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第33話 その日の患者


その男が運び込まれたのは、初雪の日だった。

中層の、革職人だった。四十がらみ。荷馬車に轢かれた。


「腹を、腹を打って!」


付き添いが、そう叫んだ。

俺は、男を見た。

外傷は、ほとんどない。皮膚は破れていない。だが、腹が張っている。顔が白い。脈が速く、弱い。

------腹腔内出血。

前に一件、これで死なせた。荷車に轢かれた若い男。開けられずに三時間で死んだ。


「リィシャ」

「はい」

「これ、祈りで、治るか」


彼女は、男を見た。


「…外に傷がありません」

「治せるか」

「祈っても、癒すべき傷が、どこにあるかが」

「わからない、か」

「はい」


俺は、頷いた。

そういうことだ。

祈りは、傷を癒す。だが、どこが傷ついているかを術者が知る必要がある。中で破れている臓器を外から見つける方法が、この世界にはない。

だから、腹の中の出血は、この世界では、必ず死ぬ。


「開ける」


俺は、そう言った。

付き添いが、俺を見た。


「開ける、って」

「腹を切って、中を見る。それしか、助ける方法が、ない」

「そんなことをしたら、死んでしまう!」

「開けなくても、死ぬ」


俺は、言った。


「開ければ、助かるかもしれない」


付き添いは、震えていた。

俺は、リィシャを見た。

彼女の顔は、蒼白だった。


「クレイ」

「なんだ」

「…本当にやるのですか」

「やる」

「私は」


彼女は、そこで言葉を切った。

俺は、待った。

これは、彼女が決めることだ。

腹を開けることは、彼女の教会では、冒涜だ。人体は神からの預かりもの。切り開くことは、許されない。

彼女は、その教義の中で、六つから育った。

俺の隣に立てば、彼女は、それを踏み越える。

そして------教会に知られれば、彼女の職も、生活も、全部が消える。


「あんたは、いなくていい」


俺は、そう言った。


「え?」

「これは俺の仕事だ。あんたが、罪になる謂れはない」

「でも、麻酔が」

「なしで、やる。意識が落ちてる。今ならできる」

「…無理です」


リィシャは、そう言った。


「え?」

「無理です。あなた一人では」


彼女は、俺を見た。


「腹の中を探るのにどれだけかかりますか」

「…一刻、以上」

「その間、この方の身体は、保ちますか」


俺は、答えられなかった。

保たない。たぶん。

既に相当量の血を失っている。開ければ、さらに落ちる。俺が出血源を見つけて縛るまで、この身体が保つ保証は、どこにもない。

前の世界なら、輸血がある。血圧を上げる薬がある。

ここには、ない。


「…ないな」

「では、必要でしょう」


リィシャは、外套を脱いだ。

白い衣が、露わになった。


「湯を沸かします」

「リィシャ」

「手を洗うのですよね」


彼女は、俺を見なかった。


「早く。時間がないのでしょう」


俺は、その背中を一瞬だけ見た。

そして、動いた。



灯りを七つ並べた。

湯で刃を煮た。手を洗い、腕まで洗った。リィシャも、同じようにした。


「リィシャ。心臓と、息を保たせろ。胸に光を弱く、長く」

「…できるかどうか」

「やってみるしかない」

「はい」

「痛みは、いい。意識が落ちてる。もし、目が覚めたら、そのときは腹にうつせ」

「はい」


俺は、刃を握った。


「開けるぞ」



腹壁を正中に。

皮膚、皮下、筋膜、腹膜。

開いた瞬間、血が溢れた。


「椀!」


付き添いが、震える手で椀を運ぶ。俺は、血を掻き出した。

掻き出しても、また溜まる。

------多い。

前に開けた女より、遥かに多い。


「リィシャ。どうだ」

「…弱くなっています。脈が」

「保たせろ」

「やっています!」


俺は、手を突っ込んだ。

指で、探る。暗闇の中で肉を切る訓練が、ここで効いた。目に頼らない。指の腹で、感触を読む。前の世界の無影灯は、ここにない。灯りを七つ並べても、開いた腹の底までは、届かない。

だから、指を目の代わりにした。皮と、脂と、筋と、膜。触れれば、違う。見えない世界で、俺の手は、見ていた。

肝臓。表面が、裂けている。

------ここか。

だが、それだけではない。もっと下からも、血が来ている。

脾臓ではない。もっと後ろだ。

------後腹膜。

腎臓か、その周りの血管か。

前の世界でも、これは厄介だった。後腹膜の出血は、開けても見えにくい。しかも、圧が高い。


「クレイ!」


リィシャの声が、鋭くなった。


「脈が、飛んでいます!」

「何回」

「三回に一回」


------危ない。

このままでは、心臓が止まる。

俺は、決断した。

肝臓の裂傷を先に押さえる。布を詰めて、圧迫する。前の世界では、ガーゼパッキングと呼んだ。縫うより速い。完全ではないが、時間を稼げる。


「布! 煮たやつ、全部!」


俺は、布を肝臓の裂け目に詰めた。押し込んだ。

出血が、減った。

次に後ろだ。

俺は、腸を寄せて、後腹膜に手を伸ばした。

------見えない。

血で、何も見えない。


「リィシャ」

「はい」

「光をここにいれられるか」

「…光?」

「あんたの、祈りの光。灯りの代わりに使えないか」


リィシャが、目を見開いた。


「そんな使い方は」

「できるか、できないかだ」


彼女は、一瞬、迷った。

そして、片手を、俺の開いた腹の上にかざした。

------腹の中が、淡く、照らされた。

俺は、息を呑んだ。

見える。

血の海の底。腎臓の外側。そこから、血が湧いている。


「みえた」


俺は、そこに指を入れた。

血管を指で押さえる。血の勢いが、落ちた。


「糸」


リィシャが、片手で光を保ちながら、もう片手で糸を渡した。

縛った。

一度目。滑った。

二度目。かかった。

三度目。締めた。

血が、止まった。


「…止まった」


俺は、そう言った。


「クレイ」

リィシャの声が、掠れていた。


「私、もう」


見ると、彼女の顔から、完全に血の気が引いていた。手が震え、光が明滅している。


「もういい。光をけせ」

「でも、胸を」

「胸だけ、続けろ。光は、いい」


腹の中の光が、消えた。

俺は、暗い中で、肝臓のパッキングを確かめた。

出血は、止まっている。

このまま置く。取れば、また出る。

腹を閉じる。層ごとに。

閉じ終わったとき、リィシャは、床に座り込んでいた。

胸に向けた手だけをまだ上げていた。


「もう、いい。大丈夫だ」

「......はい」


彼女の手が、落ちた。

そして、そのまま、横に倒れた。



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