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第37話 降りてきた者たち



「来ると思ってた」


老人は、俺の顔を見るなり、そう言った。


「じいさん」

「入れ。外は寒い」


工房の奥は、変わっていなかった。蒸留器が並び、乾いた草が吊るされ、瓶が棚に整列している。

老人は、俺に椅子を勧め、自分も座った。


「刃物屋のところから、順に回ったな」

「知ってたのか」

「文が来た」


老人は、そう言って、少し笑った。


「『子医者が嗅ぎ回っている』とな。あいつらは、心配性だ」


俺は、老人を見た。

濁った片目。厚い指の皮。爪の間の、薬草の色。

七年、この老人から、俺は多くを得てきた。薬草の書。青い包み。蒸留器。息が止まったときの、鞴。

そして、その全部が、俺の交渉の成果だと思っていた。


「じいさん」

「なんだ」

「俺は、あんたに目をかけられてた、ってことか」

「言い方が悪いな」


老人は、茶を淹れながら言った。


「見ていただけだ」

「なんで」

「珍しかったからだ」


老人は、俺の前に茶を置いた。


「九つのガキが、蒸留器を見て、あんな顔をした。あれを見て、何もしないほど、わしは枯れちゃおらん」


俺は、茶を持った。

熱かった。


「あのとき、俺が、なんて聞いたか、覚えてるか」

「覚えとる」


老人は、即答した。


「『なんで、効くの』と訊いた」

「そうだ」

「薬草の効能を訊く客入る。作り方を訊く客もいる。だが、なぜ効くのかを訊いたのは、五十年でお前一人だ」


老人は、茶をすすった。


「わしは、その質問で、坂を降りた」


俺は、茶碗を置いた。


「じいさん」

「なんだ」

「あんたら、何人いる」


老人は、答えなかった。

茶をすすって、天井を見た。


「数えたことはない」

「数えろよ」

「数えると、組織になる」


老人は、そう言った。


「組織になると、潰される。だから、数えん」


俺は、その言葉を噛んだ。

数えない。名簿を作らない。顔を合わせない。文でやり取りする。


------潰されないための形だ。


理には適っている。だが、その形を選んだ時点で、この集まりは、何かを成すことを諦めている。

何かを成すには、人を集めなければならない。集めれば、数える必要が出る。数えれば、記録が残る。記録が残れば、潰される。

だから、成さない。

生き延びる形と、変える形は、両立しない。この人たちは、前者を選んだ。


「いつからだ」

「知らん。わしが降りてきた時には、もうあった」

「三十年前」

「そうだな」


老人は、茶碗を置いた。


「わしを拾ったのも、そういう誰かだ。名は知らん。もう死んだ」

「なにをしてる」

「何も」


老人は、あっさりと言った。


「何もしとらん。ただ、生きてる」

「なにも?」

「教会を倒そうとか、そういう話じゃない。無理だ。誰も本気で考えとらん」


老人は、俺を見た。


「降りてきた人間が、下で生きられるように少し融通し合う。それだけだ」


俺は、その説明をしばらく飲み込めなかった。


「それだけ、か」

「それだけだ」

「じゃあ、なにも、変わらない」

「変わらんな」


老人は、そう言った。

その言い方に悔しさは、なかった。


「坊主。わしは二十年、坂の上で薬を作った。降りてきてから、三十年、ここで薬を作っとる。合わせて五十年だ」

「うん」

「五十年で、何一つ、変えられんかった」


老人は、自分の手を見た。


「なぜ効くのかを調べようとした。止められた。降りてきた。降りてきたら、調べる余裕がなくなった。食うために薬を作って、それで終わりだ」

「......」

「わしだけじゃない。降りてきた連中は、みんなそうだ。最初は何かやろうとする。やろうとして、食えなくなって、やめる。それの繰り返しだ」

「何人、見た」

「何人も、な」


言葉は静かだった。


「若いのが降りてくる。目が燃えとる。三年で消える。五年で、酒を飲むようになる。十年で、こっちが本業になる」


俺は、その光景を想像した。

この街の下層にそういう人間が何十年も溜まり続けている。全員が、一度は問うた者だ。全員が、答えを見つけられなかった者だ。

そして今、俺の道具を作っている。

俺は、自分を孤立した異物だと思っていた。この世界で一人だけ、違うものを見ている人間だと。

違った。

俺より先に問うて、零れた者たちが、何十年も前からいた。彼らは何も変えられなかった。変えられないまま、下で薬を作ったり、鉄を打ったり、ガラスを吹いたりして生きている。

