしたと言った。

無駄ではない。

ただ、渡す相手が、五十年いなかっただけだ。


「クレイ」


リィシャが、寝床から声をかけた。


「起きてたのか」

「眠れなくて」


彼女は、身を起こした。


「何を読んでいるのですか」

「じいさんの、覚え書き」

「薬師の方の?」

「五十年分だ。全部、失敗の、記録」


リィシャは、少し驚いた顔をした。


「失敗を書いていたのですか」

「そうだ」

「なぜ」

「効いたやつは、みんな覚えてる。効かなかったやつは、だれも覚えないからだ、って」


リィシャは、しばらく黙っていた。

それから、こう言った。


「教会の記録には、失敗が、あまり残りません」


俺は、顔を上げた。


「癒せなかった記録は、残ります。でも、なぜ癒せなかったかは、書きません」

「なんて、書く」

「『癒されず』とだけ」


俺は、その言葉を噛んだ。

癒されず。それだけ。

理由を書かない。書けば、理由を追うことになる。追えば、神の領分に踏み込む。

だから、書かない。


------結果だけを蓄える。


この世界の医学が、そういう形をしている理由が、そこにあった。


「リィシャ」

「はい」

「あんた、自分が、治せなかったやつを覚えてるか」


彼女は、しばらく黙った。


「…覚えています」

「何人だ」

「三十四人です」


即答だった。

俺は、彼女を見た。


「数えてたのか」

「数えていません」


彼女は、そう言った。


「覚えているだけです」


俺は、その違いを理解した。

数えたのではない。忘れられなかっただけだ。


「名前は」

「言えます。全員」

「言ってみろ」


リィシャが、俺を見た。


「…なぜ」

「書きたい」


俺は、帳面を開いた。


「あんたが、なおせなかった、三十四人。名前と、どんな傷だったか。覚えてるだけ、全部」

「それを書いて、どうするのですか」

「数える」


俺は、言った。


「あんたの力が足りなかったのか。それとも、籤に負けただけなのか。それを調べるための、その始めの数だ」


リィシャの手が、震えた。


「…いつか、わかるのですか」

「わからない」


正直に言った。

「数が、足りない。三十四人じゃ、なにも言えない。ほかの候補の記録もいる。割り当ての、記録もいる。全部今はない」

「では」

「でも始めないと、いつまでも、ない」


俺は、筆を持った。


「あんたが、今、なにもしなければ、三十四人はただのあんたの思い出で、終わる。あんたが死んだら、消える」


リィシャが、息を呑んだ。


「書けば、残る」


俺は、そう、強く言った。


「あんたが死んでも、残る。誰かが、いつか、数えられる」


物置が、静かだった。

灯りが、揺れていた。

リィシャは、長いこと、動かなかった。

俺は、待った。

これは、彼女が決めることだ。

書き出せば、彼女は、三十四人を「思い出」から「記録」に変える。記録になれば、いつか誰かが数える。数えられれば、答えが出る。

答えが出れば------彼女は、救われるか、二度目に失うかの、どちらかになる。

そのことを、彼女は理解している。理解したうえで、迷っている。

俺は、急かさなかった。

そして------


「一人目は」


彼女が、口を開いた。


「マレン。四十過ぎの、桶職人でした。荷崩れで、脚を挟まれて。傷は、腿の裏。深さは、私の指で、三本ほど」

俺は、書いた。


「二人目は、ヨナ。八つの女の子です。犬に喉を噛まれました」


書いた。


「三人目は、名前を教えてもらえませんでした。行き倒れの方です。腹に古い傷がありました。何日経っていたかは、わかりません」


書いた。


「四人目は------」


彼女の声は、震えていなかった。

淡々としていた。

四年間、毎晩、心の中で読み上げてきたのだろう。だから、詰まらない。

三十四人。

全員の名前と、傷と、日付が出てきた。

書きながら、俺は、線が見えていくのを感じていた。

三十四人のうち、二十九人が指二本より深い傷。四人が、日数の経った古い傷。残る一人は、生まれつき身体の弱い子供。

------ほとんど全部が、境目の向こう側だ。

だが、口には出さなかった。

いま言えば、それは慰めになる。慰めは、証明ではない。

慰めで人を救うのは、教会のやり方だ。

書き終えたとき、夜が明けかけていた。

俺は、筆を置いた。

指が、痺れていた。


「…終わりました」


リィシャが、そう言った。

俺は、書いたものを見た。

三十四行。

名前がある。傷がある。深さがある。日付がある。

そして、その全部に、彼女の記憶という出所がある。

「リィシャ」

「はい」

「これはまだ、なんの証明にもならない」

「はい」

「でも」


俺は、帳面を閉じた。


「これで、あの名前のないやつと、同じじゃなくなった」


彼女が、顔を上げた。


「…どういう、意味ですか」

「教会は、あいつの名前を消した」


俺は、言った。


「消されたら、いなかったことになる。だれも、覚えてない。あんたも、覚えてなかった」

「…はい」

「でも、あんたの三十四人は、消せない」


俺は、帳面を、彼女に見せた。

読めない文字の、三十四行。


「書いたからだ」


リィシャは、その紙を見つめていた。

そして、両手で顔を覆った。

声は、出さなかった。

俺は、灯りを消した。

窓のない物置に戸の隙間から、朝の光が細く入ってきていた。

------数える。

俺は、そう思った。

坂の上は、結果だけを数える。癒した数だけを数えて、癒せなかった理由を書かない。名前を消せば、その人間はいなかったことになる。

俺は、逆をやる。

理由を書く。失敗を書く。消された名前があるなら、空白のまま書いておく。

そうすれば、いつか、誰かが数えられる。

俺が死んでも。


------読める字にしなければならないな。


俺は、そう思った。

老人の言葉が、まだ耳に残っていた。


-------お前が死んだら、それは紙屑だ。


その通りだった。

俺の文字は、安全だ。誰にも読めないから、誰にも咎められない。

だが、誰にも読めないということは、誰にも渡せないということだ。

安全であることと、遺せることは、両立しない。

読めない字は、安全だ。誰にも咎められない。だが、誰にも渡せない。

老人は、生き延びる形を選んで、五十年、何も遺せなかった。俺の帳面も、同じ道の上にある。守るために読めなくした。読めなくしたから、俺が死ねば、消える。守ることが、消すことになる。

老人が生き延びる形を選んで、何も遺せなかったのと、同じ形だ。


------なら、二つ作る。


俺は、その日から、二冊目の帳面を作り始めた。

この世界の文字で。誰にでも読める字で。


一冊目は、俺のためのものだ。

二冊目は、俺の後のためのものだ。


書き写すのにどれだけかかるかはわからない。とにかく、分厚い。一日に十枚書き写しても、数月はかかる。その間も、一冊目は増え続ける。

追いつかないかもしれない。

だが、始めた。

始めなければ、いつまでも、ない。


「クレイ」


書き写している俺の手元を、リィシャが覗き込んだ。


「これは、読めます」

「そうだろうな」

「…私も、書きます」


彼女は、そう言った。


「私の字のほうが、速いですし、綺麗です」

「じゃあ、頼む」


俺は、筆を渡した。

こうして、二冊目の帳面は、俺の字ではなく、彼女の字で始まった。




その春、俺は十六になった。

下水口の子医者と、灰色の聖女。

二人の名前は、中層を越えて、坂の中腹まで届いていた。

そして、坂の上でも、その名は、既に囁かれ始めていた。




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