箒に乗った少女
僕はほんの少し前まで、日本にいた。
学校の帰り道を一人で歩いていたとき、突然、足元が光りだし、目の前が真っ白になった。
気がつくと、足元には熱く柔らかな砂が広がっていた。
頭上からは眩しい太陽が照りつけ、乾いた空気を吸い込むだけで喉が渇いていく。
僕は、砂漠にいた。
現在地を調べようとスマホを取り出したが、画面には「圏外」と表示されていた。
「え? どういうこと?」
一瞬、夢かとも思った。
けれど、ここに来る直前までのことははっきり覚えている。この肌を焼くような暑さも、喉の渇きも、夢とは思えないほど生々しかった。
たしか、砂漠で遭難したら、むやみに動き回るなって聞いたことがある。汗をかいて、すぐに体力と水分を失うからだっけ?
でも、ここでヘリが来るのを待っていたら、それこそ焼け死んでしまう。
せめて、どこかに日陰でもあれば――。
周囲を見渡すと、砂に半ば埋もれた四角い石造りの入口が見えた。
入口の石組みには何本ものひびが走り、その奥には地下へ続く階段が伸びていた。
そこへ向かおうとした、そのときだった。
僕から少し離れた砂地に、空を引き裂くような巨大な雷が落ちた。
一瞬遅れて、轟音が体の芯まで響き、足元の砂が大きく揺れた。
どういうことか考える暇もなかった。
今度は雷が落ちた場所の地面が大きく盛り上がり、砂を吹き飛ばしながら巨大な頭と太い胴体が飛び出してきた。
顔と呼べるのかも分からない。
目がない。
耳も、鼻らしきものもない。
あるのは、人間一人を丸ごと呑み込めそうな円形の口だけだった。その内側には、獲物を逃がさないよう内向きに曲がった短い牙が、幾重にも並んでいた。
口の周囲や外殻の隙間には、針で開けたような小さな穴が無数にあった。
その後ろには、腕も脚もない太い円筒状の胴体が続いていた。全身は砂岩を思わせる黄褐色の硬い外殻に覆われ、何層もの装甲板が節に沿って重なり、その表面には細かな傷や亀裂が刻まれていた。
見た目は、ミミズをそのまま巨大化させたようだった。
外殻の一部は黒く焦げ、細い煙を上げていた。どうやら、さっきの雷が身体をかすめたらしい。
その姿を見た瞬間、腰から力が抜けそうになった。
それでも僕は、遺跡の入口へ向かって一目散に走りだした。
止まったら死ぬ。
そう直感した。
砂漠の暑さも喉の渇きも忘れ、僕は必死に走った。後ろを振り返る余裕なんてなかった。
入口まであと少しというところで、不意に頭上が大きな影に覆われた。
見上げると、あの巨大な口が頭のすぐ上まで迫っていた。
僕を丸ごと呑み込もうとしている。
もう駄目だと思った、その瞬間。
入口の奥から、箒に乗った少女が弾丸のように飛び出してきた。
僕と同い年くらいに見えるその少女は、すれ違いざまに片腕を僕の腰へ回し、そのまま僕の身体を宙へさらった。
直後、化け物の口が僕のいた場所で閉じた。
「少しだけ、このまま我慢してね」
少女は僕を片腕に抱いたまま、微笑んだ。
聞き慣れない響きなのに、なぜかその意味だけは、はっきりと理解できた。
少女は化け物へ顔を向け、静かに言葉を紡ぎ始めた。
続く言葉が僕に向けられたものではないことだけは、すぐに分かった。
「白日の天よ、今ひととき光を伏せよ」
その言葉が終わった瞬間、頭上にはまだ太陽があるのに、その光だけが急速に失われていった。
周囲の砂漠一帯が、真昼とは思えない暗がりへ沈んでいく。
目も耳もないはずの化け物は、それでも迷うことなく僕たちへ大口を向けた。
少女は僕を抱いたまま箒を急旋回させ、迫る牙をかわした。
それでも、その声は少しも揺らがない。
「雲なき空を巡る雷霆よ、古き理に従い目覚めよ」
肌が粟立ち、腕の産毛が逆立った。
僕たちと化け物を包囲するように、周囲の空間に幾何学模様を描いた光の輪が一つ、また一つと現れた。
魔法陣――そうとしか思えなかった。
「我が魔力を鍵とし、我が声を道標として、幾重の陣を虚空に刻み、逃れ得ぬ雷獄をここに結べ」
少女が言葉を重ねるたび、魔法陣はさらに数を増していった。
陣に刻まれた模様が回転し、そのあいだを細い稲妻が走り抜ける。
「幾条の閃光を一つに束ね、ただ一度の裁きと成せ。響く雷鳴は一度きり」
周囲の空気が、押し潰されそうなほど重くなった。
化け物も何かを感じ取ったのか、大口を開けて僕たちへ迫ってきた。
そのとき、少女がかすかに笑ったような気がした。
少女は周囲に浮かぶ魔法陣を保ったまま、空いている片手を眼下の砂へ向けた。
周囲の砂が一斉に持ち上がり、渦を巻きながら圧縮されていく。
砂は幾つもの太い輪となって噛み合い、巨大な鎖へと変わった。
鎖は化け物の頭部と長い胴体に次々と巻きつき、その両端を地中深くへ突き立てた。
化け物が身をよじるたび、固められた砂の鎖に亀裂が走る。
長くは持ちそうにない。
少女は砂へ向けていた手を持ち上げ、今度は僕たちの前へかざした。
薄く透き通った光の膜が広がり、僕たちを包み込む。
「されど、その一度をもって、すべてを終わらせよ」
すべての魔法陣が、同時に眩い光を放った。
「古代雷魔法――ヘヴンズ・ジャッジメント」
各魔法陣から、一発ずつ雷が放たれた。
幾条もの雷が寸分違わぬ瞬間に化け物へ突き刺さり、目の前の世界が真っ白に塗り潰された。
僕は反射的に目を閉じた。
白い光が瞼を貫き、その直後、幾つもの落雷が一つに重なったような轟音が全身を叩いた。
光の膜越しなのに、身体の芯まで揺さぶられる。
最初に落ちた雷とは、比べものにならなかった。
やがて轟音が遠ざかり、煙が晴れていく。
失われていた昼の光も、いつの間にか戻っていた。
そこに残っていたのは、黒く焼け焦げ、原形も分からないほど崩れた化け物の外殻だった。
その周囲では、熱で溶けた砂が赤く輝くガラス状の液体となって、地表をゆっくりと流れていた。
少女はその光景を見下ろし、ぽつりとつぶやいた。
「あ、やりすぎた」




