第26話 白い衣
少女は、俺を押しのけるようにして、子供の傍らに膝をついた。
「頭を打っています。動かさないで」
その判断は、正しかった。
屋根から落ちた子供をむやみに動かしてはいけない。首を痛めている可能性がある。動かせば、そこで終わる。
俺は、一歩下がった。
下がって、観察した。
少女は、子供の頭の傷を確かめ、それから、瞼を開けて瞳を見た。
------瞳を見た。
俺の眉が、動いた。
頭を打った患者の瞳を見る。それは、正しい所作だ。左右の瞳の大きさが違えば、頭の中で出血している疑いが濃くなる。
この世界にその知識があるのか。
いや------たまたまかもしれない。目を開けて確かめる、という所作だけが、意味を知らずに受け継がれている可能性もある。
「主よ」
少女が、両手を子供の頭にかざした。
「この者の傷を癒し給え」
------祈りだ。
俺は、初めて、それを目の前で見た。
少女の手のひらが、淡く光った。
魔法薬と、同じ色だ。だが、質が違う。薬の光は液体の中に閉じ込められていたが、これは手のひらから直接、染み出している。
そして、子供の頭の傷が、塞がった。
裂けていた皮膚が寄り、繋がり、血が止まる。
数秒だ。
人だかりから、感嘆の声が上がった。母親が、その場に崩れ落ちて泣き始めた。
俺は、その光景を冷静に見ていた。
------外から、塞がった。
薬と、同じだ。
祈りも、外から効く。外表皮から先に閉じる。
なら、同じ問題を抱えている。
俺は、子供を見た。
呼吸。浅い。だが、規則的だ。
顔色。悪くない。
そして------瞳。
俺は、しゃがみ込んで、子供の瞼を開けた。
「触らないでください」
「見るだけだ」
左右の瞳。
同じ大きさ。今のところは。
問題は、これからだ。
頭の中の出血は、すぐには症状が出ないことがある。数刻後、あるいは半日後にじわじわと圧が上がってくる。その時、瞳の大きさが変わる。
そうなれば------この世界では、手の打ちようがない。
「あなた、何を」
「頭の中を見てる」
「中?」
「外の傷は塞がった。でも、中はわからない。落ちたなら、中も、切れてるかもしれない」
少女が、俺を見た。
初めて、まともに。
灰色の外套の下、白い衣。頭に簡素な布を巻いている。顔は、まだ幼い。目が大きく、色が薄い。
そして------疲れている。
目の下に隈がある。手が、荒れている。よく働く人間の手だ。祈りだけで生きている手ではない。
「傷は、塞ぎました」
少女は言った。
「神の御業で、癒されました」
「外が、な」
「…どういう意味ですか」
「中の血が止まったかは、わからない」
少女の眉が、寄った。
「癒しは、傷を癒すものです。外も、中も」
「確かめたか?」
「え?」
「中が、治ったって、確かめたことは、あるか」
少女が、黙った。
黙ったのは、答えを持っていないからだ。
俺は、それを見て取った。
この少女は、外の傷が塞がるのを見て、癒された、と判断している。中がどうなったかは、確かめていない。確かめる方法を知らない。
そして、たぶん------確かめようと思ったことも、ない。
「あなた、どなたですか」
少女が、そう訊いた。
声に警戒があった。
「医者だ」
「どこの施療院の」
「施療院じゃない」
「では、どこで免状を」
「持ってない」
人だかりが、ざわついた。
少女の表情が、変わった。警戒から、非難へ。
「無免許で、医療行為を?」
「そうだ」
「それは------」
「怪我、しても、診てもらえないやつを診てる」
俺は、言った。
「二十日、待てないやつを診てる」
少女の口が、開いて、閉じた。
その反応を、俺は見逃さなかった。
この少女は、その言葉の意味を知っている。二十日、という数字が何を指すかを知っている。
そして、それに対して、答えを持っていない。
「…とにかく、この子は癒されました」
少女は、話を戻した。
「あなたが手を出す必要はありません」
「まだだ」
「まだ?」
「半日、見てないと、わからない。もし、目がおかしくなったり、吐いたり、眠ったまま起きなくなったら、中で、血が溜まってる」
「…それは、どうすれば」
「どうもできない」
俺は、正直に言った。
「今の、俺には。頭の中は、まだ、開けられない」
少女が、俺を見た。
その目に初めて、非難以外のものが浮かんだ。
------困惑だ。
この男は、自分にできないことをできないと言った。それが、この少女には、たぶん、意外だった。
「でも、見てれば、わかる。わかれば、次に備えられる」
「次?」
「同じことが、また、起きたときの」
俺は、母親のほうを向いた。
「おかあさん。半日、この子から、目を離すな。眠ってもいい。でも、呼びかけて、起きるかどうか、確かめろ。起きなくなったら、すぐに、俺を呼べ」
「せ、先生、でも、どこにいれば」
「下の方。宿の、裏」
母親が、頷いた。
少女は、その一部始終を黙って見ていた。
そして、俺が立ち去ろうとしたとき、こう言った。
「待って」
俺は、振り返った。
「あなたは、癒しを信じていないのですか」
その問いに、俺は、少し考えてから、答えた。
「信じてる」
「え?」
「今、見た。傷が塞がった。本当だ。嘘じゃない」
「では、なぜ」
「塞がることと、治ることが、同じだと、思ってないだけだ」
少女は、俺の言葉を噛んでいるようだった。
塞がったと、治った。この二つをこの世界は、区別しない。外の皮が寄れば、癒えた、と呼ぶ。中で何が起きているかは、誰も、確かめない。
確かめる方法を知らないからだ。そして、知ろうとすることが、禁じられているからだ。塞がりと、治りの間にある溝をいま、この少女は、初めて、覗きかけている。
俺は、それ以上、何も言わずにその場を離れた。
離れながら、思っていた。
------見つけたかもしれない。
魔法を使える。若い。教会の人間だ。だが、坂の上に籠もっていない。中層に降りてきて、路地の子供を診ている。
そして、疲れている。手が荒れている。
教会の色をした衣で、下の人間を診て回っている人間。
そういう者が、いるらしい。
問題は、あの少女が、教会の説明を疑えるかどうかだ。
疑えなければ、組めない。
俺は、坂の上を見上げた。
半日後、あの子供が目を覚まし続けているかどうかで、少なくとも一つは、わかる。




