第39話 監視
リィシャの様子が変わったのは、それから半月後だった。
彼女が、来なくなった。
週に三日来ていたのが、二日になり、一日になり、そして十日、姿を見せなくなった。
その十日、俺は、いつも通りに働いた。
患者を診て、切って、縫って、数えた。手が二本しかない状態に戻っただけだ。戻っただけなのに遅い。
一年前、俺はこれを一人でやっていた。一人でやれていた。
やれていたはずのことが、やりにくくなっている。
------慣れは、怖い。
俺は、そう思った。
二人でやることに慣れれば、一人に戻ったとき、以前より下手になる。それは前の世界でも同じだった。設備の整った場所に慣れた医者は、何もない場所で動けなくなる。
だが、それを恐れて二人でやらないのは、本末転倒だ。
一人でできることを守るために二人でできることを捨てるなら、俺は永久に一人分のままだ。
俺は、その考えをいったん脇に置いた。
置いて、十日目の夜、気づいた。
------俺は、心配している。
その事実に少し驚いた。
十日、姿を見せない。それだけで、俺は、あの物置の戸を何度も見た。患者を診ている最中に外の足音を聞いた。
前の世界では、こういうことはなかった。同僚が来なければ、シフトが埋まらないと思うだけだった。
------手が足りない、と思っているのか。
それとも、別のことか。
俺は、その区別をうまくつけられなかった。
十一日目に、彼女は来た。
外套の下の白い衣が、皺だらけだった。目の下の隈が、これまでで一番濃かった。
「リィシャ」
「…すみません。来られませんでした」
「なにが、あった」
彼女は、床に座り込んだ。
そして、しばらく黙ってから、言った。
「聖堂を出られなくなりました」
「でられない?」
「外の仕事を止められました」
俺は、その意味をすぐに理解した。
彼女の二足の草鞋の、片方が折られた。教会の雑務だけになれば、外に出る理由がなくなる。出る理由がなければ、俺に会う口実もなくなる。
閉じ込めるのではない。出る用事をなくす。
そのほうが、静かで、確実だ。
そして、咎めていないから、彼女は文句も言えない。
「理由は」
「体調が優れないようだから、と」
「嘘だな」
「嘘です」
リィシャは、そう言った。
「私が、何を持ち出したかをたぶん知っています」
「確かめられたのか」
「直接は、何も。ただ、書庫の綴りが、並べ替えられていました」
俺は、眉を寄せた。
「並べ替え?」
「私が写した年の分だけ、別の棚に移されていました」
------罠だ。
俺は、そう理解した。
彼女が次に書庫に入ろうとするかを見ている。入れば、確定する。入らなければ、疑いのままだ。
そして、この罠のいやらしいところは、彼女が入らなくても損がないことだ。
入らなければ、彼女はもう記録に近づけない。それだけで、教会の目的は半分達成される。
罠にかかっても、かからなくても、こちらが負ける形になっている。
------考えたやつがいる。
俺は、そう思った。
これは、規則で動いた結果ではない。誰かが、彼女一人のために考えた手だ。
「リィシャ。書庫には行くな」
「行きません」
「絶対だ」
「行きません」
彼女は、そう言って、少し笑った。
「私も、そのくらいはわかります」
俺は、彼女の顔を見た。
疲れている。十日、たぶんろくに眠っていない。
「飯は」
「食べています」
「嘘をつくな」
「…食べています。少し」
俺は、宿の主人に頼んで、粥をもらってきた。彼女の前に置いた。
彼女は、少し躊躇ってから、食べた。
三口目で、手が止まった。
「…久しぶりに温かいものを食べました」
「教会でも、飯は、出るだろ」
「出ます」
彼女は、そう言った。
「でも、食堂に行くと、皆が黙るのです」
俺は、その言葉を飲み込んだ。
「みんな、知ってるのか」
「知りません。誰も、何も、言われていないはずです」
彼女は、匙を持ったまま言った。
「でも、空気は、伝わります。あの方は今、良くない立場にある、と。誰かがそう感じ取れば、周りも合わせます」
「何も、言われてないのに」
「言われていないから、余計に確かです」
彼女は、そう言った。
「はっきり咎められたら、まだ反論できます。何も言われないと、何もできません」
俺は、その状況を頭の中に置いた。
------上手い。
咎めない。罰しない。ただ、静かに周囲を離れさせる。
それは、六つから十年、その場所だけで生きてきた人間にとって、たぶん、最も効く。
裏路地なら、こうはならない。下水口の連中は、嫌なら殴るし、要らなければ追い出す。わかりやすい。
坂の上は、違う。
食べながら、彼女は言った。
「クレイ」
「なんだ」
「私、聖堂で、エルミナ様に会いました」
俺は、手を止めた。
「四年ぶりにか」
「いえ。顔は、時々合わせます。同じ聖堂にいますから」
