第34話 二人分の朝
リィシャは、半刻ほどで目を覚ました。
俺が水を飲ませると、彼女は身を起こそうとして、失敗した。
「動くな」
「…あの方は」
「生きてる」
俺は、寝台のほうを顎で示した。
革職人の男は、まだ意識が戻っていない。だが、呼吸は規則的になっている。脈も、さっきより強い。
「まだ、わからない」
俺は、正直に言った。
「布を腹の中に入れたままだ。あれは、取らないといけない。取るときにまた、血が出るかもしれない」
「いつ、取るのですか」
「三日先。早すぎると、また出る。遅すぎると、中で膿む」
「三日…」
リィシャは、天井を見上げていた。
物置の、埃だらけの天井を。
「クレイ」
「なんだ」
「私、腹の中を見ました」
俺は、彼女を見た。
「見てしまいました」
彼女の声は、震えていなかった。むしろ、妙に平坦だった。
「人の、腹の中を」
「そうだな」
「あれは…あんなふうになっているのですね」
「そうだ」
「教会では、教わりません」
「だろうな」
リィシャは、しばらく黙っていた。
それから、こう言った。
「怖くは、ありませんでした」
俺は、少し驚いた。
「そうか」
「不思議です。もっと、恐ろしいものだと思っていました。神聖を犯すというのは、もっと」
彼女は、言葉を探していた。
「もっと、罪深い感じがするものだと」
「なかった?」
「ありませんでした」
彼女は、自分の手を持ち上げて、見た。
「あの方の中を照らしている間、私が思っていたのは、一つだけです」
「なんだ」
「あなたが、早く血を止められますようにと」
俺は、その言葉をしばらく噛んでいた。
「それは、祈りか」
「…わかりません」
リィシャは、少し笑った。
「でも、そう思っていました」
三日後、俺は布を取った。
出血は、再開しなかった。肝臓の裂け目は、既に固まっていた。
男は、五日目に目を覚ました。
七日目に水を飲んだ。
十日目に起き上がった。
そして、二十日目に自分の足で歩いて帰った。
付き添いだった弟が、俺の前で、床に頭をつけた。
「あの…お代を」
「銅貨で五十」
「そんな、安すぎます」
「それが、値段だ」
俺は、そう言った。
「半分は、こいつのぶんだ」
俺は、リィシャを指した。
彼女は、いつも通り、灰色の外套を着ていた。教会の色を隠すように。
弟は、彼女にも頭を下げた。
「あなたも、ありがとうございました」
リィシャは、何も言わなかった。
ただ、少し、頭を下げ返した。
二人が帰った後、俺は帳面を開いた。
腹腔内出血。開腹。肝損傷、後腹膜出血。パッキングと結紮。生存。
帳面の、新しい一枚にそう書いた。
書いてから、線を引いた。
「なにを書いているのですか」
リィシャが、覗き込んできた。
「線をひいた」
「線?」
「ここまでが、俺一人で、できたこと。ここからが、二人で、できたこと」
俺は、そう言った。
「今日、その線を越えた」
リィシャが、帳面を見つめた。
読めない文字。だが、線だけは見える。
「…私が、いなければ」
「あの男は死んでた」
俺は、はっきり言った。
「間違いなくな、死んでた。前に同じやつを死なせてる」
彼女が、俺を見た。
「あんたが、いたから、助かった」
リィシャの目が、揺れた。
「私は、癒していません」
「そうだな」
「傷を一つも塞いでいません」
「そうだ」
「私が、したことは、光を当てただけです」
「そうだ」
俺は、頷いた。
「それでも、助けた」
彼女の目から、涙が落ちた。
今度は、昨日のような、絶望の涙ではなかった。
俺は、それを黙って見ていた。
その夜、リィシャは、遅くまで物置にいた。
「帰らなくて、いいのか」
「今日は、朝まで大丈夫です」
「教会は」
「明後日の朝までに戻れば、問題ありません」
俺は、それ以上、訊かなかった。
彼女は、灯りのそばで、自分の記録を開いていた。
候補だった頃の記録。癒した患者と、癒せなかった患者。
「クレイ」
「なんだ」
「いつか、わかりますか」
俺は、顔を上げた。
「なにが」
「私が、力不足だったのか。それとも」
彼女は、そこで言葉を切った。
俺は、答えを持っていた。
数が集まれば、わかる。彼女が受け持った患者の傷の性質と、他の候補が受け持った患者の傷の性質を比較できるだけの記録があれば。
いつか、俺はそれを計算できるようになる。
そして------
その答えは、二つに一つだ。
彼女は籤に負けただけだった、という答え。
あるいは、彼女は本当に力が足りなかった、という答え。
前者なら、彼女は救われる。
後者なら、彼女はこの十年を二度目に失う。
俺は、彼女の顔を見た。
灯りの下で、彼女は、自分の記録を見つめていた。
「…わからない」
俺は、そう言った。
嘘ではない。まだ、わからない。
だが、いつか、わかるようになる。
その時、俺は、どうするのか。
事実を語る。俺は、そういう人間だ。事実を伏せることは、俺のやり方ではない。
だが------
事実を語ることは、この少女の人生の意味を外から確定させる行為でもある。
俺は、その問いをいったん伏せた。
まだ、早い。
「リィシャ」
「はい」
「寝ろ。倒れるぞ」
「…はい」
彼女は、記録を閉じた。




