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第25話 噂の届く先


十五になった。

医療の腕を売る生活は二年を超えていた。

帳面は、千枚を超えている。紙が足りず、古い記録は要点だけを写して圧縮した。それでも増え続けている。

数が溜まると見えるものが増えた。


一つ。深い傷に魔法薬を垂らして死ぬ患者は、傷の深さが指二本を超えたあたりから、はっきり増える。それより浅ければ、ほぼ問題は起きない。

境目は、指二本。


二つ。汚れた傷を塞いだ後で熱を出す患者は、塞ぐまでの時間が長いほど多い。半日以内なら、十人に一人。一日を超えると、三人に一人。二日を超えると、半分近い。


三つ。手を洗ってから触った患者と、洗わずに触った患者では、後の熱の出方が違う。

------ただし、この三つ目は、数が足りない。


理由は、単純だ。俺は、洗わずに触らない。

洗わなかった場合の記録を作るには、洗わずに触らなければならない。それは、やらない。

だから、この項目だけは、他人の記録に頼るしかない。宿の連中や、路地の産婆や、他の医者もどきがどうしているかを聞き取って書く。

不正確だ。だが、ないよりましだ。

俺は、その不正確さに苛立っていた。

前の世界なら、これは簡単に確かめられた。二つの群を作って、比べればいい。それだけだ。

だが、ここでは、二つ目の群を作るということは、人を死なせるということだ。

その線は、越えない。

越えないと決めているから、俺の証明は、いつまでも半端なままだ。

------半端なまま、殴るしかない。

俺は、そう結論した。

完璧な証明を待っていたら、その間に何百人も死ぬ。半端な数字でも、出せるものから出す。出して、否定されたら、また集める。

それしかない。



その夜、俺は、荷の底から、布に包んだものを取り出した。

光る小瓶が、二本。

母がくれたものだ。家を出た夜から、一度も使っていない。

一年半、持ち歩いている。

俺は、それを灯りにかざした。中の液体が、揺れた。

------使う機会は、何度もあった。

腹の中で臓器が破れて死んだ男。腿の付け根を裂かれて出血が止まらなかった女。あれもこれも、この二本のどちらかを使っていれば、目が出たかもしれない。

使わなかった。

理由を、俺は自分に説明していた。二本しかない。本当に必要な時まで、取っておく。

だが、それは、説明になっていない。

「本当に必要な時」とは、いつだ。

目の前で人が死にかけているより必要な時が、この先にあるのか。

------ない。

俺は、瓶を灯りの下に置いた。

置いて、認めた。

この二本は、切り札ではない。

一人分ずつの、命だ。

そして、二本しかないということは------二人までしか、選べないということだ。

三人目からは、選ばれなかった側になる。

俺は、その事実を口の中で転がした。

使う相手を選ぶということは、選ばなかった相手を決めるということだ。

黒を切るということだ。

俺は、あの日、災害現場でそれをやった。順番と運に負けて、まだ生きている男に黒を割り振った。

そして今、俺の懐には、その選別が、瓶二本という形で入っている。

持ち歩いている限り、俺は毎日、選び続けている。

懐に二本ある、というだけで、俺は、毎朝、選別している。この傷には使わない。この命にも使わない。使わない、という判断を無数に下し続けている。

使わないことは、優しさではない。先送りだ。そして俺は、先送りをいちばん、憎む男だったはずだ。母の一本が、俺の秤を鈍らせている。

使わないことは、判断ではない。

判断の先送りだ。

そして俺は、先送りを最も嫌う人間だったはずだ。

------なのに使えていない。

なぜだ。

俺は、瓶を見つめた。

理由は、たぶん、一つしかなかった。

使えば、母がくれたものが、消える。

この世界に生まれて、俺が誰かに礼を言ったのは、あの夜の一度だけだ。その一度の物証が、この二本だった。

俺は、しばらく、動かなかった。

それから、瓶を布に包み直し、荷の底に戻した。

戻しながら、思っていた。

------情で、判断を鈍らせている。

