弱みを握られたので
「社長、結婚が事後報告って何ですか?」
笑顔なのは事務をお願いしている村井さん。会社の事務・総務全般をお願いしている。大変頼もしく、正社員にしたいけど収入の壁的な意味合いで現在もパートだ。
その彼女が今、すごく、笑顔。背景に関連各所からの問い合わせの対応するのこっちだぞと書いてある気がした。
僕は視線をそらした。
「事情があって入籍もちょっと間があくし、こっちにもすぐに引っ越してこない別居だから、うるさいかなぁって。
ほら、温泉協会が、さ」
「それなら、わからなくもないですね」
難しい顔で彼女は納得してくれたようだった。
温泉協会は温泉街の社長やオーナーが所属している団体だ。基本的に暇な隠居が会長をしている。若い子は少ない。そのせいか、時々やらかしてくれる。
僕が結婚すると話をした瞬間にいつどこで披露宴するとか、呼ぶのは誰だと喧しくなる予想が立つ。さらにこちらの事情を聞く前にいつ挨拶に来る? と始まるのが見えている。早くこちらに住んで子どもがどうとか。
それ全部、今の時代やっちゃいけないこと! と言っても、身内としてならいいだろうという甘えたところがある。
だから、事後報告。どこから情報が漏れるかもわからないので箝口令も意味がないし。
本当は関係各所に黙って結婚するというのはまずいものだろう。ただ、僕が地主だ。いやなら出て行けと言える立場は大変ありがたい。そういう匂わせもしたくはないが、場合により致し方ない。
ただ、正直なところ彼女に直接言われる可能性は低い。
彼らは女性の口コミをバカにしない。SNSで愚痴の一つも書かれれば大炎上の可能性を懸念する。
そういう勘の良さと前時代的認識の絶妙ミックスでぎり生存を許されているところはあった。
「では、こちらでも手続きをします。奥様が扶養に入るか役員として入社されることでよろしいでしょうか?」
「働いているからそれはまた別のときに。年末調整で書類書くくらいかな」
「わかりました。では、社内規定のお祝い金の申請と……」
淡々と進むが、本当に、ヤバい案件を言っていない。
差し込む隙を探すが、やはりなにもない。自然な割り込みできず。
「では、後ほどこの書類を」
「あ、そうそう。苗字変わったよ。
今度は成瀬に」
「はぁ?」
聞いたことのない低い声だった。眉間にしわだけではない目を細めて、殺気すら漂っていた。
そうなるよね。わかってた。
僕は、この一帯の土地の地主。もちろん権利関係の書類に全部名前が入っている。苗字を変えたら、どうなるか。
当たり前のように、全部、書き換えになる。
手続きなどの都合を考えると陽葵に姓を変えてもらうほうが都合がいい。色々やった後にやっぱり苗字変わりますという気まずさはあるだろうが、頼めば応じてくれる可能性は高い。
でも、そうしたくはなかった。
公式に名を変える機会など普通はないものだ。
成り代わりではなく、自分たちだけの名を得る機会。そして、ちゃんと返すための。
「至急弁護士先生と税理士の先生を呼んできてください」
朗らかといいたいくらいの声に震えた。
「ああ、地銀の担当にはこちらから連絡します」
「ごめん」
「いいえ、おめでたいんですものねぇ」
さすがにこれは嫌味に聞こえた。言われても仕方ない。
その後、なに考えてんです? と関係各所には言われ、奥さんに変えてもらえませんかと泣きつかれたが断った。
そこをなんとかと積む金があってよかった。
その後、土地関係で曖昧だった境目を訂正したり、不要契約の処理などもできたから良かったことにしようと一同無理に納得していたようだった。
その中で僕は一つ疑問があった。
「村井さん、どうして奥さんのほうに変えてもらおうとか言わなかったんだい?」
ただの一度も言わなかった。
彼女はつまらなそうに僕を見てため息を付いた。
「雇用主になにか言うのはおこがましい」
そのとおりである。正しく雇用関係。
「というのは建前」
続きがあった。
「あの世の中つまらんという顔をしていたぐうたら社長をここまで変えるような女傑を逃がしたら、社長がかわいそうだと思ったからですよ」
にやにやしながらそう言われて、奥様ってどうなんですか、と言われることになった。弱みのある僕には黙秘権が存在しなかった。
もしかしてこのために?
その後、散々聞かれた結果、社長は奥さんが好き過ぎると流布するのはもう少しあとの話。




