魔術師と礼儀正しい鳩
ルキウスは困惑しながら王宮の庭を通り過ぎた。
いつもならばパン屑のひとつでも寄越せとうろつく鳩が、羽を広げ地面に頭を擦り付けている。
「ええ……?」
なんなんだ、と扉に手を掛けようとして、指先が空を掻いた。
扉を開ける前に、扉が勝手に開いたのだ。
いよいよルキウスは察した。
「あいつだな……」
ルキウスがぼやいている頃、魔術師塔ではテオドールが机に向かっていた。
顔色も、声も、所作も、一見すると普段と変わらない。
ただ、机の上には王宮全域の略図が広げられ、その上を淡い光の線が細かく走っている。
「テオドール様、それは何を……」
ユリアンが声を掛けると、テオドールは机から目を離さないまま答えた。
「そろそろ夏の対策をしようと思ってね」
「はあ……で、その対策というのは……」
「王宮に風速3mくらいの風が吹くようにしようかなと思ってね」
「はあ」
「そうだな……外気温に応じて……」
「あの、テオドール様」
「いや、柱を氷にする方がいいかな、どう思う」
「どうと申されましても」
ユリアンが慎重に止める間にも、テオドールの指先は止まらない。
王宮全域の略図に、淡い青の線が次々と走っていく。
中庭、回廊、謁見の間、騎士団の訓練場、厨房、使用人棟、王族の居住区。
「あの、何故急にこんな整備を」
「なんだかそんな気分でね。それにもうだいぶ暑くなってきただろう?」
「……そうでしょうか?」
ユリアンが窓の外を見る。確かに晴れてはいるが、まだ風は冷たいくらいだ。
魔術師達はジャケットの上にローブを重ねているし、庭の木だってまだ花さえつけていない。
その時、バタンという音と共に扉が勝手に開いた。
「テオ」
ルキウスが入ってくるなり、テオドールの指先がほんの少し止まった。
「俺、鳩に礼されたんだけど。お前何したの」
「ああ、礼節は必要だろう?」
ルキウスは机に近づき、図面を覗き込んだ。
青い線はすでに王宮全体へ伸びている。
中には、明らかに王族の居住区まで伸びているものもある。
「何これ」
「夏の暑さ対策」
「早くないか?」
「そんなことないよ。もう暑いだろ」
「……そうか? 今日は寒いくらい……」
ルキウスはそこで、ようやくテオドールの顔を見た。
いつも通りに見える。背筋も伸びているし、声も乱れていない。
ただ、灰色の瞳の焦点が、ほんの少しだけ合っていなかった。
「暑さのせいでぼうっとするよ。ああでも、君の言うとおり時々寒い気もするな。変な天気だね」
「……テオ」
ルキウスは返事を待たずに、机の向こうへ回り込んだ。
ユリアンが、何か言いかけて口を閉じる。
ルキウスの手が襟元のすぐ上、髪を避けて白い首筋に触れた。
「……ルキウス?」
テオドールの声が、一拍遅れる。
ルキウスは答えなかった。
指先に伝わる熱を確かめるように、ほんの少しだけ首筋へ触れる。
そのまま指を滑らせ、顎にかけた。
軽く持ち上げるようにして、テオドールの顔を上向かせる。
ユリアンの喉が、音もなく引き攣った。
テオドールが逃げ遅れたように瞬きをする間に、ルキウスはもう片方の手で、テオドールの片目を隠す黒髪に触れる。
指先でそっと前髪を掬い上げると、普段は隠れている額が露わになった。
その仕草があまりにも丁寧で、あまりにも慣れていて、あまりにも自然で。
ユリアンは、今度こそ息を止めた。
「る、ルキ、何……」
テオドールの声が、小さく掠れる。
ルキウスは何も言わない。
前髪を上げたまま、ゆっくり身を屈める。
テオドールが固まった。ユリアンも固まった。
距離が詰まる。
逃げ場をなくした灰色の瞳が、ほんの少し見開かれる。
ルキウスの顔が、さらに近づく。
ユリアンは、書類を握る指に力を込めた。
こつん、と額と額が触れた。
「やっぱり。テオ、お前熱あるだろ」
沈黙。
ユリアンは、そこでようやく息を吐いた。
「熱……?」
「あっちいもん、首とか」
ルキウスは当然のように言って、額を離した。
そして上げていた前髪を、元の位置へ戻してやる。
テオドールはしばらく黙っていた。
「お前いつまでたっても自分の体調不良わかんねえよな。わけわかんねえことしてる時大体風邪ひいてんだから」
「……」
「寝ろ」
テオドールは少しだけ黙って、納得がいかないように眉を寄せた。
ルキウスとユリアンが半ば無理矢理にテオドールの腕を掴んで椅子から立たせ、テオドールの私室のベッドに放り込んでなお、テオドールはぶつくさと文句を垂れていた。
「二人とも大袈裟だよ。このくらい治癒術式かければ大丈夫だって」
「駄目ですテオドール様。体は治っても体力までは戻りません」
「いいから寝ろって。たまには休めよ」
ルキウスが濡れ布を額に乗せると、テオドールはようやく目を閉じた。
規則正しい寝息が聞こえてきて、ルキウスとユリアンが顔を見合わせて少し笑った。
部屋の外では、礼儀正しくなった鳩がまだ王宮の庭で頭を下げている。
これを書いている今、わたしは38.4度の熱が出ています。




