第35話 名の立つ
冬が終わる頃には、俺たちの名前は、中層まで届いていた。
「下水口の子医者と、灰色の聖女」
そういう呼ばれ方をしている、と傭兵が教えてくれた。
「灰色の、聖女」
「灰色の外套を着て、下に降りてくる。聖女様みたいに人を治す。だから、そう呼ばれてるらしいぞ」
俺は、その呼び名をリィシャに伝えた。
彼女は、はっきりと嫌な顔をした。
「やめてください」
「なんで」
「聖女は、お一人です。エルミナ様だけです」
「でも、そう呼ばれてる」
「…困ります」
彼女の顔から、笑いが消えていた。
「教会に知られたら」
------そうか。
俺は、その時、初めて、事の重さを理解した。
この呼び名は、危ない。
聖女は、教会にとって唯一無二の存在だ。その名を外の人間が名乗る------名乗っていなくても、そう呼ばれる------ことを教会が許すはずがない。
そして、その呼び名が、腹を開ける医者と並べて語られている。
「リィシャ」
「はい」
「あんた、教会で何か、言われたか」
彼女は、少し黙ってから、答えた。
「…最近、質問されるようになりました」
「何を」
「外の仕事で、誰と会っているか。どこへ行っているか」
俺の背が、冷えた。
「なんて、こたえた」
「今まで通りだと」
「信じられたか」
「わかりません」
リィシャは、正直に言った。
「でも、記録を写す仕事から、外されました」
------記録を写す仕事。
彼女が、候補の記録を見られた理由だ。
それが、外された。
偶然かもしれない。だが、そうでないかもしれない。
「リィシャ」
「はい」
「あんた、やめるか」
彼女が、顔を上げた。
「やめる、とは」
「俺と、組むのを」
物置が、静かになった。
灯りが、揺れていた。
俺は、続けた。
「あんたが失うものは、大きい。仕事も、住むところも、食べるものも、全部、教会のものだ。ばれたら、全部、なくなる」
「…はい」
「俺は、なくすものが、ない。もともと何も持っていない」
俺は、そう言った。
「だから、あんたが抜けても、俺は、恨まない」
リィシャは、俺を見ていた。
長い時間だった。
そして、こう言った。
「クレイ」
「なんだ」
「あの日、あの子は、なぜ死んだのですか」
俺は、一瞬、何のことかわからなかった。
すぐに思い出した。
屋根から落ちた、あの子供のことだ。彼女が四度祈り、それでも死んだ子供。
「…頭の中で、血が、溜まったからだ」
「私が、外を塞いだから」
「そうだ」
「あの日から」
彼女は、静かに言った。
「私は、ずっと、あの子のことを考えていました」
俺は、黙って聞いていた。
「そして、思ったのです。あの子だけではない、と」
------そこに行ったか。
「私は、十一の時から、外で癒しをしてきました。四年です。何百人も、癒しました」
「そうだな」
「その中にあの子と同じ人が、何人いたのでしょう」
彼女の声は、震えていなかった。
震えていない方が、恐ろしかった。
泣きながら言うなら、まだいい。取り乱すなら、慰められる。だが、リィシャは、平坦な声で、自分が閉じ込めて殺したかもしれない者の数を数えようとしていた。
数えられない、と知りながら。四年分の、追わなかった結果を。この静けさは、俺の帳面と、同じ質のものだった。
「私が塞いだせいで、中に閉じ込められて、死んだ人が」
「リィシャ」
「わかりません。数えていませんから」
彼女は、そう言った。
「私は、癒した数だけを数えていました。癒した後にどうなったかは、追いませんでした。誰も、追えと言いませんでした」
物置が、静かだった。
「教えてくれる人は、いませんでした」
彼女は、俺を見た。
「教える人が、いなかったのです。誰も知らなかったから」
そして、こう言った。
「私が抜けたら、誰が止めるのですか」
俺は、答えなかった。
「私は、続けます」
リィシャは、そう言った。
「教会の仕事も、外の仕事も、あなたとの仕事も。全部です」
「倒れるぞ」
「倒れたら、その時に考えます」
彼女は、少しだけ笑った。
「あなたも、同じでしょう」
俺は、返す言葉がなかった。
その夜、俺は、坂の上を見上げた。
尖塔が、月の下で、白く光っていた。
あそこには、エルミナがいる。
リィシャと同じ年に選ばれ、同じ部屋で育ち、そして選ばれた側に残った少女。
記録の上では、本物の力を持っている。深い傷も癒す。数も多い。
彼女は、いま、何を思っているのか。
自分が選ばれた理由をどう説明しているのか。
そして、自分が癒せなかった患者をどう記録しているのか。
------祈りが、足りなかった、と。
たぶん、そう書いている。
書きながら、その言葉を本気で信じている。
信じていなければ、あの立場は保たない。
俺は、月の下の尖塔を長いこと見ていた。
いつか、あそこへ行く。
その時、俺は、あの女に何を言うのだろう。
事実を語るのだろう。
それしか、俺にはできない。
そして、事実は、たぶん、あの女を壊す。
腹の底の火は、静かに燃えていた。
怒りは、消えていない。
だが、その隣にもう一つ、別のものが灯っていた。
------手が、ある。
一つだけだが、ある。
十五年かけて、俺は、ようやく二人になった。
二人。たった、二人だ。この街の万を超える人間に対して、二本の手が、四本になった。それだけだ。
だが、その差は、一と二の差だ。ゼロと一の差の、次に大きい。一人では、俺が倒れれば、全部が止まる。二人なら、片方が倒れても、もう片方が、次の手を探せる。
足りない。まだ、全然、足りない。
だが、一人ではない。
俺は、物置に戻った。
リィシャは、灯りのそばで、眠っていた。
三足の草鞋を履いて、倒れるまで走る女だ。
------起こさなかった。
俺は、灯りを消して、暗闇で、肉を切る訓練を始めた。
指先の感触だけで、層を読む。
皮と、脂と、筋と、膜。
その全部をいつか、迷いなく分けられるように。