俺が、一番、許せない類のものだ。腕が悪くて人を殺すのと、何が違う。

だが、戻した。

戻して、灯りを消した。

いつか、使う日が来る。その日、俺は、この二本を情ではない基準で切れるのか。

その問いに、俺はまだ、答えを持っていなかった。



噂は、俺が思っているより遠くまで広がっていた。


「下水口に腹を開ける医者がいる」


そういう話が、街の中層あたりまで届いている、と傭兵の一人が教えてくれた。


「中層?」

「職人街とか、あのへんだ。あそこの連中は、施療院に並べるが、並ぶ順番が遅い。金は少しあるが、寄進するほどはない。そういう連中が、あんたの話を聞いてる」


俺は、その情報を頭に入れた。

上でもなく、下でもない層。

並べるが、待たされる層。

------一番、俺を必要とする層だ。

下水口の連中は、そもそも並べない。だから俺のところに来る。

上の連中は、待たずに済む。だから俺は要らない。

中層は、待つ。待っている間に悪化する。


「行ってみるか」

傭兵が言った。


「銭は、こっちよりいいぞ」

「いく」


俺は、即答した。

銭のためではない。

症例のためだ。中層の患者は、下水口の患者と違う。栄養がいい。慢性の病が違う。年齢層も広い。

それに------

中層には、他の医療者がいる。

坂の上ではない、下水口でもない場所で、人を診ている連中が。

その中に魔法を使える者が、いるかもしれない。



中層は、静かだった。

石畳ではないが、土が固められて、掃き清められている。家は木造で、二階建てが多い。窓には、油紙が張ってある。

下水口の匂いがしない。

俺は、その空気を少し不思議な気持ちで吸った。

同じ街だ。坂を半分登っただけで、匂いが変わる。

紹介された先は、指物師の家だった。主人の妻が、腕を悪くしているという。

診ると、肘の下に膿の袋ができていた。棘が刺さって、そこから膿んだらしい。


「先生、これ、治りますか」

「治る」

「施療院では、順番が二十日と言われて」


また、二十日だ。


「二十日待つと、腕が、動かなくなる。今、切る」

「切る!?」

「膿をだす。切って、洗う。それだけ」


俺は、湯を沸かさせ、手を洗った。

女は怯えていたが、俺が「これでも、痛いのは半刻だけだ」と言うと、渋々、腕を差し出した。

半刻。それが、この世界の外科の単位だ。

麻酔がないから、半刻を超える処置はできない。

------早く、作らなければ。

俺は、そう思いながら、刃を入れた。

膿が出た。かなりの量だ。中を洗い、死んだ組織を取り、開けたまま布を当てた。


「三日、毎日、布をかえる。俺が、来る」

「あの、先生」

「なに」

「先生は、どこで修業を?」


来た、と思った。

中層では、この問いが来る。下水口とは違う。ここの連中は、結果だけでなく、出所を気にする。


「おやじが、医者だった」

「どこの?」

「下の、方」


女の顔に微妙な色が浮かんだ。

下水口の医者。免状のない医者。詐欺師と紙一重の連中。

その息子。

俺は、その顔を覚えておくことにした。

この壁は、これから何度も来る。

そして、この壁は、いずれ致命的になる。

俺の技術がどれだけ本物でも、出所が説明できない限り、俺は「怪しい男」のままだ。

権威が要る。

あるいは、権威を持つ誰かの後ろ盾が。




三日目に女の腕を診に行った帰りだった。

路地の角で、人だかりができていた。


「どうした」

「子供が、屋根から落ちた」


俺は、人をかき分けて、前に出た。

十歳ほどの男の子が、地面に横たわっている。頭から血が出ている。母親らしい女が、取り乱して叫んでいた。

俺は、しゃがみ込んで、確かめようとした。

その時。


「触らないで」


声がした。

若い、女の声だった。


「動かしてはいけません。私が診ます」


人だかりが、割れた。

割れた先から、一人の少女が歩いてきた。

年は、俺と同じくらいに見えた。

灰色の外套の下に白い衣が覗いている。

教会の色だ。



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