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第31話 流す


最初の三月は、俺の腕で試した。


「もっと、弱く」

「…はい」

「長く。止めないで。ずっと」


リィシャの手が、俺の前腕にかざされている。

淡い光が、皮膚の上に落ちている。祈りの光だ。だが、いつもの祈りとは違う。彼女は、傷を塞ごうとしていない。ただ、流している。

俺は、その感覚を言葉にしようとしていた。


「温かい」

「はい」

「後は…痺れる? ちょっと」

「痺れますか」

「軽く。触られてる、感じが、薄くなる」


リィシャの目が、鋭くなった。


「それは、どのくらいで」

「今、始まって、六十、数えたころから」


彼女が、書き留めた。

俺が書くより、彼女が書くほうが速い。教会で写しを取っていた手だ。文字も綺麗だし、何より、記録することに慣れている。

三月で、わかってきたことがあった。

祈りの光を弱く、長く、皮膚の上に流し続けると、その部位の感覚が鈍る。

塞ぐための力を塞がずに流し続ける。誰も、やらなかった使い方だ。塞ぐのが、いちばん目立つ。目立つから、数えやすい。数えやすいから、それだけが、癒しと呼ばれた。

だが、塞がない祈りは、感覚を鈍らせる。痛みを薄くする。開けている間、患者を保たせる。目立たない才が、外科の扉を開けた。

痛みだけではない。触覚も、温度も、全部が薄くなる。


「これ、何で、効くと思う」

「わかりません」


リィシャは、即答した。


「癒しがどう働くのかは、教わっていません。祈れば癒える、それだけです」

「考えたことも、ない?」

「…ありました」


彼女は、少し目を伏せた。


「でも、考えてはいけないことでした」


俺は、それ以上、突っ込まなかった。

代わりにこう言った。


「じゃあ、今から、考えよう」


リィシャが、顔を上げた。


「考えていい。ここには、教会はない」


彼女は、しばらく黙ってから、小さく頷いた。


四月目に大きな発見があった。

リィシャが、俺の腕の一部だけに光を集められることが判明した。


「ここ、だけ」


俺が指した、親指ほどの範囲。

彼女が、そこに集中した。

------効いた。

その範囲だけ、感覚が鈍った。周りは、普通のままだ。

俺は、針で、その範囲を刺した。


「…痛くない」

「痛くない?」

「わかるけど、痛くない。触られてる、ってのは、わかる」


俺は、周りを刺した。


「こっちは、痛い」


リィシャが、息を呑んだ。


「範囲を限定できるのですか」

「できてる」


これは、大きい。

全身を眠らせるのではなく、切る場所だけの痛みを消す。前の世界では、局所麻酔と呼んだ。

全身麻酔より、遥かに安全だ。呼吸が止まらない。意識も保たれる。


「リィシャ。これ、どのくらい続けられる」

「…どのくらいでしょう」


彼女は、やってみた。

半刻。彼女の顔に汗が浮き始めた。

一刻。手が、震え出した。


「もうやめろ」

「まだ、できます」

「倒れるぞ」

「......」


一刻半で、彼女は手を下ろした。

顔が白い。呼吸が浅い。座り込んだまま、しばらく動けなかった。

俺は、水を持ってきて、飲ませた。


「一刻半だ」

「はい」

「それがあんたの、今の、限界だ」

「…もっと、できるようになります」

「なるかもな。でも今は、これが事実だ」


俺は、帳面に書いた。

局所への集中。一刻半。範囲は親指大。術者の消耗、大。

一刻半あれば、たいていの外傷手術はできる。

腹の中も、開けられる。急げば。

------足りる。

俺は、そう判断した。

判断して、筆を置いて、それから、手が止まった。

......待て。

俺は、書いたばかりの行をもう一度見た。

一刻半。範囲は親指大。感覚が鈍り始めるまで六十数える。

------これは、誰の数字だ。

俺の数字だ。

三月のあいだ、俺は、自分の腕でしか測っていない。

俺の皮膚。俺の腕。俺の身体。

その一人分のことしか、この帳面には書いていない。

背筋が、冷えた。


「クレイ?」


リィシャが、俺の顔を覗き込んだ。


「どうかしましたか」

「…あんた、前に言ってたな」

「何をでしょう」

