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第38話 空白の名


老人の覚え書きは、想像していたものと違った。

薬草の効能が並んでいるのではない。

効かなかった記録が、並んでいた。

この草をこの量で、この患者に使った。効かなかった。この草をこう煮た。腐った。この配合を試した。患者が吐いた。

失敗が、五十年分。

俺は、それを読んで、しばらく動けなかった。


「じいさん」

「なんだ」

「これ、全部、失敗か」

「そうだ」

「なんで、失敗だけ」

「効いたものは、皆が覚えとる」

老人は言った。


「効かんかったものは、誰も覚えん。だから、わしが書いた」


俺は、その言葉を飲み込んだ。

------この老人は、数えていた。

数えていないと言ったが、嘘だ。数えていた。ただ、それを誰にも見せなかっただけだ。

そして、失敗だけを選んで書いたというのは------

この老人が、何が価値ある記録かを正確に理解していたということだ。

前の世界でも、そうだった。成功した治療は論文になる。失敗した治療は、報告されずに消える。だから同じ失敗が、別の場所で、何度も繰り返される。

その歪みを、この老人は、五十年前に一人で見抜いていた。

誰にも教わらず、比べる相手もなく、ただ自分の頭で。

効いたものは、皆が覚えている。効かなかったものは、誰も覚えない。だから、同じ失敗が、別の場所で、何度も繰り返される。

この老人は、その歪みを五十年前に一人で見抜いた。前の世界でも、成功だけが残り、失敗は消えた。書くべきは、成功ではなく、失敗のほうだ。この老人と、俺は、別々の場所で、同じ結論に辿り着いていた。


「じいさん」

「なんだ」

「これ、もらっていいのか」

「やる、と言った」

「なんで、今なんだ」


老人は、答えなかった。

茶碗を指で回していた。

代わりにこう言った。


「坊主。お前、聖女候補の記録を見たそうだな」


背が、冷えた。


「…なんで、知ってる」

「灰色の娘が、書庫の写しを持ち出した。教会は気づいとる」

「リィシャが」

「あの娘が、記録を写す仕事から外されたのは、それが理由だ」


俺は、立ち上がりかけた。


「座れ」


老人が、そう言った。

「まだ、捕まっとらん。教会は証拠を掴んどらん。掴んどれば、とっくに動いとる」


俺は、座り直した。

心臓が、速くなっている。


「じいさん。なんで、そんなことを知ってる」

「上にも、こっちの人間がいる」


------上にも。


俺は、老人を見た。


「じいさん」

「言っておくが、大した数じゃない。二人か三人だ。降りてこられなかった連中だな」

「降りて、こられない?」

「家族がいる。地位がある。降りたら、生きていけん。だから上に残って、時々、こっちに文を流す」


老人は、そう言った。


「それだけの、繋がりだ」

「そいつらは、なにを望んでる」

「何も望んどらん」


即答。


「望みがあるなら、降りとる。降りずに残ったということは、望みより、今の暮らしを選んだということだ」


俺は、その言葉を噛んだ。

厳しい言い方だ。だが、正確だと思った。

そして、その厳しさをこの老人は自分にも向けている。降りた自分も、何も成せなかった。残った者も、何も成さない。どちらも同じだ、と。

俺は、懐から、自分の帳面を出した。

そして、四年前の日付の、あの行を開いた。

名前の欄が、空いている行。


「じいさん」

「なんだ」

「これを知ってるか」


俺は、その行を老人に見せた。

読めない文字だ。だから、俺が読み上げた。

四年前の日付。深い傷を七度癒した記録。名前の欄が、空白であること。

老人の手が、止まった。

茶碗を持ったまま、動かなくなった。

その静止が、あまりに長かった。


「じいさん」

「…どこで、それを」

「リィシャが、写してきた」


老人は、茶碗を置いた。

音が、いやに大きかった。


「坊主」

「なんだ」

「その話は、するな」

「なんでだ」

「するな、と言っとる」


老人の声が、初めて、鋭くなった。

俺は、老人の顔を見た。

濁った片目。もう片方の目。その両方にこれまで見たことのないものが浮かんでいた。


------恐怖だ。


この老人が、恐れている。

五十年、坂の上と下を見てきた男が。

俺は、これまでこの老人が怖がるところを一度も見たことがなかった。俺が自分に毒を吸わせて息を止めた時ですら、この老人は怒鳴っただけだった。

怒鳴るのは、怖がっているのとは違う。


「じいさん。知ってるんだな」

「知らん」

「嘘だ」

「知らんと言っとる」

「じゃあ、なんで、怖がる」


老人は、答えなかった。

長い沈黙の後で、こう言った。


「…坊主。わしはな、五十年生きた。後何年もない」

「うん」

「わしが死ぬのは、構わん。だが、お前が死ぬのは、困る」


俺は、その言葉を噛んだ。

「なんで、困る」

「お前が死んだら、あの記録が、そっくり紙屑になるからだ」


老人は、そう言った。


「わしの五十年は、この覚え書き一冊だ。それでも、書いた。だが、お前のは、それより先へ行ける」

「じいさん」

「その名前のない行は、今追うな」


老人は、俺をまっすぐ見た。


「追うなら、お前がもっと大きくなってからにしろ。今追えば、消される」


------消される。


老人は、そう言った。

「消される」というのは、人が死ぬという意味とは限らない。

名前が消される。記録から消える。誰の記憶にも残らなくなる。

四年前にそういうことが起きた。

そして、五十年この街を見てきた老人が、その話をするな、と言う。

俺は、その言葉の重みを正確に測った。


------生きているのか、死んでいるのか。


俺は、それを訊きたかった。

だが、訊かなかった。

訊けば、この老人は、答えるかもしれない。答えれば、この老人が危なくなる。

そして、もう一つ、気づいたことがあった。

この老人は、いま、俺に覚え書きを渡した。

五十年分の記録を一度も人に見せたことがないと言いながら、今日、渡した。

それが偶然のはずがない。

この老人は、俺が名無しの行に辿り着くことを予期していた。予期したうえで、覚え書きを先に渡した。


------遺すつもりだ。


俺が追って死ぬか、この老人が巻き込まれて死ぬか。どちらにせよ、その前に渡せるものを渡しておこうとしている。

俺は、膝の上の紙束を見た。

指三本ぶんの厚さ。五十年。

これは、贈り物ではない。

引き継ぎだ。


「わかった」


俺は、そう言った。


「今は、追わない。…今は」


老人が、息を吐いた。


「…賢いな」

「賢くない」


俺は、帳面を閉じた。


「ただ、数が、足りないだけだ」


老人は、少し笑った。


「同じことだ」

「違う」


俺は、そう言った。


「賢いやつは、追わないと、そう決める。俺は今、追えないだけだ」

「......」

「数が揃ったら、追う」


老人は、俺を見ていた。

その目に恐怖は、まだ残っていた。

だが、その奥にもう一つ、別のものがあった。

俺には、それが何なのか、その時はわからなかった。

工房を出るとき、老人が、背中に声をかけた。


「坊主」

「なんだ」

「その娘を聖堂に一人で戻すな」


俺は、振り返った。

老人は、こちらを見ていなかった。


「…どういう意味だ」

「そのままの意味だ」


それきり、老人は、何も言わなかった。



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