彼女は、匙を持つ手を止めた。
「でも、話したのは、四年ぶりでした」
「何を話した」
「…向こうから、来たのです」
リィシャは、そう言った。
「私の部屋に来て、こう言いました。『無理をしていると聞きました。休んでください』と」
俺は、その言葉を頭の中で転がした。
「それだけか」
「それだけです」
「どんな、顔で、言った」
リィシャは、しばらく黙った。
「…心配してくれていました」
「本当に、か」
「本当に、です」
彼女は、そう言った。思い出すような表情に少し物憂げな色が浮かぶ。
「あの方は、嘘をつく方ではありません。私が疲れているのを見て、本当に心配したのだと思います」
「どうして、そう、言い切れる」
「あの方は、昔から、そうでした」
リィシャは、少し笑った。
「候補だった頃、私が熱を出したことがあります。八つの時です」
「うん」
「あの方は、一晩中、そばにいました。祈っても治らない熱でした。それでも、朝までいました」
「祈っても、治らなかった?」
「はい。熱は、癒しでは下がりません。傷ではないので」
俺は、その情報を頭に入れた。
------祈りは、傷にしか効かない。
熱には効かない。病には効かない。
当たり前だ。祈りは外から傷を塞ぐものであって、身体の中で起きていることには手が届かない。
つまり、この世界の癒しは、外傷にしか使えない。
病で死ぬ人間は、坂の上でも、下でも、同じように死ぬ。
その一点だけは、この世界は平等だった。
「それで」
「朝になって、熱が下がりました。あの方は、泣いて喜びました」
リィシャは、そう言った。
「自分の祈りが効いたのだと、信じていました」
俺は、その言葉を噛んだ。
------効いていない。
熱は、勝手に下がった。八つの子供の熱なら、たいてい下がる。三日も四日も続く熱のほうが、珍しい。
だが、一晩そばにいて、朝に下がれば、人はそれを結びつける。
そして、そう信じた者は、次も同じことをする。次も、たいていは下がる。下がらなかった時だけ、「祈りが足りなかった」ことになる。
そうやって、確信が積み上がっていく。
一つも嘘をつかずに。誰も騙さずに。
------あの人物は、そうやって作られたのか。
「あの方は、そういう方です」
俺は、その説明を聞いて、少し嫌な感触を覚えた。
「リィシャ」
「はい」
「その人は、あんたが何をしてるか、知ってるか」
「知らないと思います」
「じゃあ、なんで、あんたの部屋にきた」
リィシャが、顔を上げた。
その顔から、少しずつ、血の気が引いていった。
「…誰かに、言われて」
「そうだろうな」
俺は、言った。
「あんたを怖がらせるより、心配させたほうが、しゃべる」
リィシャの手から、匙が落ちた。
「あの方は、そんな------」
「その人は、知らないんだろ」
俺は、遮った。
「知らないまま、使われてる」
リィシャは、床の匙を見つめていた。
拾わなかった。
「…私は、何も話しませんでした」
「そうか」
「話せませんでした。あの方にあなたのことを話せば、あの方が、私を止めなければならなくなります」
彼女は、そう言った。
「あの方は、止めます。必ず。私のためだと思って」
俺は、その言葉を覚えておくことにした。
------エルミナという人物は、善意で人を止める。
それが、いちばん厄介な形だ。
悪意で止める者は、こちらが力を持てば退く。
善意で止める者は、退かない。
悪意なら、力で退かせられる。金でも、脅しでも、相手が引く点がある。
だが、善意には、引く点がない。こちらが力を持てば、その力を危ないもの、として、なお強く止めにかかる。相手のためだと信じているから、疲れない。休まない。恨まれても、揺らがない。向き先のない、正しさ。それが、いちばん、崩しにくい壁だった。
こちらが力を持てば、その力を「危ないもの」として、なお強く止めにかかる。相手のためだと思っているから、疲れない。休まない。恨まれても揺らがない。
そして------たぶん、こちらを憎みもしない。
憎まれるほうが、まだやりやすい。
「リィシャ」
「はい」
「その人にしばらく、会うな」
「…はい」
「あんたは、その人に嘘をつけない」
彼女は、答えなかった。
答えなかったことが、答えだった。
俺は、薬師の老人の言葉を思い出していた。
------その娘を聖堂に一人で戻すな。
あの言葉の意味を、俺はまだ、正確には掴めていない。
だが、今夜は、戻さないほうがいい。
それだけは、確かだった。
「リィシャ」
「はい」
「今日は、ここに泊まれ」
彼女が、顔を上げた。
「…いいのですか」
「良くない。狭いし、匂いだって」
俺は、そう言った。
「でも、歩くよりは、ましだ」
リィシャは、少し笑った。
その笑いが、この十日で初めて見る、疲れていない笑いだった。