俺と彼らの違いは、たった一つだ。

俺は、数えている。


「じいさん」

「なんだ」

「俺の、手帳を見たことがあるか」

「見たことはない。だが、噂は聞いた」

「あれは、俺の、何年分もの記録だ」

「そうか」

「全部、数だ。だれが、どんな傷で、なにをして、どうなったか」


俺は、老人を見た。


「あんたらは、数えなかった」


老人の眉が、動いた。


「組にならないように数えなかった。それは、わかる。でも、それだけじゃないだろ」

「......」

「自分のやったことも、数えなかった。だから、なにも、残らなかった」


工房が、静かになった。

老人は、長いこと、何も言わなかった。

俺は、言い過ぎたと思った。

この老人は、俺に多くを与えた。青い包みも、鞴も、この老人がいなければ、俺は既に死んでいたかもしれない。

その相手に五十年を無駄だったと言った。

腕が悪いなら死ぬべきだ、と俺は思っている。だが、この老人の腕は悪くない。この老人が持てなかったのは、腕ではなく、続ける形だ。

それを責めるのは、筋が違うかもしれなかった。


「…その通りだ」


老人は、そう言った。

俺は、顔を上げた。


「その通りだよ、坊主」


笑っていた。

自嘲ではなかった。


「わしらは、数えなかった。何一つ書き残さなかった。だから、五十年経っても、次の世代が同じところから始める羽目になる」

「じいさん」

「若いのが降りてくるたびにわしは同じことを教える。この草はこう使え、この配合は駄目だ、とな。教えたそばから、そいつは消える。次のやつが来る。また同じことを教える」


老人は、そう言った。


「五十年、同じ話を何十回もした」

「書けば、一回で、すんだのにな」

「そうだな」


老人は、笑った。


「お前は、書いてるんだな」

「書いてる」

「読める字で、か」

「読めない字、だ」


笑った。


「阿呆が」

「......」

「お前が死んだら、それは紙屑だ」


俺は、その言葉に返せなかった。

考えたことが、なかったわけではない。だが、優先順位が低いと判断していた。俺の文字なら安全だ。安全なら、それでいい。そう思っていた。

だが、それは------

俺が生きている前提の話だ。

俺は、いつ死んでもおかしくない。刃物を扱う。夜歩きをする。無免許で人を切っている。捕まれば、たぶん死ぬ。

死んだら、あの記録は、ただの汚い紙束だ。

誰も読めない。誰も継げない。


------この老人と、同じになる。


腕は、悪くなかった。青い包みも、鞴も、この老人がいなければ、俺は死んでいた。この人が持てなかったのは、腕ではなく、続ける形だ。

読めない字で書けば、安全だ。だが、安全な記録は、俺と一緒に死ぬ。読まれなければ、意味はない。残っていなければ、読まれもしない。老人の五十年が、俺にそれを教えかけていた。

俺は、この老人の五十年を数えなかったから何も残らなかったと責めた。

俺は、数えている。数えているが、渡せない形で数えている。

結果は、同じだ。


「じいさん」

「なんだ」

「じゃあ、どうすればいい」

「知るか」


老人は、そう言って、立ち上がった。


「わしは五十年、何も残せんかった男だ。教えられることなど、何もない」


そして、棚の奥から、綴じた紙束を出してきた。


「だが、これはやる」

「なんだ」

「わしが五十年で書いた、薬の覚え書きだ」


俺は、それを受け取った。

厚い。指三本ほどある。


「読める、字か」

「読める字だ。誰でも読める」


老人は、そう言った。


「一度も、人に見せたことはない」



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