「祈りが効くかどうかは、受けるほうの器にもよる、って」

「はい。そう教わりました」

「俺は」


俺は、自分の腕を見た。

三月のあいだ、光を当てられ続けた腕を。


「前に魔術師と、祈祷師に見てもらった。二人とも、同じことを言った」

「何と」

「俺は、魔力が、薄い」


リィシャの目が、見開かれた。

彼女も、すぐに理解したらしい。


「…では、この数字は」

「一番、器の小さいやつで測った数だ」


俺は、帳面を睨んだ。

一刻半。親指大。六十。

その全部が、俺という一人の、しかも極端に偏った身体から出た数字だった。

器の大きい人間なら、もっと早く効くかもしれない。もっと広い範囲に効くかもしれない。逆にもっと効きすぎて、危ないかもしれない。

わからない。

わからないまま、俺はこれを「使える」と判断しようとしていた。


「クレイ」

「なんだ」

「他の方でも、試せば」


言いかけて、彼女は、口を閉じた。

自分が何を言おうとしたか、気づいたらしい。

俺は、首を振った。


「試せない」

「…はい」

「試すってことは、その人を試しに使うってことだ。それは、しない」

「はい」


物置が、静かになった。

灯りが、揺れていた。

俺は、帳面を見下ろしていた。

------詰んでいる。

正確に測るには、いろいろな人間で試すしかない。だが、それをやれば、俺は自分が一番憎んでいるものになる。

だから、やらない。

やらないから、この数字は、いつまでも「クレイという一人の男の場合」でしかない。

前の世界の医学は、この壁を越えてきた。越え方を、俺は知っている。同意を取り、危険を説明し、断る自由を残し、それでもなお引き受けてくれた人間に協力してもらう。制度があり、監督があり、記録が残る。

それは、ただ人を材料にすることとは、まったく違う。

だが------この世界にその制度はない。

同意も、説明も、断る自由も、この世界の患者は持っていない。彼らは俺に頼るしかなくて、俺が「これを試させてくれ」と言えば、断れない。

断れない相手に頼むのは、頼むことではない。


「クレイ」

「なんだ」

「では、どうするのですか」


俺は、しばらく考えて、答えた。


「患者で試すのは、しない。でも、患者に使った後の、記録はとる」

「…どういう意味ですか」

「試すためには、使わない。使ったら、その結果を数える」


俺は、帳面を開いた。


「その人に一番いい、やり方を選ぶ。選んだ上で、なにが、起きたかを書く」

「それは、試すのとは、違うのですか」

「違う」


俺は、はっきり言った。


「試すってのは、調べるために選ぶことだ。俺がやるのは、助けるために選んで、その後で、数える」


リィシャは、しばらく考えていた。


「…順番が、逆なのですね」

「そうだ」


俺は、頷いた。

その順番だけが、俺と、俺が憎むものを分けている。

同じことをやっているように見えて、違う。何のために選んだか、それだけが違う。

だが、その一線を守る限り、俺の数字は、いつまでも遅れて集まる。試せば一月でわかることが、数年かかる。

その数年のあいだに何人か死ぬ。

------それでいい。

俺は、そう決めた。

決めながら、これが正しいかどうかを、俺は、たぶん一生、確かめられないだろうと思った。


「リィシャ。ありがとう」


彼女が、俺を見た。


「......なぜ、礼を」

「助かったからだ」

「まだ、何も」

「もう、助かってる」


俺は、帳面を見せた。


「これが、あるかないかで、俺のできることが、まるっきり、変わる」


リィシャは、俺の書いた記録を見た。読めない文字の羅列を。

それでも、彼女は、しばらくそれを見つめていた。


「クレイ」

「なんだ」

「私、教会で、十年近く祈ってきました」

「そうだな」

「一度も、こんな使い方は、しませんでした」


彼女は、自分の手を見た。


「誰にも、教わりませんでした」

「そうだろうな」

「…こんなことが、できたのですね。私に」


俺は、答えなかった。

答える必要が、なかった。

彼女は、自分の手を長いこと見つめていた。



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